告白
放課後は眠気と同じように毎日やってくる。
課が放たれる以上は、用もないのに教室に居座ることはおかしい。課業中は勉強という名の下に教室内にとどまることに大義名分が与えられるが、放課後というのは自由の時間だ。自由という刑の中に、生徒は取り残されなければならない。
傍らにいるということ、そこに理由が与えられなくなる。それが当夜にとっての刑だった。隣の席の生徒は、放課後に突入すると、すぐさま帰宅しようとする。
この机から立ち上がったら、もう今日はこれ以上彼女の姿を見ることはできないのだろう。当夜はそう思った。このまま浮ついた放課後の教室の空気に流されてしまっては、いつの間にか大切な瞬間が過ぎ去ってしまうことを失念することになるかもしれない。
小町が机から立ち上がりかけた瞬間、当夜は話しかけた。
「小町さん、ちょっといいかな?」
あくまで自然に、自然に、と自分に唱えながら、当夜はそう話しかける。小町は良いとも悪いとも表明しないような顔で振り返った。無言のまま、当夜の次の言葉を促す。
当夜はあえて黙ってみた。それは精一杯の機転だった。小町から言葉を発させることに、当夜は大きな意義を見出していた。
「うん」
毒にも薬にもならない応答。それが模範解答で、最も無難だ。
当夜は少しだけがっかりする。でもすぐに、それが当たり前なんだと思い始めた。小町はあの時きっぱりと、愛想の良い姿は当夜には見せないと宣言したのだから。
当夜はなぜか自分の背中に何かを隠している。別に隠す必要のないものだった。なんなら隠さない方が会話はスムーズに進むくらいだったが、なぜか本人は隠さないといけないような使命感を感じたのか、それを隠していた。
「頼みたいことがあるんだけど、今時間良い?」
小町も、それは学級委員絡みの用事だと察した。そして、無言で、無表情で頷く。態度を最大限に保留したまま、小町は当夜の方を向いていた。
「このプリントなんだけど」
当夜はそう言うと自分の背中に隠していたプリントを小町の方に差し出す。そんな所作をしてみて、自分がどうしてわざわざこのプリントを隠そうとしたのだろうと、当夜は不思議に思う。
「先生から頼まれていたやつだけど、多分クラス全員分集まったと思うから、確認してもらえるかな?」
不自然ではあった。そもそも、その程度のことは自分でやれば良いという話だったから。結局、小町への頼み事など当夜の口実に過ぎなかった。
それでも、そう言われてむげに断るのもなんだか不自然だ。その絶妙なバランスを保った所で、小町は返事をした。
「……分かった」
ごく静かな声だった。
教室の中からは、気づけばほとんど人は消えていた。それはいつものことで、皆部活やら用事やら帰宅活動に打ち込んでいるようだった。
当夜と小町が二人で話している光景は、確かにこのクラスの中では異様に思えることだったが、それはいつしか興味の対象というよりは、不気味なものとして扱われるようになったので、野次馬もいなかった。
小町はプリントの束を受け取って、自分の机に座り直す。やはりその表情に動きはなく、淡々と自分の仕事をこなしているという感じだ。
「三十八枚、これで大丈夫でしょ?」
起伏のない声ですぐに小町は当夜の席に向き直る。当夜も、気が付けば小町と同じようにして自分の席に座っていた。
当夜は座ったままそのプリントを受け取る。
「ああ、ありがとう」
「それじゃあ、私、帰るから」
小町は無駄のない所作でさっと立ち上がり、身を翻す。その様は白鳥のように優雅だった。
「ちょっと待ってよ、小町さん」
当夜がそう呼び止めると、二、三歩の間はそのまま進み、その後で小町は振り返る。
少し距離が離れたせいで、却って当夜の視界に映った小町の姿はより臨場感を増して見える。
その視界は小町の全身を捉える。最近はきちんとこの姿を、正面から見たことはなかった。やはりとてつもなく美しい。スラリと長く伸びる足から、指先にかけて流線を描く細長い手、高く整った鼻に透き通る瞳。
その整った顔に浮かぶ表情は読めない。なんだか恐ろしいとさえ感じてしまう。
それでも、それをもう少し自分に近づけようと当夜は決意した。
「ちょっと話していかない?」
「……」
小町はその振り返った姿のまま無言だった。しばらくすると、そのまま教室の扉の方に向き直して、当夜に背を向けた。
「それって、業務命令、ってやつ?」
そこはかとなく冷たい声で小町は言う。当夜はそこで一瞬挫けそうになった。それでも足掻こうとした。
「まあ、そういうことでもいいからさ」
すると、意外なことに小町はまた当夜の方に振り返ってくる。小町はため息をついて呆れ顔だった。
それでも小町は当夜の隣の、自分の席の椅子に手をかける。
椅子にすっぽりと収まるように、小町は流れるような動きで腰掛けた。やがて椅子の向きを斜めに向けて、その視線は真横を向く当夜の正面に若干かかる。
片目の眼力が強く効いたそのアングルに、当夜はドキリとした。痺れるような感触を体に味わう。それは、美への尊崇でもあり、迫真への恐怖でもあった。
「……ねえ、用件はなんなの?」
「あっ、そうだよね、えっと……」
自分が立てた業務命令という大義名分も忘れて、当夜はただ呆けていた。小町の表情は堅く、恐ろしかった。
それでも、それがどういうものであれ、小町が感情を見せてくれること自体が当夜には嬉しかった。自分はまだ、無視されるには至っていないのだという感覚。それは当夜にとっては希望を意味していた。
「あのさ、僕って学級委員になったでしょ?」
「言われなくても知ってる」
ぶっきらぼうに小町が返す。当然といえば当然の返事だった。
「その理由ってさ……実は……」
ついに、核心へと近づいていく。一度引こうと決意した、そのトリガーに指をかけていた。小町の眉が、少しだけ動く。何かが始まる予感が、当夜にも、小町にもあった。そんな雰囲気が、この場には漂っていた。気が付けば教室にはもう誰もいない。何か決定的な扉が、次の一言によって開かれるのか……
もっと深く。もっと深くに。浅瀬でパシャパシャとやっていた、浅い言葉遊びなんかじゃない。何か決定的な、この場を動かせるような一言が必要なんだ。
そしてそれは、ただ言葉を弄することではなし得ない。本当の、実体のある思いや行動がそこに連なって、初めてそれが実るのだ。
今彼は、赤裸々にそれを開示しようとしている――
「僕、小町さんに――」
その瞬間、今までほとんど表情を動かさなかった小町が目を見開いた。次の瞬間に、決定的な何かが始まることは、もう小町の目には明らかだった。
「踏まれたかったんだ」
「は?」
ここ数日の世界で一番純粋な素の女の声が、その教室の中には響いた。