背中を押す
「それでは、もう一人の学級委員は当凪くんに任せます」
押上先生がそう宣言すると、教室からは拍手が起こる。戸惑いを象徴するまばらなリズムをはらみながら、その打撃音は部屋の中に響いた。
「それでは、今日のホームルームはこれで終わりにします。後で学級委員の二人は、今度の学級委員会のための資料があるので私のところに取りに来てください。それじゃ、何か連絡のある人は――」
そうしてホームルームはお開きとなった。さようなら、とクラスで一礼した後、当夜と小町はそれぞれ別の通路から足並みをそろえて教壇の方まで向かう。
押上先生から詳しい説明を受けた後、また二人は自分の席まで戻った。気の早い生徒と忙しい生徒は、もう早速教室の中から散り始めている。押上先生が教壇を片付けて、教室から出ていった頃にはもう教室の中の生徒はまばらになっていた。
気が付けば、当夜と小町の学級委員二人の中の空気は、他の教室内の空間とは隔絶している。何かを話さなければいけないようでもあるし、ただ黙っているのが正解なようでもある。
そこで当夜は、口を開くことを選択した。
「よろしくな、小町」
その瞳は、しっかりと小町の美しい姿を反射している。しかし当の小町は、美しい人形のように、なんだか声を発してくれそうでくれなさそうだ。
しばらくの間小町は沈黙した。今この場で何が起こっているかを捉えかねて、小町は困惑していたがその困惑を抑えるかのようにポーカーフェイスを貫く。そして極めて単純に、抑揚のない声で答えた。
「……よろしく、新しい学級委員さん」
役職での呼び名は、その相手への思い入れを必死に隠しているようだった。
ごくシンプルな挨拶を交わした後、当夜は教室を後にする。今はこれ以上追求しても、小町は口を割りそうにはなかった。大切なのは、ただ待ち続けて他力本願に縋る気持ちではなく、自分が何かを動かそうという心構え。だとすれば、自分がまだ何もなさないままに進展に期待するのは間違っている。
噴水の広場の前を通って正門を出る。新緑に彩られた並木は、そろそろ板についてきたように感じる。実際には、こういう風景に慣れも何もないのだから、その慣れというのは見る人の慣れなのかもしれない。
そして、帰りの通学路を北側に向けて歩く。まだ日はそれほど傾いてはいない。春になって、随分と日が長くなったと感じてから、より一層それが長くなってきたように感じる。ただ感じるだけじゃなくて、おそらく実際にもそうだ。
自分の足音はほとんど無音だ。それもそうだろう。その音は、車の通る音だとか町の賑わいだとか他の歩行者にかき消されてしまうのだから。歩道と道路の間に渡っている並木から、歩道を隔てて並ぶ店舗。その大きな窓からくつろいでいる人々を当夜は眺める。なんだか自分が、楽しさを横目に世界に一人取り残されたような感じがした。
「当夜ー!」
すると、後ろから自分の名前を呼ぶ声を突然当夜は聞く。
眺めていた窓から一旦右手の並木の方に向き、それから自分の後ろを向く。不思議と270度の無駄な回転をする。
現れたのは万智だった。
「おやおや、今日も寄り道ですかい?」
「そうですとも、寄っているどころか、外れているけどね」
万智はここから通りを南側に進んだところに住んでいるらしい。ということは、今通りを北上している当夜とは反対方向に行くべきなのだ。
「一人で帰ってるみたいだから、寂しそうだなぁ~と思って」
「帰宅ぐらい一人で十分だろうに」
「……こういう適当な理由でも側にいるもんでしょ、幼馴染ってやつは」
「そういうものなのかな」
万智は当夜に追いついて横並びになる。
一瞬だけ足を急かした万智の息遣いを当夜は感じる。
通りの奥に見える立派な駅舎と駅ビル。きっと、その道のりが終わるまでの二人の時間だ。
「これって、下校でーと、ってやつかな?当夜?」
「さっき『適当な理由』って言ってだでしょ」
「デートも大概適当な理由でやってるものじゃないの?」
もう随分と二人は軽口を叩きあうことにも慣れてきた。
近づきすぎることも、離れすぎることもない距離感はお互いに心地良い。幼馴染という枠組みがあって、それが崩れないのであれば、その枠組みは引力と斥力のバランスをうまくとってくれる。
「それじゃあ、数百メートル分のデートってことで」
当夜は万智のお遊びに同調した。
「そうそう、それが良いよ」
そうして、浮ついた気分を装って歩いた距離が数歩分。
「なあ、万智……」
「うん?どうしたの?」
二人は横並びになりながら、正面を見てそう言い合っている。決して相手に目を合わせることがない。そうする必要も、どうもないらしい――
――そうやって必死に伝えようとせずとも、言いたいことはおそらく伝わるのだ。だってそれは、もう分かりきったことだから。どうして分かりきっているかって?
それは……幼馴染だから?
「僕に気を遣ってくれているんだろう?別にいいさ、ストレートに話したって」
「……そう」
万智は含みのある声でそう返す。そして、いきなり歩いていた足を止めた。
数百メートルの幻想は、この話をするには短すぎた。当夜は勢い余って万智から数歩足踏みした後、後ろを振り返る。町並みが見えた。並木が見えた。せわしい道路が見えた。瀟洒な店の群が見えた。電信柱が見えた。道の先に開けた光が見えた。
そしてその視界の中心に、日に照らされる万智の姿が見えた。
「……学級委員に立候補したんだよね?」
「……ああ」
当夜には分かっていた。万智はきっとこの話がしたいんだろうと。
それもそうだ、今の自分を見たら、これが万智じゃなくても、例えば過去の自分であっても、その真意を問い正そうとするだろう。
「当夜が何をしたいのかは、私には分からない、本当の意味で」
付け加えるように万智は「本当の意味で」という。その推測が外れたときの免罪符のように。あるいは話したくない事柄に突入しないように、論点をずらしておくかのように。
本当は万智にも当夜のやろうとしていることに予想はついていた。ただ、それを口にすることを万智は憚った。
「それでもさ、私は当夜を応援するよ、だって、だって――幼馴染だから」
少しだけ寂しそうな表情を万智は浮かべた。それでも、場が動揺せずにはいられないというほどの、決定的な行動は取らなかった。あくまでその感情は、秘匿し切れないとはいえ、顕在化するのをなるべく妨げられている。
「……ありがとう、本当に、――万智」
当夜は意味ありげに相手の名を呟く。それは単なる呼びかけではなかった。
言うなれば、静かな叫びのようなもの。思いを圧縮したカプセルのようなものだった。
「一つ、言いたいことがあるの」
万智の目線は、もっともっと真剣さを増していた。当夜はもう、雑然とした景色の中でただ自分の視界の中心にいる人物のことしか捉えられなくなっていた。
「これはね、アドバイス、とか、そういう偉そうなものじゃなくて……」に
「ただ、私の思ったことそのまま、何の根拠も、何の権威もない」
「……万智の言葉だったら、聞きたいよ」
万智は含むように笑った。
「嬉しいこと言ってくれるじゃない」
「あのね、変化することを恐れちゃいけないんだと思う。――まあでも、当夜に言うのはもう今さらかもしれないね――」
「変わることも、変えることも恐れてはいけない。それが人の営みそのもの――だと思うから」
そう言いながら、万智の視線の先は少しずつ揺れていった。まず初めに、当夜の姿よりも遠くにある駅舎にそれは向いた。そして、そう言い終わった後、万智は恥ずかしそうに自分の手近にあるタイルに顔を下げた。
「例えば、ね、私たちの――関わり方……が、変わった、としても」
たどたどしく万智は言った。必死で言葉を選ぶようにして、決して当夜と目を合わせることなく言った。
「ああ」
当夜はただ、そうやって頷いた。
万智はまた、生気を取り戻したかのように、当夜を見つめ直す。そして、今度は自信を持った表情でこう言った。
「行って来なよ、そしてまた、自信を持った表情で、帰っておいで――」
「――私の所へ」と万智は言おうとしてやめた。自分の頭にそんな思考が駆け巡ったことに、万智は「自分はなんて自意識過剰なんだろう」と思った。
「本当に、ありがとう」
「僕にとって万智は唯一無二の――幼馴染だ」
そう言って当夜は手を上げて、駅の方へ立ち去っていった。
万智は、「これでいいんだ」と思うことにした。