まさかのお隣さん
一体彼女は――九段下小町は――どういう人間なのだろうか?
当夜の頭の中には、その疑問が色濃く残っていた。
関わることはない、そんな風に自分に言い聞かせてみても、その気持ちが止むことはない。あの時、たまたま門の前でぶつかってから、見てはいけない世界に踏み込んでしまったような心地がしていた。
教室の戸を開けると、生徒達の喧騒を一身に身に受けることになる。
まだうるささに慣れていない耳が過剰に反応したところで、机の中をすり抜けた数人が二人の方へやってきた。その内の一人である和光咲哉が言う。
「月見野 エンド トゥナイト、おはよう」
「お、おはよう」
月見野は気まずそうに答える。おそらくは当夜の気持ちに同情しているのだろう。
「い・い・か・げ・ん・にしてくれ!何度言ったら分かるんだ、日本の伝統文化をもっと尊重するんだよ!!」
当夜が喧騒に見合うくらいの少しだけ大きな声で答える。本当に心から嫌がっているようには傍目には見えないのが、この呼び名で呼ばれ続けている一因なのだろうが、本人は至って真剣に反論している。
「伝統文化の問題なのな……」
最大の理解者である月見野も思わず突っ込んでしまう。
「まあまあ、落ち着いて、とりあえず座ろう、な?」
もうそろそろホームルームの時間だ。とりあえずまだ自分の席も把握していないことだし、各々は自分の席を見つけることにする。席は出席番号でランダムに振り分けられている。おそらく席替えの手間をなくすためだろうが、そこは効率化してはいけない所であるように当夜も、他の友人達も感じる。
もちろん、クラス替えということもあって、大抵の人のことは全然知らない。一番後ろの席である当夜の周りも、また知らない人ばかりだった。
ホームルームも始まる前に他人に話しかける甲斐性は彼にはない。隣の席以外の生徒は出揃っているようだが、皆はおそらく前も一緒のクラスであったのだろうメンバーと話したり、一人でぼーっとしていたりしている。
チャイムが鳴る。新学期だから皆まだ真面目なのだろうか、担任も来ていないのに既に着席している。
隣の席の人は依然としてやってこなかった。六列ある席の内で、一番後ろの真ん中二列の左側に当夜はいる。その右側の席の住人は未だに謎。他の席は出揃っていた。
席の周辺にコミュニティーがある幸運な人間と、自分で新しくコミュニティーを作れる強者はまだ喋っているので、教室の中は未だ喧騒に包まれている。月見野はというと、やはり後者の部類に入っているようだ。
周りの人間は新しいけれど、やっぱり教室の雰囲気というものはどこに行っても変わらない。代わり映えのしない日常が、今日もまた始まろうとしているのか……そんなことを当夜は考えていた。
その時だった。
ガラガラと大きな音を立てて教室後ろ側の扉が開く。
教室にいる生徒達は皆後ろの動向に注目。それにつられるようにして、当夜も横を向いた。
焦って体の向きを変えたため、座っていた椅子が予想外の音を立てる。しかし、扉の向こうに見えている異様な姿を前に、そんなことには構っていられない。
九段下小町だった。異様と言っても、何か恐ろしい形相をしているだとかいうことはない。本人は至っていつも通りの見た目。ミドルヘアの髪型や鼻筋から顎まで、ずっと一筋に透き通った顔に、究極的に均整のとれた全身のシルエット。太っているわけでもなければ、不健康なまでに細いというでもなく、絶妙なまでに若さと曲線美を醸し出すその見た目。
それが、この凡庸な教室とはあまりに異質であった。
男子も女子も含めて、相手に構わずまじまじと小町の姿を見る。当夜もまた、小町の姿に惹きつけられた。
その集まる視線を気にするでもなく、カツカツと音を立てて堂々と教室の中を歩んでゆく。その足は、当夜の方向に向いていた。
当夜は何が起きているか分からなかった。近づいてくる小町は、非現実のようにフレームの中に収まっていたようにも見えたし、生々しい現実感を持って、当夜の心の内に収まっていたようにも思えた。
そして小町は当夜の右隣の席まで来る。そして、なにか声を発するでもなく当然のように座った。
当夜は依然その横顔に気を取られている。澄んだ小町の横顔と、淀んだ教室の空気との間でコントラストが生じているようにさえ感じる。生々しい質感にハイジャックされた視界の中で、当夜の瞳は一心に小町の姿を見つめていた。
すると、小町は横に振り返る。表情を動かすことはない。実に澄ました顔だ。
その仕草もあまりに印象的で、当夜は心臓を鷲掴みにされたような心地がした。
「あら、あなたは今朝の。私の顔に何か?」
小町は超然としている。一方の当夜は、目の前に広がっている光景を脳で処理しきれていなかった。
「い、いえ、そんなことは……」
「そう、そういえば今朝は申し訳ないことをしたわね」
そう言って小町は黒板の方をじっと見据える。すると、前の扉が音を立てて開き、担任が教室に入ってきた。
担任が誰か、ということは生徒達にとって大きな関心だったはずだが、小町の登場とあっては最早些細なことに転じていた。
「はい、それじゃあ皆さん、席について――ってもうみんなついてるか」
担任は若い女性の教師だった。
通常なら、みんなから人気が出そうな教師だ。
問題は、小町と一緒の空間を共有しているせいで、その印象が霞んでしまうことだろうか。
「今日からこのクラスの担任となる押上あずさです、一年間よろしくお願いしますね」
第一印象だが、随分と親しみやすそうな人に見える。固いところはスーツを着ているところくらいか。
「それじゃあ、早速だけど転校生を紹介します」
新学年のホームルームでやることなんて大体相場が決まっていて、やはり今回もそのテンプレをなぞる……と思っていたが。
教室がざわついた。よくよく考えれば、高校の転校生は随分とイレギュラーな存在で、当夜は久しぶりにこういうシーンに立ち会う気がする。
というか、先程から衝撃的なイベントが多すぎて当夜の理解が追いついていない。年度が変わっただけで、こんなに多くのことが起きるものだろうか。いや、大して多くもないけれども、さっきの一個の衝撃があまりに大きすぎたか。
押上先生は前の扉に手をかけて廊下にいる人物を呼ぶ。わざわざ廊下に立たせてまで秘匿する必要があるのか、などと思わなくもないが、その辺りはサプライズ精神なのだろう。
そうして転校生が入ってくる。女子生徒だった。
彼女は押上先生の横に並んで、生徒たちの方を向いた。
「それじゃあ、自己紹介をお願いします、リラックスして構わないからね」
押上先生の言葉には気遣いが見える。その気遣いを彼女が受け取ったのかどうかは分からないが、その転校生はゆっくりと話し始めた。
「転校生のさ……まちと言います」
彼女の声はとても小さかった。
名前の最初の部分は当夜には聞き取れない。代わりに「まち」の部分だけが聞こえた。
転校生だからだろうか、掲示には座席はもちろん名前も載っていなかった。お陰でフルネームは知ることができない。
「まち」の響きが小町を連想させる。と言っても、こちらの「まち」は小町よりも遥かに地味そうな印象だ。
特に代わり映えのしない制服に身を包んで、髪は無難に結ばれている。顔にはメガネをかけていて、清潔感はあるもののおよそ華やかな女子高校生のイメージとは程遠い。
押上先生は何やら「まち」に案内をしていた。しばらくして、「まち」は当夜の方向に向かって歩いていく。
指定された自分の座席にこれから着くのだろう、と至極当然の推理を当夜はして、悠然と構えていた。
「まち」は、当夜の席の左側を通る。静かに響く足音は、とりわけ代わり映えのするものではない。
……しかし。
どうしてだろうか。
どうしても、普通の気持ちですれ違うことができない。
たった今横を通っている彼女が、単なる一人のクラスメイトだとは思えない。
そんなことを感じている内に、彼女は当夜の後ろに配置されていた机に座った。
当夜はその時、怪奇現象の類が起こったかのように錯覚した。