隠されし過去
それは放課後のことだった。
帰りのホームルームが終わり、生徒たちは散り散りになる。一直線に帰る者、図書館へ足を運ぶ者、友達と寄り道の約束を取り付ける者、部活へと向かう者。各々が自分の目的に沿って動き始めている。
教室の机はそんな生徒たちが扉へ向かって教室を通り抜けていくたびに揺れ、小さな用事をこの教室の中で片付けようとしている生徒たちは、次なる目的地に向けて気が急いているようだ。
日はもう随分と長い。空はまだ十分に青かった。
今日も、空を行き交う白球はとても映えそうだった。当夜は自分でやるスポーツこそ嫌いだが、傍観者になる分には楽しく思っていた。
和光の様子を伺う。相手の機密事項に関わることのせいか、自分からはその話題を切り出しにくかった。昼休み、最初に自分が和光にあの質問をした時の勇気が、もう既に今の当夜には信じがたいものになっていた。
和光はもう教室を去りそうだ。当夜も今日は、黙って帰路に就くことにしようと考えた。
なぜか無意識に、当夜は自分の席からは遠い教室前側の扉を通って廊下へと出ようとする。もしかすると、和光の様子をもう少しだけ伺いたかったのかもしれない。
そして、賽は投げられたのだった。
「当夜」
自分の横を通って扉の方へ向かおうとした当夜に、和光は話しかける。
「ちょっと付き合え」
二人はほとんど無言のまま正門の所まで来ていた。二人がなんとも言い難い雰囲気に包まれ始める中、和光はしばらくぶりに口を開いた。
「当夜、今日は寄り道する時間はあるか?」
「ああ、もちろん」
当夜はやけに緊張を感じていた。目の前でこれから起こるであろうことは、自分にとっては大したことではないはずだ。それでもそのことを、あたかも自分のことのように深刻に捉えないではいられなかった。
学園通りを南に向かってしばらく歩く。緑に色づいた並木は、桜ほどは目をチカチカとさせないから良い。
当夜がいつも通っているのは学園の北側の道路だから、この道は少しだけ新鮮だった。高級そうなスポーツカーが当夜の横を通るのを、当夜は物珍しそうに眺めた。
通りの両側には低層のアパートと大きめの一軒家が広がる。この辺りは住宅地だ。横断歩道に差し掛かったときに、右側に見える通りをふと見渡すと、その先には多数の住宅がひしめき合っていた。
北側と毛色は違えど、なんだかんだでこの辺りは都会なのだと当夜は思う。
それは、当夜をこの街で落ち着かせない一因であるのかもしれない。
しばらくすると和光は木々に囲まれた小道に入る。この辺り一帯は、緑地として管理されているようだった。
日差しは緑に色づいた木の葉に優しく緩和される。木漏れ日の光が、進むべき道を、ほんの僅かに照らしていた。
アスファルトではなく土を踏みしめる感触が、なんだか妙に優しく感じられた。優しさは弱さと切なさの裏返しだ。
一度も振り返らず、そして何も声を発しない和光を追いかけているうちに、当夜はその視界の先にまばゆい光を捉える。どうやらもう少し行くと、緑地を抜けるようだった。
その光は妙に眩しく、その先の景色は見えてこない。神秘がその先の景色を隠匿しているようだった。同時に当夜は、ここから先で起こるでろう出来事が一体何であるのかも全く想像できなかった。全ては成り行きのまま……そう当夜は心の中で思ったが、なんだかその呪文は撤回されるべきもののような気もした。
そして光にまた随分と近づいて、うっすらとその先の景色が見えてくる。それは川だった。日光を反射してキラキラと光りを振りまく水面が、ほんの少しだけ顔を覗かせた。
その突然現れた景色にあっけにとられる当夜を横目に、和光はどんどんと歩みを進める。当夜は遅れた足を懸命に回して追いついた。
しばらくすると、自分が川の土手に立っていることに当夜は気がついた。
「どうだ?僕のお気に入りの場所なんだよ、ここは」
「知らなかったな、もうこの町も長いっていうのに」
「当夜は北側と隣街のビル群にしか興味を示さないからな」
確かにそれは和光の言う通りだった。
川の向こう岸にも住宅が広がる。けれども町の北側とは違い、その町並みは落ち着いていた。
土手の上に生えた草の緑が、人の営みで汚れた空気をほんの少しだけ浄化する。
「さて、本題に入ろうか」
和光は土手の上にある、コンクリートの部分に腰掛けた。当夜もそれにつられて隣に座り込む。
「……大方、何か噂でも聞いたんだろう、俺にああいう話をしてくるってことは」
「……そうなるな」
「……なあ、当夜、当夜は、何があるのか分からない深淵の奥底を覗いてみる気にはなるか?」
和光はまた釈然としない言葉を発した。
当夜は立ち止まって考えてみる。「深淵の奥底」?
その言葉回しはあまりに大げさに聞こえた。
「ああ」
それでも当夜は、そう答えた。そう答えるべきだと知っていたから。
「話っていうのは、中学の頃、俺が小町と付き合っていたっていう話だな」
当夜は無言で頷く。
自分からそこまで口に出した和光に驚いた。当夜は「何かあったのか?」としか聞いていなかったから。
和光の決意を見て、当夜は再び気を引き締めた。
「正直な話、あまり人には話したくはないんだ」
和光が川の向こう岸、さらにはその上に広がる青空を見ながらそう言う。隣に座る当夜は、遠くを見据えるその横顔の方に首の向きを変えた。
「昔の話には違いないんだ、別にあの時の自分の行動が、今の自分の格を下げているだとか、どうしても忘れられない後悔として染み付いてるだとか、そういうわけではない」
「いや、忘れられない、っていうのは正しいかもしれないな、ただ、今となってはそれを変えられないことくらいは分かっているつもりだ」
「あれは俺が中学二年のときのことだ」
「当時の俺は……色気の付いたただのガキだった」
当夜は和光の口を突いて出た言葉に息を飲む。その吐き捨てるような口ぶりが、当夜の心にもぐさりと刺さった。
「端的に言えば、一目惚れだった。この世にこんなにも美しいものがあることを、その時俺は初めて知ったんだ」
「……こま……当時クラスメイトだった彼女はとても愛想の良い人間だった。……少なくとも当時はそうだったんだ」
「だから、本来だったらはるか遠くにある憧れの存在で終わるはずだったのに、なんだかそれがもっと近くにあるように感じてしまった」
そう言いながら和光は、届かない雲に手を伸ばしてみせる。背が少しだけ当夜よりも後ろ側に倒れて、青空を見上げるような体勢になった。
当夜から視線を逸らすのは気恥ずかしさだろうか、だけれども、その口調には確固たる決意がこもっていた。