冷たい空気
「でさ、どうやら隣のクラスにハチャメチャな美人がいるっていう噂なんだよ」
「へぇ、それはすごいな」
いきなりそう切り出した和光に、月見野がポーカーフェイスで反応する。
昼食時、和光と月見野と当夜の三人は、机を並べて会食していた。
「なんだよ、そのよく分からない噂は。だいたい美人なんて人の主観だし、いちいちそんなに騒ぎ立てるほどのことでもないだろ……」
箸をスムーズに動かしながら当夜はパクパクと弁当を食べ進める。和光の戯言にはいちいち耳を貸すほどでもない、と言わんばかりだ。
「でも、ハチャメチャだぞ、ハチャメチャ」
「なんだよ、それ、人に使う形容詞じゃないだろ」
諌めるように箸先を和光の方に向けた当夜が言う。前後に箸を振りながら、同時に目を細めて体を前傾させていた。
「大体、本当にそんなに美人だったら一年のうちから噂になってるんじゃないのか?」
「当夜の言うことは一理あるな」
相変わらず表情のあまり動かない月見野は言う。月見野はこういう話題になると、あまり自分の感情を表に出さないことが多い。気心が知れた仲間には軽口を叩くが、元来あまり積極的な性格ではないせいだろうか。
「ふーん」
すると突然、和光が当夜に意味ありげな視線を送った。
当夜は驚いて自分の使っていた椅子を引く。その音が意外に響いてしまって、当夜は思わず周りを見回して、無意識のうちに頭まで下げた。
「なんだよ、咲哉。……気持ち悪い視線を送るなよ」
「俺は分かったぞ」
「何が?」
「当夜がハチャメチャなグラマラスボデーの美人に興味を示さない理由がさ」
「お前の好みと妄想が入ってるぞ、それ」
「ん?そうか?まあいい」
和光はそう言うと、一瞬だけ前を置いて息を吸い込む。まるで事件の核心を言い当てようとする弁護士のように、当夜を指差して言った。まあ本当の弁護士はこんなことはしないだろうが。
「ずばり、美人に見慣れているからだ、こ、ま、ち、にな」
「小町」という響きが和光の口から発せられたことに当夜は面食らった。
その人物が登場したことに、ではない。もちろんそれもあるのだが、一番は和光が彼女のことを名前で読んだことに、だった。
このクラスの住人にとって、小町という存在はもっと距離があるものだと当夜は思っていた。そして、今朝の空気から当夜は改めてそれを実感した。ひょっとしたら、この空気は自分が気づかなかっただけでとうの昔から生まれていたのかも知れないとさえ当夜は考えた。
今、「小町」と発した和光の声には何の屈託もない。少なくとも当夜にはそう見えた。今朝の教室の冷たい空気を生で実感した当夜には、とりわけ……
「……そうか……」
「なんだよ、その返事は、反応に困るだろうが」
落ち込んでいるような納得しているような無視しているような、とにかくよく分からない当夜の反応に和光は苦言を呈した。
「へへ、とにかく、このクラスで唯一小町に気を許されているのは、当夜だけってことだ、俺の目に狂いがなければ」
「和光の目は信用できるのか、については議論の余地がありそうだけどね」
黙々と弁当を口に運んでいた月見野がここで口を挟む。
「なんだと、俺は両眼とも視力2.0の慧眼男だ。現代じゃ特殊能力者みたいなもんだぜ」
「そう言う話はしてないだろうが」
呆れ顔で言う月見野は、そう言った直後に和光と目線を交差させる。そして少しだけ間をおいた後、二人は笑った。
「そういえば当夜、五時間目の化学なんだが……」
「……また課題の話か」
「ご明察」
和光はいつも課題をやってこない節がある。
「だいたい、それを今言うって遅すぎるな、もっと早く言うべきだろう、朝とかね」
月見野が横から口を挟む。
「あのさ、それって僕に頼むことが前提となってるような……」
「当夜はもうそういう役回りになってしまっているんだよ、ちなみに僕はちゃんとやってきている」
「既得権益ってやつ?」
「そんなもんにさせてたまるかよ」
得意げに話す和光に当夜が鋭く突っ込む。当夜は手の甲で軽く和光の胸を叩いた。
「自分でやってくるのが当たり前なんだがなぁ……」
当夜はがっくりとうなだれながらも、和光に向き直って「分かったよ」と返事した。
その後も賑やかに、とりとめのない会話が続く。教室の中の生徒たちはとびとびにグループを編成して、それぞれ談笑しあっている。その声が教室中で混ぜられて、楽しげな雰囲気を作り出していた。
その時、教室の後ろの扉がいやにガラガラと音を立てながら開いたのだった。
「それでな、駅前にまた新しいラーメン屋がオープンしたそうなんだが、そのキャッチコピーが……」
和光がそう喋っている間。教室の空気はガラリと動いた。
何か不純なものが教室に混じり込んでしまったかのように感じられる。当夜は振り返るまでもなくその動きを察知した。
小町の登場は、今回も周りの空気を凍りつかせる。小町が特別何をやらかそうとしているわけでもない。ただその場にいるだけで、空気を一変させてしまう。抱える冷気があまりに強く、それが周りにも伝播しているのか。否、それは教室にいる一人一人があえて作り出している空気に思えた。
「どうだ、対抗意識満載だろう?よくも激戦区に一石を投じる気になれるよなぁ、客の側からするとありがたいけど」
「マーケティングがさながら少年漫画のノリだな」
この異様な空気の教室の中で、和光と月見野だけが平然と話していた。その声は教室中にこだまし、冷気に震える音となって響いた。
当夜もただではいられなかった。なんとなく、直感的に和光や月見野のように平然としていることが正しい対応な気がしてきた。だが、それを実践するのはそう容易なことではなかった。この二人の振る舞いは、極めて自然で、無理のないものに思える。対して自分はどうだろうか、どうできるだろうかと当夜は自問した。
「どうした、当夜、手と口が止まってるぞ」
「咲哉は動かすのをどっちかだけにしろよ、みっともない」
なんだか二人が遠い存在のように当夜には見えた。
「いや、なんでもないよ、ちょっとした考え事」
「そうか、まあそれじゃあ、青春の煩悶ってことで」
「それじゃあちょっと重すぎるぞ、咲哉」
それは誇張表現ではないかも知れない、と当夜は思った。当夜はその後、努めて平然を装うようにして、目的もない会話に混ざったのだった。