決意
そう言われた当夜は、強烈な焦燥感に襲われた。
首元に刃物を押し付けられ、決断を迫られているかのような焦燥感。こんな、こんな所で、こんなカフェなんかでの一返答が一体何だと言うんだ。
そう自分に言い聞かせてみても、その焦りが止むことはない。
自分は、何かを恐れているのだろうか。何が自分を、次の瞬間に口を開くことから思いとどまらせているのだろうか。
ただ、一言を発する、それだけを決断すればいいというのに。
物静かな店内の中、二人を包み込む空間だけ異様な空気が流れる。万智の問いはとても心優しいものだ。こんなハチャメチャで支離滅裂な相談を、それも休日にいきなりされたのに、しっかりとそれに寄り添って、当夜の意志を聞き出そうとしている。
だが、その外面とは裏腹に、その言葉がもたらしたインパクトは恐ろしいものだった。
当夜はもう一度万智の顔を見据える。面倒見の良さそうに、口角を少し上げ、目尻を少し下げながら、それでも眼鏡の奥の瞳はまっすぐと当夜を見つめていた。
そして当夜は気付いた。目の前にいる万智が恐ろしいのではない、悪魔は、自分の心の中に潜んでいるのだということを。
行動するのが、何かを変えることが当夜にはすこぶる恐ろしかった。
分かっていたのだ。次に湧き上がる自分の返事は、当夜にとっては否が応でも行動を起こさせる合図などだということが。
振り切った。
「僕は、もう一度暖かな表情をした小町さんが見たいと思う」
言った。しばらくして万智は少しだけ首を傾け微笑んだ。
「それじゃ、もう私の力はいらないんじゃない」
「後は当夜の仕事だね」
その口調は突き放すようではなく、思いやりに満ちていた。
帰路、万智は足元のタイルと緑に色づいた並木を交互に見ながら、時々立ち止まりつつ歩いていた。
足を止めたとき、横に流れた車のスピードはかなり速く思えた。
「これで、いいんだよね」
歪みに鈍感だったのは、あまりに自分が軽薄だったからなのかもしれない。
万智に相談する機会を持った後、初めて登校した時、当夜はそう感じざるを得なかった。
小町が教室に入ってくる瞬間のことだった。その瞬間、明らかに教室の空気は変わっていた。
いや、そのこと自体は驚くに値しない。前々から小町は奇異の視線をクラスメイトから向けられていた。その噂の強烈さ故だ。
だが、小町が「変わっていた」間はその空気の変動を当夜はほとんど感じていなかった。自分の心は動いたとしても、教室全体が動いているような感触はなかった。ともすれば学級委員として、自然とクラスに溶け込んでいるかのような「錯覚」に陥ることもあった。
しかし今回は違った。賑やかだった教室は、小町が教室の後ろ側の扉を開けると同時に静まり返る。当夜はその空気の中に、「遠ざけたい」という感覚よりもたちの悪いものを感じた。
静まり返った直後に、生徒たちはまた遠慮がちに会話を始める。だが、その声には、どこか批判や不満のような響きがあった。
以前ならば、それは恐れであった。怖い噂を持っている小町が近寄りがたい、ただそれだけの話だった。
だが今回は違う。まるで、教室全体が小町を異分子として排除しているような感じだった。
きっとこの空気は一朝一夕で作られたものではないはず。当夜が気付かない間に、つまり、小町が「変わっている」間に、こうなっていたはずだった。
きっと小町が、明確な憎悪の対象となることはないだろう。小町のイメージは恐ろしく、そして小町自身もきっと強い。そこにわざわざ対立するようなことを企む生徒はほとんどいないだろう。
だが、いままでのような「まだわかり合っていない」という状態が、「わかり合いたくない」というものに変わったことも、また事実だった。
このままではきっと、小町は遠ざけられたままで終わってしまうだろう。もう成り行きで、普通の学級委員に戻ることはきっとできない。
当夜は怖かった。今にも自分の横に並ぼうとしている小町に、声をかけていいものかどうか分からなかった。それでも自分はこうすると決めたのだ、と当夜は思い出す。
「おはよう、小町……さん」
必死でひねり出した、弱々しい声だった。当夜にもクラスメイトの視線は向いた気がした。
万智や月見野や和光はまだ教室に来ていない。当夜は完全アウェーの感触だった。本当は自分のクラスのはずなのに、馬鹿げた話だな、と自嘲気味に当夜は笑った。
「……おはよう」
その言葉の裏に、どんな思いが秘められているのか、当夜には分からなかった。ただ迫力のある、整った美しい顔が当夜の横をかすめていた。
小町が自分の席の椅子を引く音が、ピリオドの合図のように響いた。