面影
風を孕んだカーテンが、柔らかな日の光を部屋の中へと運んだ。心地よく吹き抜ける風が、朝のまどろみに発破をかける。これから悠久の時が流れていきそうなくらいだ。
いつもならホームルームが始まっている時間。その日は休日だった。当夜は、しまい込んだ自分の思いをさらに沈めこむように、ベットに身を委ねる。
なんだか自分が逃げているような気がした。朝の目覚めからも、一人の少女の思いからも、新しい再会からも。
――なんて、そんなのは考えすぎか……
当夜は魔力に抗ってベットから身を起こす。
不思議と気が急いて、机の上に無造作に転がる本を片付ける。そうした後で、「これでいいのか、気負い過ぎだな」
と当夜は呟いた。
この学年が始まる前まで、何の面白みのない生活を送っていた自分。それが突然変化をして、数奇な運命に巻き込まれる。そんな筋書きに、まだ自分は慣れきっていないのだろう、と当夜は推測した。
そう、焦ることはないのだ。高校生活はまだ長い。まだ夏の入り口にも遠いという時期だ。
別に焦って起きようとしなくたって、特に追われている仕事はないし、新しい再会のことをとにかく案じるのも変な話だ。たしかに万智は少し変わってしまったのかもしれないが、その関係は幼馴染であることに変わりはない。少しずつ時間とともに、新しい万智に慣れていけばいいのだ。
……それでも、何かが当夜の心の中に引っかかる。それも何かに振り回されたくない、というような引き算の感情ではない。自分が何か、大切なものを、あるいは大切な何かが、自分を――
でもそれは、自分がとりわけ求めているものでもなかったはずだった。
当夜は基本的には事なかれ主義の人間だ。余計な手出しや口出しは好まない人間だ。
それでも、この瞬間だけは、なにか行動を起こしたほうが良いような感触を感じていた。
……影がちらつく。どこか高い建物の上に立って、風を浴びながら、手を髪の上に当てながら、どこか遠い彼方を眺めている少女の影が。
その口元には微笑が浮かんでいるような気もした。けれどもその姿は、ぼんやりとしていて当夜には良く分からない――
「はっ……!」
「いけない、また眠ってしまったか……」
当夜は机から伏せた顔を上げる。
「やっぱり今、何か大切なものが見えた気がする……」
当夜の座る椅子に、風に巻き上げられたカーテンが引っかかった。
そして当夜は、しばしそれを、そして、その先の空をじっと見つめた。
「それで、今日のご用件というのは……?」
ガラス張りの照明の下、通りの見える大きな窓を横目に、当夜と万智は向かい合っていた。
暗めの色合いの木のテーブルが、窓から入る光と天井から差す照明にうまく調和している。時々、客が入ると心地よい音色の鈴がチリンとなった。
「最初に謝っておきたいんだけど、とっても変な相談だと思う」
「それは電話口でも聞いたよ。言った通り、当夜の相談だったらいつでも聞くから」
学園の近く、並木通り沿いのカフェに二人はいた。
万智を頼るなんて、情けない。当夜はそんな気もした。自分の個人的な、漠然とした悩みに付き合わせるなんて、申し訳ないように思えた。それも、相手は万智なのだ。
それでも、一歩踏み出すならば、今この瞬間にできることはこれくらいしかないように思われた。
二人のアイスコーヒーのグラスいっぱいに水滴が滴る。まだ夏には遠いが、今日は十分に暑い日で、コースターに乗ったそのグラスはとても涼しげに見えた。
「小町さんのことなんだ……多分」
「たぶん?」
自信なさそうに話す当夜に、万智は首をかしげる。
ただ、その自信なさげな言葉は、当夜自身に、自分が思っていることに対する形を与えたようであった。
一瞬ぽかんとした万智だったが、すぐに頭の中である日の放課後の様子を思い浮かべた。たしかにあの日、当夜は小町に何かを言われていた。その雰囲気は決して明るいものではなく、かと言って険悪というわけではなかったものの、弱々しい夕日と相まってか、どことなく悲壮感が漂っていた。
「なんというか、小町さんって、色々変わったよね」
「変わってる、とも言えるかもしれないね」
「僕は、彼女が分からないんだ――」
「――何があったの?」
万智は、意識しない内に「どういうこと?」ではなく「何があったの?」という質問をしていた。
「その、小町さんって、初めはなんだか親しみにくいというか、少し遠ざけられているような人だったよね」
「だけど、一時期だけ柔らかい態度を取っていたこと、覚えてる?」
「一時期」という言葉が万智にはとても引っかかった。確かに、小町の態度がある日突然変わったという出来事は覚えている。何なら記憶に新しいと言っても良い。でもそれは、今でも続いているものだと万智は覚えていた。ここ数日は、小町の声を聞く機会もほとんど無かったが。
「うん」
とりあえずは万智も会話に乗る。
「でも僕は言われたんだ、ある日、突然」
息を継ぐように止まる体言がいやに重々しい。
「まるで、あたかも、あれが偽物であったかのように」
「ごめんなさい、もう少し詳しく言ってもらえる?話がよく見えてこなくて」
「この前、小町さんと二人で話をしたんだ」
「その時の話だ」
「その日の小町さんは、なんと言うか、とてもいたずらで、それでも優しくて、何と言うか……」
「とても、魅力的だった」
当夜には少し罪悪感があった。「幼馴染」という関係を盾にして、こんな話題を万智に振ってしまってもいいのだろうかという葛藤があった。
それでも、頼られることを拒まない万智の態度に当夜は甘えていた。
「でも彼女は言ったんだ」
「あの姿は嘘なんだって、もう二度と僕の前であの姿を見せるつもりはないって」
期間限定の柔らかかった小町の表情と人を寄せ付けない表情の小町の影が交互にちらつく。当夜の頭のリソースは、その光景を再現するのに消費されてしまって、めまいがしてくるほどだった。
万智は当夜の話を黙って聞いている。話にはまだ続きがあることを察したように。いや、「あるべきだ」ということを感じたように。
「万智は転校してきたばっかりで、まだあまり馴染みがないかもしれない。それでもちょっとは分かるだろうし、実際に話をして感じるところもあったと思う。小町は今までずっと、同級生に対して気難しい態度を貫いてきたし、生徒からのイメージも決して良くはない」
万智が、小町に抱いたイメージは、正直な所「よく分からない」ということだけだった。万智が小町と会食して会話をしたときも、小町は敵対心を表に出したり人を表立って遠ざける様子は見せなかった。ともすれば表面上は明け透けにさえ見えた。それでも、その心の奥底だけは小町が秘め続けているような気がした。
「……それで、当夜はどうしたいの?」
万智はついに口を開き、核心を突いた。
どちらかのグラスの中で氷がチリンと鳴った。