鼓動
万智から少し先行した当夜が教室の扉を開くと、クラスメイトから当夜は声を掛けられた。
「よう、おはよう、当夜」
「おはよう、月見野か」
「それと……パートナーさん」
当夜の後ろから現れたのはもちろん万智だった。
「お、おはよう」
万智の方は月見野の名前を認識しているのかどうか、とにかく挨拶を返したが、月見野の呼び方に少々動揺している。
「ちょーっと待ってくれ、それはどういう……」
と言い掛けて、扉の前で滞留していたことに気がつき慌てて当夜は後ろから入ろうとしていたクラスメイトに場所を譲る。
「いやー、文字通りの意味だよ、やっぱり長年連れ添っていればそりゃねんごろな……」
「そ、そういうのじゃないですから……」
万智も照れながら反論した。今朝の通学路での強気な態度とは打って変わって、見た目通りの慎ましやかなお言葉。
「月見野、僕をいじるのは結構だが、万智に手を出すのはやめてくれよ」
半ば呆れ顔で言う当夜だったが、内心少しだけ動揺してもいる。
月見野は小声で当夜に耳打ちした。
「いやいや、かわいい彼女さんを横取りする気などないない……」
対して当夜は大声で、耳打ちを受けて縮こまった体を解放するかのようにして返す。
「違うから!!言葉の綾だよ!!」
万智は困った様子でそんな当夜を見ていた。
当夜が席につくと、月見野も一緒についてくる。朝のホームルームの前に、少し話題交換と行きたいのだろう。
そしてしれっと万智は、当夜と足並みを合わせていて、当夜が席につくと同時に万智も当夜の後ろにある自分の座席についた。
「まだ来ていないよな」
「……というと……?」
月見野が突然話題を切り出す。別に「本日はお日柄も良く〜」といって会話を初めなければならないほど堅苦しい間柄でもないが、突然切り出された話題に当夜も置いていかれている。
「ほら、お隣の学級委員さん」
「ああ……」
このクラスの学級委員、といえば今ひそかに話題になっている九段下小町のことでしかありえない。
「やっぱり気になるよな、今後の意気込みとか」
「スポーツ選手じゃないんだから」
「いやいや、学級委員っていうのはそれほどの重役だよ」
「あれが?別に権力を握れるわけでもないし、何の華やかさもないと思うけど」
こういう役職に縁のない当夜はいつも通り冷ややかな見解を月見野にぶつける。
「いやいや、それでも象徴的意義は重大だよ、しかもあの天下の美悪女、九段下さんとなればなおさらね」
当夜が自分の席に座って月見野が目の前に立っているという立場のせいか、月見野のセリフは当夜には妙に尤もらしく聞こえる。
「でも月見野はそういうのあまり気にしていなそうに見えたけど?」
「何を言ってるんだ、興味津々だよ、とりわけこの状況に当夜がとう対処するか、ってところがね」
「……なあ、なんか性格悪くなったか?」
「失礼な、当夜への愛ゆえだよ」
野郎が野郎に愛とか言うな、気持ち悪い。
そんなセリフを当夜は吐きながらも、「当夜がどう対処するか」という月見野の言葉を当夜はプレイバックさせる。
自分がどうするか、はひとまず置いておくとして、まずはどうなったか。
――
その瞬間に、目の前で光が瞬くかのような感じがした。
授業が始まって、頭がようやく勉強モードに切り替わろうかという矢先のこと。動き始めた当夜の脳の中に、一つの重大な推察が駆け回る。
(どうして今朝、僕は万智と出会ったんだ?)
心の中のロマン主義が、「それは運命だよ」と抜かす。当夜はそれに反応して一人首を横に振りつつ、冷静に今朝の状況を振り返る。
そう、冷静になってみれば、冷静に考えればおかしいのだ。
万智は学校の南側に住んでいる。対して当夜が今朝万智と出会ったのは学校北側にある駅。となれば、普通出会うことはありえない。
当夜は何故か自分の息を止めてみる。無意味だと分かっていながら、背を向けたままに後ろの席の万智の様子を伺っているのだ。
そうしていきなり前方に倒れて頭を抱える。授業中にも関わらず動きの激しいこと。万智もその様子に気づき、首をかしげる。
授業の内容が一切当夜の頭の中に入らない。新学期早々ずっとこんな状態をしている気がする。こんな調子で大丈夫だろうか、と当夜は冷静になって考えてみるが、だからといって頭の中が晴れるわけではない。
そうして、万智の様子を気にしながら当夜は授業時間を過ごした。
授業のチャイムが鳴って、号令がかかる。週番のシステムが構築されたので、号令をかけたのは小町ではなく別の女子生徒だった。何だか少しだけ、当夜は寂しく感じてしまう。それでも当夜は首振って、号令が終わると同時に自分の後ろを振り向いた。
「どうしたの、当夜?さっきから落ち着かないみたいだけど……」
自分の側だけでなく、万智も自分を気にかけていたことに当夜は何とも言えない気持ちに襲われる。
「い、いや、ちょっと気になることがあってさ……」
通常ならこういうことを聞くのは何だか無粋な気がする。でも大丈夫……なはずと当夜は自分の中で唱える。だって幼馴染だから。
「うん、どうしたの?」
万智はいつものように穏やかな微笑を含んで当夜の前に立つ。そろそろ見慣れたとは言え、この落ち着いた表情が昔の万智の姿と対照的で、当夜は少し面食らってしまう。
「えっと、万智の家ってここから南の方面だったよね?」
「うん、そうだよ」
そう言った直後、万智の顔がなんだかとても明るくなる。というか、意味ありげな表情に変わる。
「ひょっとして、ご訪問の連絡でして?」
「いやいや、断じてそういうことではないから!」
「私の家に来たくないなんて……私、当夜に嫌われているのかな……」
「嫌ってなんかないから、むしろ……いや、嫌ってなんかない」
万智は一瞬物欲しげな表情を浮かべる。その瞬間に、当夜は自分の心が揺れる心地がした。
「なんだか、今日はやけにテンション高くないか?」
「そんなことはないですよ~っと」
……やっぱり何か違う、と当夜は感じた。
「まあそれは置いておくとして……えっと……何の話だっけ……」
「どうしてわざわざ駅の方面まで私が当夜を迎えに行ったか、っていう話」
「あっ、そうそう、ってえっ!?」
万智の察しが良すぎて、当夜は意表を突かれる。初め勇気を出して真相を聞き出そうとしていたのに、いつの間にか雲のようにただ風に流されるだけの存在になってしまっていた。
「そりゃ、もちろん、当夜への愛ゆえですって」
「あ、愛!?」
「そうそう、愛ですよ」
「あの、それは、えっと、なんと言うか、たしかに、嬉しい……!?んだけど、まだ、僕たちには早いというか?時間が必要かな~っていうか!?」
「幼馴染としての」
ズコッーといういう効果音と共に、当夜が後ろから崩れ落ちる。なんとか当夜の机がそれを支えたが、机はガラガラと大きな音を立てて滑った。
「こら、万智、びっくりするじゃないか……」
命拾いした……といわんばかりの表情で当夜が口にする。頭を少し下から万智の頭と同じ方向まで向け直した。
「あ、やっぱりドキドキした?」
「やっぱり今日の万智、ちょっとおかしいと思うよ、僕は……」
立てた三本の指に額をもたげて、苦笑いを浮かべながら当夜は首を左右に振る。
「まあでも真面目な話、今朝のは当夜との親睦を深めるためにやったことだよ」
「万智……」
心に深く感じ入るように、当夜は頭まで上げていた右手を胸のあたりにまでスライドさせ、顔を上げる。
放心状態に入った当夜が少し冷静さを取り戻した頃、周りからヒソヒソ声が聞こえてきた。
「ねぇねぇ、やっぱりあの二人、お熱いよね~」
「うんうん、幼馴染の一線を、早くも超えてる感じかな~」
「丸聞こえだよ!」
噂をしていた女子生徒の方角に、急に当夜は体を向けて、前傾しながら抗議する。まださほど仲良くもない生徒に、これほど茶化されるようになってしまったという事実に、当夜は何とも言えない気持ちを味わう。
「おやおや、お邪魔だったみたいですね~」
「それではわたくし共はこれで失礼……」
不満げな表情を二人の方に浮かべながら、心無しか頬を膨らませた当夜は立ち尽くしている。
「あははは……面白い二人組みたいで……」
これには万智も思わず苦笑いを浮かべる。同時に視線を当夜の方から逸らして、少しだけ頬を紅潮させた。
(自分で言うのはいいけれど、他人に言われると動揺してしまうっと、かわいらしいなぁ……)
裏から当夜に近づいて、その様子を見ていた月見野はそう感じた。
「まち……」
当夜は体の向きをそのままに、ごくごく小声で万智に向かって話しかけた。
「ど、どうしたの……」
万智も先程までの勢いはどこへやら、急にしおらしく返答する。
「嬉しかった、今朝のこと……」
「……ほんの、ちょっとだけ!」
後ろの部分だけが少し大きな声になった。その様子を見ていた月見野も、小声の部分は聞き取れなかったものの、後半が照れ隠しであることだけは理解した。
「うん、……また」
万智はごく短く、大切なものを抱え込むかのように慎重に答えた。