不思議に足を伸ばす
無力だなぁ……と当夜はつくづく思う。
別に何か成し遂げたいことがあって、それが達せられないのを不満に思っているわけではない。
ただ、自分が無力だなぁ、という、それだけの感想だった。
何が楽しくてこの中に……と思うくらいに混雑している満員電車の中、隣のサラリーマンに電車が揺れる度にぶつかりながら、当夜はそう思った。
窓の外には住宅街が広がっている。ここ最近、この近辺にも高層マンションが立つようになってきたのに気がつく。
どこまでこの街に人口が集中すれば気が済むんだ……と将来を憂慮しながら、窓の外に気を逸らしていた。
車内放送が鳴って、駅の接近が告げられ、さらにホームが真横に見えると、車内が一段と気ぜわしくなる。まあ当夜だってここで下りるのだから構わない。
車両のドアがドアチャイムと共に開くと、皆逃げ帰るようにホームへ降りてきた。当夜もその波の一端となって階段まで流れる。
よく自分もこんな生活を一年間も続けたものだ、と当夜は自分を称賛した。それでもこの近辺の通学時間としてはごくごく短い部類に入るのだから、これより何倍も長い電車通学をしている人間の苦労は計り知れない。
改札のある一階に下って、ICカードを取り出し、改札を出場する。ここまで意識せずともできる作業。そして改札を出た先のちょっとした東西通路の景色もまた普通。通りすがる人も、当夜にとっては無関係の人間ばかり……
と、思っていた矢先だった。
「当夜、おはよう」
そう呼びかけたのは確かに女性の声だった。
一瞬、例の美少女の姿を浮かべている自分がいたが、すぐに首を振った。
「万智か!おはよう、奇遇だね」
「当夜っていつもこのくらいの時間だよね」
「確かに、それにしてもここで出会うなんて、考えたこともなかったよ」
それもそのはずなのだが。
「今日の二時間目の古典の課題、ちゃんとやった?」
「え!?そんなのあったっけ?」
駅前の開けたロータリーまでは流れに押されながらも、二人は並んで歩いた。
ピークの過ぎた桜の木が、学園通りには連なっている。混雑のあまり意識していなかったが、駅の利用者には結構な数の同じ高校の生徒もいて、その生徒達もまた、この季節感あふれる通りを思い思いに歩き始める。
「ほらほら、ちゃんとやらなきゃまずいよ〜まだ新年度始まったばかりなんだし」
と言って万智は遠慮がちに当夜の方を小突いてきた。
「え?あっ、うんそうだよね、ははは……」
突然のねこぱんちにびっくりした当夜だったが、むしろ問題なのは万智が小突いた折に自分の方に接近してきたことだ。
「こう見ると、駅周辺って結構喫茶店とかおしゃれな店が多いのね」
「う、うん、そうだね」
「今度行ってみない?二人で」
今日の万智はやけに積極的だ。
「いやぁ、僕にはちょっと敷居が高いかなぁ……なんて」
「もう、男らしくもうちょっと甲斐性持たなきゃ」
そんなことを言ってくる万智の距離感はやはりいつもよりも近い。
「あのー、万智さん?」
「うん?」
そう行って反応した万智は眩しいくらいに良い笑顔。朝日にとても良く映える顔だ。
そこまで自身満々に反応されると、当夜の方も少し躊躇してしまう。だが、聞かずにはいられなかった。
「ちょ、ちょっと近くないですかね〜、いや、別に悪い意味じゃなくて、ほら、周りの視線とかさ」
こういうフォトジェニックな通りには異性交際に及ぶ男女組など別に珍しくもないのだが、当夜は自分のいたたまれなさに大義名分をつけて陳情する。
詰まる所、女子に擦り寄られると恥ずかしい。だって男子高校生だもの。
そう勇気を出して言った当夜に、擦り寄った体勢はそのまま、万智は放った。
「良いじゃない、だって、幼馴染でしょ?」
「えっ、うん、そうだけど……」
何たる小悪魔的センセーション。静かになったとの印象だった万智が見せた一面に、当夜は翻弄されっぱなしだ。
くっつきながら歩く二人の姿が、やけにこのおしゃれな通りに馴染んでしまうのも、当夜の感覚を次第に麻痺させる。
幼馴染だから。特にくっついてもやましいことにはなり得ない。そんな便利な免罪符をかざされてしまって、当夜もどう対処すべきか分からない。
多少は薄れてきているものの、この学園通りの色合いは桜色、今、当夜の心も少しだけ桜色に染まろうとしていた。
当夜と肩を触れ合わせながら歩く万智は、同級生の姿が周りにないか、とびくびくしている当夜の姿を横目に満足げだ。
「幼馴染だから……幼馴染だから……」
当夜までもがこの免罪符に影響されてその言葉を呪文のように反芻している。その断片は当夜の外部へも声として漏れていたが、万智はそれに気づく様子もない。
「ねえ、当夜」
「ど、どうした」
必死でクールに取り繕おうとする返答。当夜はただただ真っ直ぐ伸びる歩道の遥か先に視線を逸らそうとしていて、そわそわしている。
「私達、これからも仲良くできるよね……?」
「そりゃもちろん」
その話は一度二人でしたことがあるのだ。当夜の返答は決まっている。
でも今はちょっと仲が良さすぎるね、とも付け足そうとしたが、流石にそれはためらった。
「それってさ」
もう何十度目かの肩がぶつかり合う弾みを借りて、万智は当夜の前へと出た。
そして振り返る。
今まで擦り寄ってきていたとはいえ、顔からはなんとか視線を逸らしていた当夜だったが、その姿を強制的に視界に入れられる。
突然の出来事に、心音が大きく鳴り、何かに掴まれるような感覚を当夜は覚えた。
「昔と同じものなのかな、それとも違う?」
上体を前に突き出すようにして、当夜の顔を万智は覗き込む。
万智の背後では、風に吹き上げられた桜が舞っていた。
可愛らしい仕草だと思った。まるで昔と……
でもその表情は、少なくともその奥底では、とても真摯なものに見えた。
その瞬間、当夜を掌握していたものはもっと大きなものへと変わった気がした。
「……違わないよ」
そして当夜の緊張は、単なる動揺から真剣さのトリガーへと様変わりする。
情けなく浮かせていた視線を万智の真っ黒な瞳に合わせて、浮き気味だった足の踏み場を次の一歩で足音高く定めて、そう言った。
「僕は何も変えたりしない、たとえ何年の時を経たって、僕らが積み上げてきたものは変わらない」
「だって一番怖いのは、どんなに素敵なものであっても、それが色あせてしまう、ってことじゃないか」
桜の花びらが早くも枯渇した枝が、強い風に誘われて左右に揺れた。
春風と言っても、少しだけ冷たい。冬の残党が残っているかのようだ。
空気の震えは二人の間で止まった。
吹き付けた風は少しだけ通行人の足を緩めたようで、その瞬間、二人の空間には確かに二人だけの世界が築かれた。
「本当?」
万智は背を伸ばして、当夜の視線を上げさせる。
その表情は、嬉しいとも悲しいともつかないポーカーフェイス。メガネの奥底に、その思いを全て隠してしまうかのような、そんな雰囲気で、転校の自己紹介で見た時の印象そのままだった。
「ああ」
それでももう引けない。一度言ったことは、最後まで貫き通すものだ。
そうでなくとも、あの言葉は思いつきで喋っているわけでは毛頭ない。
何も作れない、抱えることしかできないのなら、無力な人間なりにそれを遂行するしかないのだ。それこそが「昔と同じ?」という言葉を聞いた瞬間に、当夜の頭の中に鮮明に浮かんだ決意だった。
「そっか、ありがとう、いや、ごめんね、突然変なこと聞いちゃって」
そうして万智は数歩分当夜に向かって歩いて、また元の進行方向に振り返る。
後ろには先程と同じように通学の一団が多くいた。
その流れに流されてしまわないように、二人は再び歩き出す。
その時には、万智の体は当夜のもとからは離れていた。
当夜は自分が何か重要なことを忘れている気がしたが、同時にこれで万智の接近に心を動揺させることもない、と安心してしまっていた。