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見えし景色

 当夜の全身に大きな拍動が駆け回った。ともすれば飛び上がってしまいそうなくらい、それは強力だ。そして実際に当夜は飛び上がって後ずさりした。

「そ、それって……」


「当夜の素直なところ」


 その場には風だけが吹いた。それをしばらく感じた後、当夜は文字通り胸をなでおろしてみせる。


「ふぅ……いきなりそんなこと言われて、驚くじゃないか……」

「ふぅ~ん、何に驚いたんでしょうか、と、う、や、くん?」

 頬の筋肉を少し釣り上げ、思わせぶりに目を細めながら、ねっとりした口調を小町は披露してみせる。今までに無かった部類のからかいに、当夜もあたふたとする。


「なんだろう、この気持ちは、やっぱり、かわいい?」

「分かっててからかってるよね、九段下さん」

「もう、小町、って呼んでよ、ほら、恥ずかしがらずに」

 と言われて、そういえば今まで無意識に自分がほとんど「小町さん」と呼んでいたことに当夜は気がつく。何だか今まで自分がずっと恥ずかしいことをしてきたかのように思えてきて、当夜は思わず目を伏せてしまった。


 その時、チャイムが鳴り響いた。


「予鈴だね、当夜」

 ――だいたい、どうして小町さんは僕のことを「当夜」っていきなり呼ぶんだ……と思いながら当夜はその言葉を聞く。


「当夜?どうしたの?からかいすぎちゃったのは謝るから」

「い、いや、そうだね、九段下さん」

「もう、だから、こ、ま、ち、だって」

「小町……さん」

「次は呼び捨てに挑戦してみよう!」

 当夜は急に今まで自分が当たり前にやってきたことが恥ずかしくなる。


「それじゃあ、教室、戻ろうか。今日のことは秘密だよ、二人だけの」

 そう言って小町は先に歩き出した。


「あ、あのさっ!」

「ん?」

「もし届かなくても、僕は、受け取るよ、受け取るから、きっと……」

「今日の……小町……さんはなんというか……その、とても良かったと思うから」


 振り返った小町は一瞬虚を突かれたような表情をする。そして目を強く瞑って体を強張らせた当夜の方をもう一度見る。

 その後で、もう一度小町は自分の進行方向に振り返った。

「もう、言葉足らずだってば……」

「でも、ありがとう、すごく嬉しい、ひょっとして、今言われて一番嬉しい言葉……かも」


「ほ、ほら、急がないと、授業遅れちゃうよ」

 小町は校舎の中までそそくさと戻って、颯爽と階段を駆けて行こうとする。その背姿に、当夜は一歩出遅れてしまう。

 小町は一旦鍵を開けた部屋の外に出ると、自分の顔を隠すかのようにさらに足を早めた。


「小町さーん、鍵、掛けないと」

 そう口にした当夜のもとに、小町は顔を時折伏せながら戻っていった。


 世界の深淵のようなものを、一瞬だけ覗いたような気がした。

 あれが素顔なのかどうなのか、当夜には分からない。けれども、それは確かにとても魅力的なものだったし、もしあれが素ではないとしても、ああいう一面があるということだけでも愛らしかった。

 小町は学級委員になったんだし、あの姿はもう一度見ることができるだろう。


 自分が小町に振り回されてしまうことは面白くはないが、小町があれだけ素直で、健気で、美しく、素敵な人間ならば仕方がない気がした。

 だが、やはり当夜の頭が混乱していることは否めなかった。出会ったときには男勝りな口調で、どこか近寄りがたいようなイメージを持っていた小町が、当然優等生風の学級委員になって、突然自分に気さくに話しかけてくる。それをイレギュラーと呼ばずしてなんて呼べばよいのだろうか。


 まだ噂だって生徒たちの間では潰えていないし、相変わらず友達も小町にはほとんどいなさそうだ。当夜は、皆に小町の新たな一面を教えてあげたいような気がした。そうすれば、小町もそれを隠すこと無く、素敵な笑顔を皆の前で発揮することができるだろうから。だがそれは、まだ二人だけの秘密なのだ。


 当夜はもどかしさを感じる。言いたいことが言えないもどかしさもそうだ。でもそれだけではない。色々な感情のモンタージュとしてのもどかしさだった。自分が自分ではなく、相手が相手ではないようだ。それはほんの少し指を触れるだけで崩れてしまいそうな、そんな脆さを持っている気がする。それでも、自分には何もできない、そうに違いないと当夜は思った。少なくともそう思い込んだ。


「それじゃあ、次のところを柊凪、読んでくれ」

「は、はいっ、えっと……」

 指名されて慌てふためく当夜に、万智が後ろから救いの手を差し伸べる。授業など思考の片隅に放置したままで、当夜は傍から見れば上の空だった。


「ここからだよ、大丈夫?」

「う、うん、ごめんね」

「いいっていいって、はい、それじゃあ行ってみよう」

 万智の口ぶりはやけに明るく感じられた。冷たい思考に沈んだ当夜には、普通のものさえ眩しいものに見えたのかもしれない。


 万智はいいよなぁ、と当夜は思う。たしかに、昔とは性格がガラッと変わってしまった。けれども、ユーモアセンスとか親しみとかが消えたわけでもないし、新しい性格はある程度一貫性を保っているし、寡黙そうに見えて人間関係を作るのもさほど下手ではなさそうだ。


 ――そういえば自分も……変な一貫性があったっけ。どことなく頼りない部分、肝心な所で行動できない所。考えることはできても、何かを変えるとなると尻込みしてしまう所が。

 そんなことを当夜は思い出した。だが、それを思い浮かべると、当夜の心のなかで何かが引っかかっているような感触を覚える。――なんだろう。何かが今は違っているような――


「柊凪、まだ残ってるぞ」

「す、すいません」


 意識を別の所に向けながら、中身もさほどない教科書の文言を読んでいた当夜だったが、気づいたら完全にその意識は教科書の上から離れていた。

 気合を入れ直すかのように、当夜は伏せていた自分の教科書を仰々しく机に立てて音読を再開する。そうしたら、この心のわだかまりもどこかに吹き飛んでいくような気がした。


 万智は、「どうしたんだろう」と思いながら、息を目一杯吸い込む当夜の背姿を眺めていた。

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