振り回されて
「はっ……ははははははっ……」
「そ、そんなに笑わなくても……」
「だって、面白いよ、その言葉は。百人に聞いたらきっと百人がそう答える」
「ごめん、やっぱり笑える」
と言って、小町は今日何度目かも分からないツボの中に突入する。
「普通、『どう思う?』って聞かれて『いいんじゃないでしょうか』なんて言わないよ。ふふっ」
当夜はしつこい追撃に顔を赤くしながら、笑い続けている小町の顔を見据える。
「そうですね、はいはい、どうせ変な人間ですよ」
拗ねたような軽口が叩けるのは、少しだけ距離が縮まったせいなのかもしれない。
そんな態度を見せながらも、当夜は小町の笑顔を見ると、「これでいいのかも」という気さえしてくる。その表情は、何よりも眩しいものだったから。
家やオフィスから時折見える光も、木の陰とグラデーションをなす歩道の日向も、屋上を一面照らす太陽をも凌駕する、そんな明るさ。
太陽よりも明るくて、それでいてもっとずっと近くにあるものだった。
小町に関する噂、近寄りがたい恐ろしい少女、悪女、そんなイメージはとうに当夜の頭の中からは消え去ってしまった。ただ、今目の前に見えているものこそが今の当夜にとっては全てだ。
「ごめんごめん、ちょっと茶化しちゃって。私だって、十分変な質問だよね」
当夜は無言でほんの少しだけうなずく。
その時、当夜と向き合っていた小町は当夜に背中を向けて歩き出した。
向かっていったのは屋上の南側の際、柵のかかっている所。
当夜もその足を追った。追うべきだという気がしたし、追ってみたいという気がしたから。今までよりもずっと近くに見えるようになったその姿は自分の目の前から簡単に離して良いものだとは思えなかったから。
そして柵に手をかけた瞬間、小町は当夜の方を再び振り返る。その動作は思いがけず急で、当夜は心臓が飛び上がるかのごとき心地を味わった。
そしてまた当夜から目を逸らして、南側の景色に視線を戻す。そうしてしばし沈黙が流れた後だった。
「私って、馬鹿だよね」
小町は突然そう口にした。当夜から背を向けたまま。
「いつもあんな怖い顔ばっかりしちゃってさ、一体何と戦ってるんだって感じだよね」
「たまにカッコつけて男子みたいな喋り方したりもするし」
当夜は胸が締め付けられるような感覚に襲われる。その言葉には、胸にずしりと響くような重みが確かにあった。
小町の人格のうち、果たしてどれが本物なのか、当夜には分からなかった。しかし今小町から発せされた言葉は、その困惑に共鳴するかのような、そしてそれを一層強めるかのような言葉だった。
――自分は、なんと言うべきなのだろう。当夜はそう悩んだ。しばらくの間は、何も言うことができないまま黙り込んでしまった。自分だって、何も分かっていないのだ。解決策を提示することも、有益なアドバイスを提示することも、何もできない。ただ無力な人間として、傍らにいることしか自分にはできないように思われた。
小町は斜め下に視線を逸らして、前髪で自分の目を隠している。その表情は読めず、その思考は見えない。けれども。
当夜には伝わっていた。自分が小町の心の中に溶け込むように、まるで水のようにして柔らかに入り込むような感覚を覚える。そして、入り込んだ先と自分とが共鳴しているかのような世界に陥る。
そうして当夜は感じ取った。小町は、どうしたら良いか分からず困り果てている。そして何かにすがりたいと思っていても自分がその機会を遠ざけてしまっている。孤独を超えた寂しさに、当夜は自分のことのように共感する。そして、何もできない自分のやりきれなさに、当夜も屋上の床へと視線を落とす。向かい合っていながら、二人はお互いに目線を逸らし合っていた。
それでも――いや、だからこそ、当夜は何か言葉をかけたいと思う。でも、そこに何が来るべきなのかは全く分からない。困り果てた先に、当夜はこんな事を言ったのだった。
「それって、本当?」
失敗した。と思った。分からないことを分からないままにぶつけたせいで、まるで相手の言っていることを疑っているような口ぶりになってしまった。こんな事を言うくらいなら、せめて一緒に黙っていたほうがマシだとさえ思った。
決して浅い言葉ではなかった。「本当?」という疑問は、単なる相手への疑念では無かった。「分からない」、だけではなく、必死に当夜なりの思いを込めてて放った言葉だった。
だからこそ、小町のことを必死で分かろうとする、そんな思いだけは当夜の表情に、声音に、仕草に、確かに現れていた。不器用でも、それだけは表現しようと、少ないリソースを動員して必死に振る舞った。
だって、この屋上で見た小町の笑顔は、間違いなく素敵なものだったから。それが本当なんだと、当夜は信じたいと思ったから。
小町は顔をゆっくりと上げる。口を少しだけ開いて、驚いたような表情だった。その口から飛び出す言葉を待っている時間が、当夜にとっては永遠であるかのようにさえ思えた。
その時間の間に、当夜は自信を失う。もうあの笑顔は、見られないのかもしれない――そう思った。
「ふふっ」
思いがけない微笑が漏れる。当夜には、その声が一瞬どこから飛び出したものか分からなかった。しかし、目の前に広がる小町の顔を見て、その大本をようやく理解した。
「言葉足らずだよ、当夜」
「それって、よくないんじゃないでしょうか、当夜の言葉を借りれば」
「よくない」の響きを聞いた瞬間、当夜は一瞬自分の視界が陰るような感覚を味わった。それでも、「当夜の言葉を借りれば」と言ったときの小町の声音、口角をあげた表情、からかうように手を口に当てる仕草は、そんなネガティブな感情を吹き飛ばしてくれた。それこそが、当夜がもっと見たいと一度思った尊いものに他ならなかった。
「ごめんね、変な話をいきなりしちゃって」
「でも、嬉しかった、当夜、ちゃんと私の話を聞いてくれて」
「でも僕は、前に進む道筋も何も提示できてはいないのに――」
真剣な表情でそう言った当夜を、小町は一瞬真顔で見据えた後、こらえるように笑った。
「真面目だなぁ、当夜は」
「私は、そうやって私の言葉を聞いてくれるだけで嬉しいのに」
「だって、きっとそれは、簡単に届けられるものではないから――」
意味深長な言葉に、当夜は自分の頭を働かせる。相手の境遇とか思いを、勝手に推し量ることは、もしかするとおこがましいことなのかもしれない。でも当夜は、それをしたいと思った。遠い存在だった相手が、今この瞬間だけは、こちらに歩み寄ってくれているような気がしたから。
「届くよ」
「えっ?」
勇気を出して切り出した当夜を、小町はまた真剣な表情で真っ直ぐに見る。そうされる度、端正な顔立ちを自分の前に突きつけるたびに、何度も何度も当夜は怯んでしまう。
美しすぎることに対する照れと同時に、それに触れてもいいのだろうかという恐れ多さが当夜に襲いかかる。それでも当夜は続けた。
「きっと伝わるよ、根拠はないけど」
「それじゃあ駄目でしょう?当夜は面白いね」
「届く」
「簡単じゃないよ」
「届く」
「本当にそう思う?」
何度も同じ言葉を繰り返す当夜の勢いは、次第に弱ってしまう。一度は綻んだ小町の顔がどんどん引き締まって、その言葉に迫真さが加わるごとに、当夜は押し負けていってしまう。
「じゃあ……難しいかもしれない……」
当夜はついに折れた。小町は髪を吹き付ける風に揺らしながら、内に含んだ微笑みを浮かべた。そしてまた、遠慮のない笑い声が響く。豪快さはなく、いつになく女性らしい声だけれども、たしかにその声には飾りも屈託もなかった。
「やっぱり好きだな……当夜……の」
「えっ!?」