彼はとても優しく
「あれ、どうしてだろう」
その時、雫が床に溢れた。
その状態のまま、小町は無力に立ち尽くす。
潤んだ瞳から零れ落ちた涙は、雨のごとく制御が効かなかった。
「おかしいな……」
「こんなはずじゃなかったのに……」
「こ、小町……?」
突然の出来事に、ついさっきまで凛々しく物を言っていた当夜もまたただ立ち尽くすのみだった。
「当夜の言葉に感動して」……もしそうだとしたら、それは美談で終わっていただろう。
でもそうでないのは当夜にも分かっていた。
「私、ダメだ」
小町は掠れた声で弱々しくそう言うと、その場ですぐ身を翻す。
その瞬間に当夜は反射的に手を伸ばした。
……別に何かを落としたり、こぼしたりしたわけではない。
ただ手を伸ばさなければいけない気がした。
伸ばした手が空を切った直後に、小町は走り去っていった。
涙の雫が走りざまに散った。
そして、残酷なまでにその姿は美しい。
数秒の間呆然としていた当夜は、ハッとして小町を追いかけた。
直線の廊下を走って、少しだけ小町との距離は縮まる。声がやすやすと聞こえるくらいには距離が詰まった。
すると、その距離感からは過剰なくらいに大きな声で「来ないで!!」という声が響く。
その声に弱々しさは最早なかった。ただ常人には発揮でないような迫力だけが当夜に訴求する。
その言葉に当夜は一瞬の怯みを覚えたが、それも跳ね除けて走り続ける。
小町が階段に差し掛かると、それ以上距離を縮めることができなかった。
一歩一歩を確かめるように渡っている当夜の足取りと、やけになって上へ上へと飛びつくような小町の足取りには大きな差があった。
その姿は、遠ざかっているようにさえ見える。
それでも追いかけなければならないと当夜は思う。
「来ないで」と言った。でも、本当に「来てほしくない」と思っているのだろうか。
――それは、究極的には分からない。人の気持ちは見えないし、どんなにその人をわかったつもりでいても、確実なことは言えない。
それでも当夜は追いかける。
人のために自分を犠牲にしてしまう、そんな小町が、そのまま自分のもとから走り去っていくことを黙って見過ごすことなんてできなかった。
――自分が小町を追いかけることは、小町の繊細な部分を傷つけてしまうことなのかもしれない。
それでも、そうだとしても、その人のために行動を起こさない理由になるのだろうか?
何もかもを恐れていても何も行動を起こせないんだ。
もしかしたら自分の行動は正しくないかもしれない。でも小町のためにありたいと心から思って、そして心から正しいと思う答えを、そんな不確かな懐疑でふいにしてしまってもいいのだろうか?
――僕は、そんなことは許せない。
当夜は小町を追いかけ続ける。一段、また一段と舞台は高く、より高く遷移していく。
「駄目なの、当夜が来るのは!私の所に来るのは!」
その足を全く緩めることなく小町は迫真の声でそう言う。
「……ごめん、それでも、追いかけなくちゃいけないと思うんだ」
小町はその当夜の言葉を振り切るかのごとくさらに足を早める。
踊り場を回ってさらに上に上がっていく手すり越しの小町を、踊り場より下の段から当夜は見る。視線を上にやりすぎて、少しだけ足を取られる。
途中のフロアで小町がさらに上に駆け抜けていく直後に他の生徒が階段を下ろうとした。
そういえば、こんなことをして小町が他の生徒とぶつかることも考えていなかったな、と当夜は気がつく。
気がついたが、ついに足を止めることは無かった。
「今、冷静じゃないかもな、僕は」
それだけじゃなく、知り合いに見られていたら何事かとなる光景だったし、他にも色々問題がある行動な気はするのだが、そんなことはどうでもよくなるくらい、当夜は集中していた。
「それにしても、僕はノロマだな」
元来の身体能力もなかなかに高く、しかも自分の身を顧みないような足取りの小町に当夜は追いつけない。それどころか距離は離れていっているように感じる。
それでも、上り階段には果てがある。
小町はついに最上階まで達する。そして、ポケットに持っていた鍵を取り出した。
その金属の輝きを、当夜も大分下の段から見つけた。
「屋上か……」
屋上へと向かう最後の階段を小町が上がりきる。その間に、当夜は大分距離を詰めた。
小町が鍵を急いで回して、その扉を開ける。――あれは、外から鍵が掛けられたんだっけ、覚えてないな。
その可能性は低いだろうが、当夜はとにかく小町がその扉を閉ざすまでの間に追いつかなければと思う。
その扉が閉まりかけた時、当夜もドアノブに手を掛けた。そのままの勢いで力強くその扉を引く。単純な力では当夜が勝った。小町はゆっくりと、扉の向こう側からの抵抗を緩めた。
そして屋上への扉は開いて小町は数分ぶりの表姿を当夜に見せる。
そのまぶたは真っ赤に腫れ上がっていた。
当夜がゆっくりと屋上へ踏み出す。
屋上の床に当夜の両足が付いた瞬間に、少しその空間を譲っていた小町は、いきなりゼロ距離に接近した。
……端的に言えば、当夜の胸に飛び込んだ。
「こ、小町!?」
突然の事態に、ここまで堂々たる態度であった当夜が久しぶりの戸惑いを見せた。
「バカ、なんでついて来ちゃったの……」
その声音は涙で潤っていた。
しゃくりあげるような呼吸に意識を向けさせられて、当夜は自分の目の前まで迫った小町の頭を、透き通るような髪を見下ろした。自分まで泣けてきそうなくらい小町は切実だった。
「その優しさが、私を痛くさせるのに……」
「……それでも、僕は自分が間違いだとは思わないよ」
「今の小町には、隣にいる人間が必要だ。僕がそれにふさわしいかは分からないけれど」
当夜がそう言ってしまうと、小町は当夜の服をより強く掴む。
――違う、そうじゃない。
――隣にいてほしい人間は、あなただけなのに。
「ゆっくりで良いから、今の小町が考えていること、話してほしい」
「小町が僕の力であったように、僕だって、小町の力でありたいと思うから」
演劇のことを指して当夜はそう形容する。
その言葉は小町にとって、優しさの棘として小町の心に深く刺さった。