噂の女
十両連なるオレンジ色のカラーの列車が、弾む発車メロディーと共に走り去ろうとしていた。
ホーム上に集まった通勤・通学の人々はそのメロディーに急かされるように、改札へと続く下りエスカレータへと急ぐ。
こちら側のホームとは対照的に意外と空いている逆方面のホームが、電車が走り去ると同時に顔を覗かせた。
今日は、いつもの見慣れた駅名標が格別綺麗に見える。
高架のホームの北口側の窓からは、ビルの連なる街の様子が見えた。
今日もこれだけ大勢の人が、朝の営みを始めようとしている。いつもならば憂鬱なこの時間だが、今日は新学期。心機一転して、彼は鮮やかな光で飾られた自販機の前で大きく深呼吸をした。
「今日は良い一日でありますように」
まっすぐと市街地の上を高架で伸びる線路を見通しながら、彼もまた人ごみの流れの後ろに続いた。
この春から高校二年となる柊凪当夜の通う西部第二学園は、比較的穏やかな駅南口の通りにある。
南口はロータリーになっていて、いろいろな方向へと主要な通りが伸びている交通の要衝だ。
ロータリーの中央部にはこの街の象徴である樹齢何百年とも言われる巨大な桜の木。周縁部は北口ほどではないがそこそこ背の高い商業施設に囲まれている。
学生街でもある南口の真南方面には、大きな学園通りがまっすぐと伸びている。
車道と広い歩道の間には無数の桜の木が並んでいて、通りの両側には個人商店やチェーン店が立ち並んでいる。都会の北口とは打って変わって、落ち着いた並木通りが形成されていた。
当夜はその石畳の通りをまっすぐと歩く。広いこの歩道では、小学生から大学生まで、様々な年代の学生が皆それぞれの想いを抱えながら登校している。
当夜もまた、新学期の始まりとなるこの日に、期待で胸を膨らませながら歩いていた。時には風に吹かれる桜の木に足を止めてみたりして。
これから始まる怒涛の新学年に思いを致すことなどなく。
学園の正門は自転車も通ったりで、この時間は交通量が多かったので、当夜は学園通りから横に逸れた道沿いにある別の門から登校することにした。
――ここなら人は少ないだろう。
そんなことを思いながら、まさかその門から学校の外へ向かおうとする人物の存在など考えもせず、当夜は死角になっている門へ左折しようとした。
「きゃ!」
刹那、当夜は誰かが自分の前からぶつかってきたのを感じる。
「あっ、ごめんなさい、大丈夫ですか!?」
立っている当夜の目線には相手の顔は映らない。よりにもよって相手は転んでしまったようだ。当夜は恐る恐る視線を下げた。
……下げたのだが。
「あっ、えっと……」
「えっと……」
戸惑っているのは当夜の方。そして、当夜にぶつかった相手は転んだ体勢のまま無言。
ちなみに当夜が戸惑っているのは、当夜が人にぶつかっておいて謝罪もできないクズだからという理由ではない。
問題はその相手。
(九段下、小町……!?)
両手を体の後ろ側の地面について、見えるか見えないかの際どい体勢で転んでいる女子は大変な有名人。
それも悪名高い方で……
「ごめんなさいごめんなさい、本当に全面的に悪いのは私で決して小町様が突然飛び出してきたことに対して責任を押し付けるつもりもなく……いや、そんな御託を並べているのが最も失礼やもしれませぬ、ささ、手をお取りくださ……いえ、も私なんどに触れさせるなど何たる失敬であったか……はわわわわ」
当夜は恐れ慄きながら、一旦は小町に差し出した手を空中で迷わせている。
小町の端正な顔立ちは迫力に富む。直接には読み取れないけれども、これは静かに怒りゲージを蓄えているのだろう、と当夜は推察し、地面につくくらいの勢いで頭を下げる。
そう、この美しい顔立ちの少……もとい、お方は大変怖いことで有名だ。
見てくれが随分と良いものだから、入学直後にはテンションの上がったアホな男達がこぞって小町にアタックをかまそうとしたわけだが、ことごとく傷を抉られるような言葉を身に受けて帰ってきたのだった。
おそらくその古傷は、高々一年では癒えまい。その当時の一年生時代の噂は、今でも学園の中に色濃く残っており、小町は男子のみならず女子からも大変に畏怖されている。
なんていうと聞こえは良いけれど、実際には遠ざけられている。
かくいう当夜も小町の噂を耳にして、恐れを抱いた無力な人間の一人だった。
小町は美少女らしくなく咳払いをした。
その転んだ体勢のまま、そっと目を閉じる。
礼の姿勢から少しだけ頭を上げてその様子を伺った当夜には、それは不吉な予兆にしか思えない。
――ここは逃げ出すべきなのか――
「構わない、私が不注意だった」
そう言うと、小町は歩道に手をついて、手早い所作で立ち上がった。
「君には怪我はないか?」
小町はほんの少しだけ表情を緩めてそう言った。
やはり良く見ると顔立ちは異様なくらいに整っている。
くっきりとした二重まぶたに、常人の数億倍透き通った目。
その目を彩るように、すらりと伸びる眉。鼻は不自然ではない程度に高く、緩んだ口元は歪みなく左右対称。サイドに細長く伸びる髪は、幻想的な印象を与える。
そんな美しい容姿に当夜が見とれていると、下から覗き込むようにして当夜に視線を合わせようとしてくる。
「どうした?何か悪いところでもあるのか?」
当夜はふと我に返った。気恥ずかしさから、思わず目を逸らす。
「い、いえ、そんなことはありません、僕こそ、不注意でご迷惑をおかけしました」
「そうか、それでは気をつけてな」
小町はまた真面目な顔つきに戻って、当夜から歩き離れ始めると、上半身だけ振り向いて片手を当夜に向けた。
男勝りな口調が小町には全く似合わない。容姿だって当夜が知っているどの人間より女性的だし、所作も概ね曲線的な優雅さだった。
何か買い物でもしようとしているのだろうか、校舎から去る小町の姿を見ていた当夜は、自分の心が不思議な波紋を広げているような気がした。
足音が完全に遠ざかるまで、当夜は小町が歩んだ軌跡をじっと見つめていた。