53 そのころの貴賓室
「ふうん……ようやく、かな」
二階にある貴賓室の窓辺から下を眺めて、アレクサンダーは満足気に呟いた。
「覗き見はどうかと思いますけれど」
「そうは言うけどさ、ロザリンド。あんなところにいれば目も行くって」
「だとしても、です」
この窓からは、ケヴィンを囲む集団から少し離れて立つ第三王子とその婚約者候補の姿がよく見える。さすがに声までは聞こえないが二人の距離は親密そうで、とうとうティガーまで下ろされた。
ちらりと見えた柔らかな光は、きっとエイミの治癒魔術だろう。
試合観戦にはうってつけの窓辺だが、競技の合間の今は他に人はいない。貴賓室に入るなり、ここに直行したアレクサンダーにロザリンドが尋ねる。
「……試合後は、まず救護室か控室に行くものでしょう。アレク様はどうして直接こちらに? 急がなくとも、決勝戦までは時間がありますけれど」
ジャハルだってそうした、とちらりと奥にいるレティシア達を見てロザリンドは胡乱気だ。
適当に土埃を叩き落としただけの服は汚れが残っているし、軽いとはいえ怪我の治療もしていない。顔だけは室内――ロザリンドのほうに向けたが、相変わらず窓脇に寄り掛かっていて、そこから動く気はないと見える。
質問の形を借りた真っ当な抗議に、アレクサンダーは面白そうに口角を上げた。
「そうだなあ。じゃあ、今からロザリーが救護室に連れていってくれる?」
「だからその呼び方は……はあ、いいです、分かりました。では早速参りましょうか」
「え、いいんだ?」
「ここから出る口実にさせていただきます」
自分で言っておきながら目を丸くするアレクサンダーに、ロザリンドは声を潜めて軽く辺りを見回した。
競技場の外観そのものは堅牢なだけで地味極まりないが、この貴賓室と、さらに上階の王族専用室は内装にかなり手をかけている。
広い空間に絨毯を敷き詰め、壁には美しいタペストリー。舞台側一面に並ぶ窓には凝った枠……軽食や飲み物も用意された貴賓室は、名だたる高位貴族の面々が優雅に集う、まぎれもない社交場だ。
「お招きはありがたいのですが、私などがいつまでも貴賓室にいるのはおかしいのです」
「そうか? そんなことはないと思うけど」
ロザリンドは今日は一市民として、寄宿先の親戚と一緒に一般席で観戦する予定だった。ところが、突然レティシアからの迎えが来て昨夜は侯爵家に泊り、競技場も一緒に来た。
家族でも婚約者でもないのに、試合前のジャハルやアレクサンダー達に会えたのは良い。
しかし、そのまま貴賓室まで連れてこられてしまったのは予想外だ。
レティシア宅で侍女達によって髪も肌も念入りに整えられている。侯爵家で用意された外出用のドレスもよく似合っていて、この部屋にいるほかの令嬢達にひとつも見劣りなどしていない。
とはいえ、ここにいるのは家格が上の貴族達ばかり。レティシアの学友、そして公爵夫人と知己ということでお目こぼしされているものの、社交デビュー前の一伯爵令嬢の身では、正直、肩身が狭い。
それでもレティシアと一緒のうちは緊張しつつもどうにかやっていられたが、ジャハルが来てからはそうもいかず――レティシアからは助けを求める視線が何度も送られてきているが、割って入ることなど無理で、率先して壁の花になっていた。
だからアレクサンダーが来た時には、不覚にも少し、いや、だいぶほっとしてしまった。顔見知りがいるということのなんと心強いことか。
「地方のしがない伯爵家の身には、分不相応です」
「堅いなあ」
「普通です」
「ま、そこがいいんだけれど」
本気にしたら誤解されかねないことを、さらっと口にする。
最近はもうずっとこんな感じなので、ロザリンドはアレクサンダーの言葉を話半分に聞くことにしていた。が、いろいろと参っている今は、軽口を流す余裕がない。
「ふざけています?」
「いたって真面目。あ、ロザリー、ほら」
「ちょ、アレク様……!」
ぐいっとロザリンドの肩を抱かれ、窓辺に誘導される。
下を見るように言われて、多少後ろめたくも視線を落とせば、抱き合う――というよりは、エドワードにしっかりと抱き込まれているエイミの姿があった。
「よかったなあ、エド」
「……本当によろしいのですか?」
アレクサンダーが思わず零した呟きが本心からだというのは、表情からも声色からも分かる。だからつい、不躾に訊いてしまったが。
「あ、疑ってる? 幼馴染が好きな女の子と一緒になるのは、いいことだろう」
「それは、そうですけれど」
迷いのない返事に噓はないのだろうけれど……アレクサンダーはエイミに好意を持っている。本人も否定しなかったし、婚約が調い始める年齢になっても、そういう話を聞かないこともそれを裏付けていた。
エイミの友人である自分との距離が近い気がするのは、音楽会を通していろいろ隠さなくていい相手になったからだろう。
「確かに、エイミのことは気に入っているよ。もしもエドと上手くいかなかったら、公爵家に来てもらおうかと思っていたし」
何食わぬ顔でアレクサンダーは答える。だが、そうだろうな、と思ったロザリンドの予想が合っていたのはそこまでだった。
「取りやめになった元王子妃候補を拾えば、王家にも恩が売れるだろ?」
「え?」
現在ただ一人の婚約者候補であるエイミは、当然エドワードのほかにそういった相手を探していない。
もしも今から候補を降りた場合。相手を探し始める時期にはすっかり遅れているし、たとえエイミに非がなくとも、婚約者としての器量がないと断言されたと同じだ。そんな令嬢に良縁は難しいだろう。
しかし、王家の分家でもある公爵家に縁づくのなら話は別だ。エイミへの誹りは回避され、長年の拘束への代償にもなる。
「……人助けのつもりですか?」
「んー、その一面もないとは言えないけれど。俺の親とも仲がよくて面倒がないしな」
「でも、エイミの気持ちはどうなります?」
「ははっ、家のために、孫もいるような爺さんと結婚しようとしていたロザリーがそれを言うんだ」
ぐ、と言葉に詰まる。それこそ面倒がないからと、損得で婚姻を考えていたのはロザリンドだ。
アレクサンダーのほうが相手に好意がある分、はるかにマシな気さえする。
「で、でもそれは」
「ああ、俺が潰した。悪いとは今も思っていない」
楽しそうな声には裏がない。
公爵家から待ったをかけられた相手候補達は、こぞって身を引いた。それによりロザリンドの相手探しは白紙に戻った上、また何か言われるかと及び腰になって、すべてが保留の状態。
実家からの縁談を勧める手紙もすっかり大人しくなり、読書時間も確保できるようになって、ロザリンドとしては満足している。
それもこれも、アレクサンダーのせい……おかげなのは、不本意ながらも事実。
男女問わず交流の幅は広いが、実は淡泊な付き合いしかしない。
そんな公爵令息は、友人を見守り、好きな子の盾となり、妥協で結婚しようとしている知人を止めて――他人のことばかりだと、ロザリンドは思う。
「アレク様って、お人好しだと言われません?」
「いや、初めてだけど」
「絶対そうです。領地経営や事業には向きませんよ、きっと」
「しっかり者の奥さんを貰うから大丈夫」
そう言うとさっとロザリンドの手を取って、その甲にキスをした。
エスコートされたことは何度もあるが、さすがにこういう接触は初めてでロザリンドは分かりやすく驚く。
「だから、ロザリーは俺のとこに来なよ」
「っ、な、……はぁ!?」
「あれ、そんなに意外? 結構アプローチしていたつもりだったのに」
驚きが残っているうちに、更に爆弾を投げられた。
ちょっと待て、そんな話だったか、と今の会話を思い出そうとするが上手くいかない。
口を開け閉めして声にならない言葉を発するロザリンドの手をもったまま、アレクサンダーは満足げに目を細める。
「カヴァデール公爵家に領地はこれ以上いらない。ノールズの特産品を売り込めそうなところは、いくつか心当たりがある」
「え、ちょ、」
「家のことは協力してもらうけれど、本だって勉強だって支障が出ない限りは好きなだけしたらいい」
どうだ、というように言ってのけるのは、いつかロザリンドがアレクサンダーに告げた結婚にまつわる必須事項だ。それさえ叶えば、あとはどうでもいいと。
「……よく、覚えて……」
「惚れた日のことは忘れないだろ」
「っ!?」
「いろいろと強烈だったしな」
細い瞳をまん丸にしたロザリンドに、アレクサンダーはもう一度口付ける。今度は指先に――自分の生き方を決めようとする強さに惹かれた、と呟きながら。
さすがにロザリンドの頬も赤く染まる。
「それに、俺と結婚すればエイミとの縁は切る必要がない。というか、むしろ切れない。ああ、公爵家の猫達もついてくるからポーシャも喜ぶ」
「……それは強烈な口説き文句ですね」
「だろう?」
自信たっぷりな笑顔を見せるアレクサンダーにつられて、微笑みそうになる。
泳ぐ目を誤魔化して窓の外に向けると、エイミのスカートに前足を伸ばして抱っこをねだっていたティガーが、ようやく抱き上げられるところだった。
ノースランド伯爵夫妻も合流して、何か話しながら四人と一匹で室内へと戻っていく。
ちらりと見えた、恥ずかしそうに微笑むエイミの表情がやけに眩しい。
「レディ・ロザリンド・ノールズ」
改めて手をきゅっと握られフルネームで呼ばれて、アレクサンダーと向き合う。
「そろそろ返事がほしいんだけど?」
「……検討します」
「そこは『はい』だろう」
「アレク様は、やっぱりお人好しです」
強引に命令できる立場なのに、相手に決定権を渡す人なんていない。まあ、断られる気もないのだろうけれど。
「両親とも話さないといけませんし」
「ああ、ノールズ伯爵なら『娘が頷いたら』って」
「……は? え、待ってください。なんですかそれ、いつの間にそんな」
「先に親に許可を取るのは当然だろ」
「まさか、ノールズまで行ったんですか?」
「こっちが頭を下げるのに、呼びつけるわけないじゃないか」
聞いていない。だが、心当たりはある。実家から婚約者を斡旋する手紙が急にこなくなった理由はそれか。
王都から公爵令息自らが地方へわざわざ……実家の慌てぶりが眼に浮かんで、ロザリンドは額を押さえてしまった。
「……信じられない」
「ノールズはいいところだな。のんびりしていて、料理もうまい」
「我が家のコックが作るキドニーパイは絶品ですよ……」
「来月も出してくれるように頼んである」
さすがに聞き捨てならず、がばりと顔を上げる。
「アレク様、来月って」
「ロザリーも食べたいだろ? 一緒に行かないんなら俺一人で行くし」
「いや、だから、ちょっと待ってくださいって」
大きな声が出そうになったのを直前で飲み込んだのは、我ながらよくやったと思う。せっかく今までスルーされているのに注目を集めてしまったら、本当に身の置き所がない。
慌てるロザリンドに対して、アレクサンダーは非常に楽しそうだ。
「ちゃんと手綱を握っておかないと勝手に決めるぞ。ロザリーは相手は誰でもいいんだろ? なら、俺にしておけ」
結構お買い得だと思うけど、などと軽口を叩くが、瞳の奥には真剣さが覗いて見えて、どうしたものかとロザリンドは迷う。
迷うが、これだけは言っておかなければならないだろう。
「……少しは相談してほしいです。とりあえず、どこかに行く時は私にも決めさせてください」
「分かった。どこに行きたい?」
食事か買い物か、などと言うアレクサンダーの肘に、ロザリンドは自分から手を掛ける。
「救護室に決まっています」
まずはここを出るのが先でしょう、と微笑めば苦笑いを返された。
「……やられたな」
「あら、勝負でした?」
「いいよ、一生かけて勝つから」
「っ、また、そういう……!」
断言するアレクサンダーにまた赤面させられてしまう。
こんなことを言っても、いざとなったらアレクサンダーはロザリンドに譲るのだろう。
自然とそう思えてしまう自分に驚きつつ、二人で貴賓室を後にした。