50 試合開始
空気を震わすような大歓声に圧倒されながら、エイミは競技場のほうへと顔を向ける。
音声拡張のスピーカー的魔道具は観客席側を向いているようで、はっきりとした言葉は聞き取れない。観客達の声援の中、切れ切れに届くアナウンスはどうやら出場者の紹介をしているようだ。
「そろそろだな」
「ほらエイミ、近くで見ましょう」
両親に促されて、開口部の前に並んでいる椅子へと移動する。ティガーは当然、エイミの膝の上……といきたいが、そうすると前が見えにくくなるので足元に座ってもらう。
歓声の大きさや振動のような音の響きが怖いのか、ティガーは半身をエイミの体にぴったりとつけて離れない。
大丈夫だよ、とおでこのあたりを撫でると、安心するように目を細めるから、エイミもつられて微笑んでしまう。
この部屋にいる人たちも皆、気持ちは試合に向いていて、もうこちらに注目していない。エイミの肩からもようやく力が抜けていった。
そうして落ち着くと、先ほどのジャハルの申し出が頭に浮かぶ。
――レティの話し相手に、っていうことだろうな……。
レティシア最優先のジャハルだし、そう考えるのが自然だ。
王宮でも複数飼われているくらいの猫好き国家バクルは、機会があれば訪れてみたいと思っている国ナンバーワンでもある。
軽く言われたがふざけた態度ではなく、冗談とは感じなかった。
王族からの招待であれば無下にもされないだろうし、身元さえ保証してもらえれば治癒魔術師として働いて自活することだってきっとできる……もしもの時の逃亡先として、バクルは悪くない。
そう思った時。どうしてか急に頬に触れるエドワードの手の感触が蘇って、エイミの胸がチクリと痛む。
――っ、で、でも……。
婚約者「候補」は、婚約者ではない。
法的にも対外的にもエドワードとエイミを繋ぐ拘束は公に存在せず、お互いの行動を制限する権利も義務もない。エイミもエドワードも、その意味では自由なのだ。
それを、寂しいと思ってしまった自分に戸惑う。
ゲームの登場人物達が揃ったとはいえ、ストーリーが進んでいる様子はない。さらにその登場人物も、ゲームのキャラ設定とはどうも異なっている気がする。
だが、心配なのはヒロインが現れた後のゲームの強制力だ。
イサベルには「そんなものはない」と笑い飛ばされるけれど、記憶に刷り込まれたイメージは強大で、どうしても気にせずにはいられない。
その一方で、ここがゲームの世界であってもなくても、未来なんて誰にも分からないという気持ちもたしかにある。
だからこそ、今できることを精一杯やるしかないのだ。心の準備も含めて。
「エイミ?」
「あ、うん」
ぼんやりとしているように見えたのだろう。隣に座る母にぽんぽんと腕を軽く叩かれて、物思いから目が覚めた。
心配そうに前髪を指で除けて覗き込まれ、顔色を確かめられてしまう。
「疲れた? どの試合も白熱していたから、きっと救護室も忙しかったのよね」
「うん、でも大丈夫。お母様、ジャハル王子から聞いたのだけど、この試合にエド様が出るの?」
「ああ、そうだな。準決勝だ」
「準決勝!」
母の向こうから届いた父の言葉にエイミは驚く。
いつの間にそこまで勝ち進んだのか。これまでの試合を見られなかったことを、改めて申し訳なく思ってしまった。
準決勝ともなれば、相当強いはず……エドワード達も、対戦相手も。エイミはジャハル達に勝ったチームのことが俄かに気になった。
「お母様はずっと見ていたんでしょう、相手はどんな人達?」
「それがねえ、びっくりなのよ」
「?」
イサベルは少し困ったような、でも楽しみなような複雑な表情をする。
あれ、と思って父を見ると、そちらも似たようなものだ。
「もしかして、何か問題のある相手?」
「問題っていうかね、あ、始まるわね」
イサベルの指先が示す方向を見ると、出場者が現れるところだった。少し距離はあるが、ここから顔も分かる。
歓声の中、最初に登壇したのはアレクサンダーだ。慣れた様子で客席に手を振ると、きゃあっと一際高い声があちこちから上がる。
「わ、すっご……」
「ふふ、アレク君、自分の立ち位置をよく分かっているわぁ」
アレクサンダーの人気ぶりに驚くエイミに、イサベルは楽しそうにくすくす笑う。
忘れそうになるが、彼は公爵家の令息かつ眉目秀麗、というハイスペックな人だった。自分が十歳の頃からの付き合いで、余所行きでない顔ばかりを見ているからうっかりしていた。
ほえ、とした顔で眺めるエイミの目に次に映ったのは、朝に会ったケヴィンだ。今度は騎士団の関係者らしき男性を中心にどっと太い声援が上がり、渋い顔で一応手を上げて応えている。
その彼に続いて、三人目の人物が壇上に姿を現した。
そのとたん、一際大きな割れるほどの歓声が沸き上がる。
「……エド様」
ルドゥシア国第三王子の登場だった。
兄王子達に比べて影の薄い印象のエドワードだが、こうして大勢の前で堂々と立っている姿には特別感というか、やはり雰囲気がある。そしてこの歓声は、今日これまでの試合で善戦してきた証拠だろう。
三人が着ているのは騎士団の制服だ。同じ部分甲冑で、腰から剣を下げている。今朝のラフな姿もそうだが、こういう服装もエイミは見たことがなかった。
自分の知っている「エド様」ではないようで、なんとなく座りが悪いというか、取り残された感じがする。
だが、そんな気持ちを脇によけてエイミは目を凝らした。
――怪我は、なさそう……どこか庇っている様子も見当たらない。
疲れはあるだろうが、今のところ怪我は大丈夫そうで、少しほっとする。
エドワードは笑顔を浮かべながら、会場を埋め尽くしている人たちをぐるりと見渡している。誰かを探すような視線が、最後にエイミのいる舞台後ろの関係者観覧席で動きを止めた。
――……!!
エイミを見つけたエドワードがあんまり嬉しそうにするから、息が止まった。
低い位置で小さく手を振られて、思わず自分も振り返す。
それだけなのに、耳の奥がキンとなるほど何かが込み上げて心臓が早鐘を打つ。
歓声と、地面を踏み鳴らす足音と、拍手と、そして自分の胸の音。
何が一番大きいのか分からない。
エイミはすがるように手を下に伸ばし、喜んで上ってきたティガーを抱き上げてその体に顔を埋めた。
トクトクというティガーの鼓動と、ふわふわの毛と、いつもの体温。
安心できるそれらに包まれて、少しだけ呼吸がラクになる。
「気づいてもらえたわね、エイミ……って、なにしてるの?」
「なんか、もう、心臓に悪い……」
「あなたクラーケン討伐の時もそうだったわね。慣れていないのは分かるけれど、怖がってばかりいないでちゃんと応援しなさいよ」
「うぅ、がん、ばる」
まだ試合も始まっていないのに、とイサベルに苦笑されて、おずおずとティガーの隙間から顔を出す。
ぴょん、と立った三角の耳を視界の端におさめながら、前に向き直ったエドワード達の後姿を見ていると、ステージの反対側から対戦相手も登壇してきた。
まず、冒険者らしい服装が目を引いた。マントを着けている三人が持っている武器は剣、槍にボウガン。そして一人だけすっぽりと頭からフード付きのローブを羽織っているのは弓使いのようだ。
人数は四人。競技のルール上、人数差が一人の場合は補正されないし、武器の選択は自由だ。
人数の少ないほうのチームが勝つことも珍しくはないとはいえ、なんとなくモヤッとしてしまうのは仕方がないだろう。
そうして四人が顔の見える距離まで近づいてくると、エイミは目を見張った。
「……は? お兄ちゃん?」
観衆の大喝采に右腕を上げて意気揚々と応えているのは、どう見ても兄のハロルドだ。
エイミは思わず立ち上がりそうになる。
エドワードとジャハルはトーナメント表の両端に近かったから覚えていたが、兄達のチームの対戦予定など、細かいところは把握していない。棄権や急な欠場などで変動があるのが普通だからだ。
驚いて固まるエイミに、イサベルが機嫌よく話しかける。
「ね、びっくりしたでしょ」
「したよ! どうして!?」
「いや、どうしても何も、トーナメントだからな」
「お互い勝ち進んだから、当たっちゃったのよね」
「当たっちゃったって……お父様もお母様も、そんな軽く言って……」
どうしてか、エドワードと兄は当たらない、と信じ込んでいたようで、不覚にもこの対戦カードは全く予想していなかった。
何度目を擦っても、そこにいるのはよく知った顔。
こちらに気付いた兄はグッと親指を立ててみせ、イサベルも楽し気に手を振り返す。息子の晴れ舞台にジョシュアも心なしか得意そうで、混乱しているのはエイミだけだ。
「さあ、エイミはどっちを応援するかしら?」
「どっちって、」
そういえば、ジャハル王子も同じことを訊かれた。
だが、そんなことを言われても困る。エドワードに勝ってほしいのはもちろんだ。でも、兄だって負けてほしいわけではないのだ。
口ごもるエイミに小さく微笑むと、イサベルは話題を変えた。
「お兄ちゃんのところの新メンバーさんにはもう会った?」
「あ、ああ、ヤスミンさん。ううん、まだ。朝に控室に行ったんだけど、お兄ちゃんとその人だけいなくて」
「そう。ほら、ハルの隣に少し背の低い子がいるでしょう」
「えっと、うん。分かる」
壇上には兄とギルバートとニコラス、そしてもう一人。弓を持ちフードを被ったその人は、ハロルドより余裕で頭一つ分は背が低い。
フリーで冒険者をやるくらいだから、サポート役だとしても、もっとがっしりした人物を想像していたエイミには少し意外だった。
「フードが邪魔で顔が見え……あ、取った。え?」
パサリと落とされたフードの下は、ピンクブロンドのポニーテール。決してありふれた色ではないそれに、エイミの胸が強く鼓動を打つ。
ハロルドがエイミ達を指さしながら、ヤスミンに何かを耳打ちする。
くるりとこちらを向いたその人と、目が合った。
――ヒロインっ……!!
祖父の領地、ウォーラムの港町で出会った女の子。
ヒロインだという確証は直感以外に何もなく、四年前のそれ以来見かけたこともないのに、一日たりと忘れられなかった。
外見は多少変わったかもしれない、それでも見間違えることなどない。
「クラーケンを退治したとき、逃げ遅れた船があったでしょう。あの時の子なんですって」
「覚えて、る……」
イサベルの声が遠くに聞こえる。
頭の奥でガンガンと鐘のような音が鳴り、あんなに大きかった歓声も今は膜を一枚隔てたみたいだ。
ティガーを抱きしめる腕が震えているのが自分でも分かる。
――で、でも、確かあの子は違う名前で……。
混乱しつつも「ヤスミン」は兄が勝手につけた仇名だったと思い出すが、何の救いにもならない。
ヒロインは少し緊張した面持ちでエイミに向かって小さく会釈をすると、他の人達と同じに前を向いた。
競技場の舞台には、エドワード達と兄達が、ヒロインが、それぞれ一列になって距離を取り、向かい合っている。
瞬きさえできなくなったエイミの前で、試合開始の合図が高く響いた。




