42 馬車の中
帰都は明日のはずのエドワードが、どうして今ここにいるのか。
エイミが現状を把握する前に、王子の護衛も到着する。旅装用の甲冑を鳴らして馬から降りたダリオスは、相変わらずの強面に分かりやすく困った表情を浮かべていた。
「殿下」
「ああ、ダリオス。少し速かったかな」
「少しどころではありませんよ。それに、人のいない道をよくご存じで」
どうやら、街道ではないところを通ってきたらしい。王都の街中を爆走してきたわけではなくてエイミはほっとする。まあ、そんなことをする人ではないと知ってはいるが。
警備は大丈夫なのかな、とそちらも心配になったが、こうしてダリオスがついて来ているから問題ないのだろう。
そんなことを思っているエイミに、エドワードが再度向き直る。
「それより、エイミは帰るところでしょう。少しだけ待ってもらえるかな、私が送るよ」
「エド様、今着いたばかりなのに?」
「うん、でもさすがにこの恰好では一緒の馬車に乗れないから」
そう言って肩をすくめるエドワードを改めて見れば、砂埃や汗でたしかにヨレヨレだ。いつも「王子」としてきちんとしている人の、こういう姿は初めて見る。
――絶対、疲れてるよね。でも……。
会いたいから、というだけの理由でいったいどれほど無理をしたのだろうか。先ほどの言葉を思い出してしまい、エイミは戸惑う。
礼を言って辞退して、早く休んでもらうのが正しい対応。そう頭では分かっているのに、断りの言葉がでてこない。
エイミの逡巡などお見通しなのだろう、安心させるようにエドワードは明るく言う。
「大丈夫だよ。まだ向こうにいるはずだったから、明日の予定は元々ないんだ。戻ったらちゃんと休むから」
「う……うん、それなら」
エイミの返事に満足そうに頷くと、御者達に出発の延期を告げて先ほどまでいた厩舎に戻る。
立ったまま水を一杯飲んだだけで、エドワードは身支度を整えに応接室を出ていった。その間に、エイミはダリオスから事情を聞くことにする。
「――じゃあ、ハンナさん達は別行動なのね」
「はい。馬車で移動するより速いから、と殿下と私だけが単騎で戻ってきました。ほかの者は予定通り、明日の到着です」
「帰って来ちゃって、あの、お仕事はいいの?」
公務をおろそかにするようなエドワードではないはずだが。
確かめるようにそっと聞いたエイミに、ダリオスはグラスを置いて笑みを浮かべた。
「予定の査察や慰問は全て済んでおります。実は、追加されたという領地に赴いてみたら、話が違いまして」
「違う?」
「視察の用すらありませんでした」
「……困った御方がいらっしゃいますこと」
接待目的ですよ、と両手のひらを上にしてみせるダリオスに、カラフェから水を注ぎながらアリッサが呆れたように答えた。
なるほど、とエイミも納得する。
――派閥争いの関係かぁ……そういうの、エド様は好きじゃないものね。
王家の後継者争いを絡めた派閥抗争は、エドワードが最も厭うことだ。従者達を置いて、元凶となる自分をその場から去らせたとしても不思議はない。
ルドゥシア国王の後継は、友好国から伴侶も迎えた第一王子で既に決定している。
すぐ下の第二王子は軍で力を発揮しながらも、自分はあくまで兄の補佐だと公言してはばからない。そういう盤石の態勢が次世代に整っている現在、貴族のなかにある王太子派と、第二王子派の間でも目立った反目はない。
普通に考えれば、継承順位も下位で、今後重要なポストに就く予定もない第三王子に取り入ってもメリットはないはずだ。
だが、王家との直接の繋がりというものは、たとえどんなに細くとも魅力的なものだろう。今回の旅程に、そういった領主貴族からの意向が反映された可能性はある。
実際にそれを喜ぶ者もいるし、エドワードだって必要だと判断したならば甘んじて受けるに違いない。けれど、こうして早々に見切って予定を繰り上げたというわけだ。
「……でも、」
ルドゥシア国は王を持つ国ではあるが、絶対王政ではなく、貴族議員や文官達の意向も治世に加味されている。スケジュール管理や外交の調整も文官達の仕事だ。
時々王城で顔を合わせることもある彼らは優秀で、一筋縄ではいかなそうな者ばかり。
自分の仕事にはプライドがある者達のこと、予定外の勝手な行動は面白くないと感じるのではないだろうか。
第三王子という立場的にも、実務の多くを取り仕切る文官達とあからさまに衝突するのはいい手とは言えない――父が「案外見所がある」とまで言うようになったエドワードのことだから、それも見越してのことかもしれないけれど。
「最低限の義理は果たしましたから、問題ありませんよ」
「そう、なのね」
それでも表情が晴れないエイミに、ダリオスは大きく頷いて、にっと笑った。
「殿下としてはもっと早く、昨日のうちに向こうを発ちたかったようですが」
「え?」
「久しぶりにエイミ様が王城にいらっしゃるのに、と何度も仰って」
「ちょ、ちょっとダリオスっ」
せっかく落ち着いたのに、不意打ちはやめてほしい。また上がった顔の熱を両手で押さえて下げようとするが、手も熱くて全く意味がない。
あわあわとうろたえるエイミを、ダリオスやアリッサが微笑ましく見守っているところにエドワードとマーヴィン達が戻ってきた。
「楽しそうだね、エイミ」
「エド様っ」
「お待たせ。じゃあ、行こうか」
「え、もう? 少し休んでからでなくて大丈夫?」
「うん。あまり遅くなると局長も心配するしね」
それに、送りながら馬車でも休めるから、とエドワードに手を引かれてエイミもソファーから立ち上がる。
第三王子の移動ということで人員配置も変わり、マーヴィンが御者をして、護衛にダリオスとスコットが馬で並走する。アリッサは王子が王宮に戻ってからの支度のために残ったので、馬車の中はエドワードとエイミの二人だ。
これまでも馬車で二人きり、という状況になったことがないわけではない。
とはいうものの、細い明かりが灯された狭い空間は、今のエイミはどうにも緊張してしまう。
なんとなくぎこちないエイミに、エドワードはくすりと笑って話しかける。
「マーヴィンから聞いたよ。レーニスのこと、ありがとう」
「あ、ううん、私は何もしていないけど……」
「飼育員達は誰もそう思っていないようだった。それに、私もエイミのおかげだと思う」
両手を振って否定するエイミの言葉を、エドワードは軽く流してしまう。そしてエイミの手を取ると、まじまじとそこに目を落とした。
壊れやすいものを扱うような柔らかい仕草に、エイミはまた息を呑む。
――っだ、だからなんでまた!
今までだって何度もエスコートされたし、手を取られることだって別に珍しくないのに、どうして今日はいちいち胸が騒ぐのだろう。
もし馬車の中がもっと明るくて、まるで大事な宝物を映すようなエドワードの瞳が見えていたら、もっと平静でいられなかったに違いない。
諸々をごまかすように、エイミは強引に話題を変えた。
「っそ、それよりエド様のほうは、大丈夫だったの?」
「ああ、うん。ダリオスが話したんだね。私は今回の件は、試されたと思っているけれど」
「試す?」
「利用しようと近づく者がいた場合に『第三王子』がどう動くかを、文官達は見たかったのじゃないかな」
ちょっと視線を外して頷いて、エドワードは他人事のように言う。
一見平和に見えていても、政情の変化を望む者はどこにでもいる。時には、あえて混乱を起こし、何事かを為す必要がある場合もあるだろう。
第三王子は付け入る隙を与える存在なのか、逆に近づいた者達を利用できるほどの器なのか――政情と自分の立場、役割。現状認識を確認する意図がそこにあったと、エドワードは見ていた。
「使える第三王子はいらないけれど、使われるようでも困るからね」
苦いものを含んだような、諦めの混じったような声。
そんな予想外の返事とともに、握られたまま膝の上に下ろされた手に少し力が入る。
エドワードはいつも穏やかに笑っていて、愚痴のようなことは口にしない。こんな風に話してくれることは今までになかったから、どんな顔をして聞けばいいのかエイミは分からない。
ちらちらと揺れる明かりに照らされる表情は定まらないけれど、むしろ今はそれで良かったのだろう。
「だから公務も文官も心配しなくて大丈夫。って、あれ、エイミは心配してくれたんだよね?」
「……うん。公務も……だけど、」
王族というこの国最高位の旧家は、エイミから見たら不自由な生き方に縛られている。もともと一般市民だった前世でも、貴族階級に生まれた今世でも、その印象は変わらない。
前世と同じ両親のもとに生まれたエイミは、貴族としてそこまでは求められていない。
だが、エドワードは違う。
公爵家のアレクサンダーも似たような立場だが、やはり背負うものは比ではないはずだ。
エドワードが生まれた時からそうならば、改めて不満に感じてはいないかもしれない。兄王子達のほうがより多くを求められているに違いない。
それでも、重いだろう。
比べるものでもないし、エイミがこんなふうに思っているとエドワードが知ったら、不愉快に感じるかもしれないけれど。
時折聞こえる噂や父の話からも、王家のなかでエドワードの立ち位置が難しいことは知っていた。
いろいろ飲み込んで、乗り越えてきたのだろうと思う。あまり頼れる人がいない環境だっただろうに。
――強いよなあ。やっぱり「王子様」なんだな。
すぐに逃げ出したくなる自分とは違う。
疲れているからこそ零れて、見せた一面ではあるのだろう。
けれど、取り繕わない部分を人前に出すことは、きっとエドワードにとって仮面を被るより難しいに違いない。
そう分かるくらいには長い時間を一緒に過ごしてきた。
エイミに向けるエドワードの眼差しは、以前も今も変わらない。いつも静かな銀色めいたグレイの瞳が、二人で会う時はずっと柔らかく見える。
だから、笑顔まで向けられると、胸の辺りがそわそわして仕方がない。
落ち着かない気分になるのは、距離を取るべき「攻略対象者」に警戒しているからだと、自分に言い聞かせてきた――今までは。
「お仕事よりも、エド様のことが心配」
「……エイミ?」
「本当は、ティガーを抱っこするのが私には一番なんだけれど」
重ねたままの手を持ち上げて両手で包み込む。そのままそっと開かせた手のひらを、ぷに、と柔らかい頬に当てた。当然だが、エイミが自分からこうするのは初めてで、王子は分かりやすく驚いている。
エドワードの生い立ちを慰めることも、重荷を取り除くこともできない。それはエイミにもよく分かっている。だから。
「私に触ると、気分が良くなるってみんなが言うの。自分じゃ分からないけど、もし本当にそうなら、エド様にも効いたらいいなあって」
「……うん」
効果ありすぎるかも、と小さく漏らした口を反対の手で覆ってエドワードは視線を泳がせる。耳まで赤く染めた二人が二人とも、車内が暗くて助かった、と思っているのだった。