41 私と仔馬と……!?
全身にまとわりつく倦怠感。頭は熱っぽくぼんやりして、一刻も早く休みたいのに、なんとなく落ち着かない。
今世では幸いにも経験がないが、前世のエイミには覚えのある感覚だ。
そう。たとえば、試験前に一夜漬けをした時とか、はまった本を夜通し読み続けた翌日とか。
「……つまり、寝不足?」
環境の変化で寝つきが悪くなり、結果体調を崩すという話はよく聞く。枕が代わると眠れないという繊細な人も多い。
とはいえ、馬が寝不足になるかな、とエイミは首を捻る。
馬はほかの動物と同じように、終日かけて浅い眠りを繰り返す。幼い仔馬や、安心できる環境下では横になって眠りもするが、それだって人間のようにまとめて何時間も眠るわけではない。
立ったままウトウトするのも馬にとっては立派な睡眠。それすらできていないということもあるのだろうか。
「なるほど、眠る環境ですか」
「え、マーヴィン」
ぽろりと零れた独り言を耳ざとく拾われて、エイミは焦る。真に取られるには、根拠が甚だ心もとない。
「そういえば、食事や温度は気を付けていましたが、寝藁などは盲点でしたな。どれ早速」
「ちょ、ちょっと待って、本当にただの思いつきだし、それに寝藁ならいつも清潔にしているのも知っているわ」
「まあ、調べるだけは構いませんでしょう」
止めようとするエイミをそっちのけで、マーヴィンは近くにいた職員に飼育履歴書を持ってこさせる。
間もなく届いたそれによると、領地での寝藁には、ウッドシェーブ、つまり、おが屑も常用していたと記入があった。ちなみに、藁もおが屑も馬の寝床として一般的に使われているものだ。
「なるほど。ここは藁だけですから、おが屑も用意してみますかな。これならすぐに手に入りますし」
「でも、全然関係ないかも」
「いいのですよ、エイミお嬢様。なにか試せることがあるだけで、こちらの気分が違います」
「そう? それならいいのだけど……本当に期待しないでね。あ、ふふ、くすぐったいよ、レーニス」
マーヴィンの嬉しそうな雰囲気が伝わったのか、レーニスが鼻先を初めてエイミの顔に寄せてきた。
そのまま匂いを嗅ぐように、首や髪のあたりでフコフコいっている。どうやらエイミに対する警戒は解けたようだ。
触れさせてくれただけでも満足だけど、こうして相手からも距離を縮めてもらえるのは嬉しい。
ぴと、とくっついてきたレーニスに、エイミは添えていた手をゆっくりと動かした。自分の少し高めの温度でレーニスの気持ちが温まるように、できるだけ優しく撫でる。
――やっぱり、動物とも言葉が交わせるような魔術があったらよかったなあ。
パチリとした瞳にはこの新しい場所はどう映っているのだろう。生まれた領地や、離れた母馬を恋しがってはいないだろうか。
人の都合で連れてこられた王城の馬場だけれど、せめて悪くないと思ってほしい。伝えられない言葉の代わりに、こつりと額をくっつけた。
「レーニス、元気になってね」
嫌がらずに目を細めている仔馬に、エイミだけでなく周りもほっとした空気になった。と、ふいにレーニスがエイミの肩にかかったストールをパクリと食む。
「え?」
「レーニス!」
するりと解けた布をマーヴィンが取り返そうとするが、仔馬は柵から少しだけ距離を取り、ストールを咥えたまましゃがみ込んでしまった。
「エイミ様お怪我は!? ああ、お召し物が!」
「大丈夫よアリッサ。ねえレーニス、それは食べられないのよー?」
「っく」
ピントのずれた声掛けをするエイミに、護衛の騎士は吹き出しそうになるのを堪える。どうにもここにいると緊張感が緩んでしまう。
マーヴィンやアリッサが慌てる前で、前脚を軽く折り、咥えたままのストールを下敷きにレーニスは堂々と横になって目を閉じた。
飼育員が柵の向こうに行こうとするのを止めてそのまま見守っていると、やがて、気持ちの良さそうな呼吸音が聞こえてくる。
「これはまた……」
「レーニス、もしかして寝ちゃった?」
唖然とするマーヴィンと対照的に、エイミは目を泳がせて両手で頬を押さえた。
「や、やだ、こんなによく眠るのに『睡眠不足かも』だなんて。ごめんなさい、やっぱり、」
「とんでもない。お嬢様、間違ってなどいませんよ」
「え? だって」
やはり的外れなことを言った、と真っ赤になって詫びるエイミだが、マーヴィンは大きくかぶりを振る。
「飼育員の前でも常に気が休まらない様子でした。初対面のお嬢様方の前でこうもリラックスするのは、正直言って予想外です」
「そうなの?」
「今のレーニスなら逃げることはあっても、ここで横になるなんてありえませんな」
柵を隔てた向こうで眠るレーニスは、エイミのストールを枕のように敷いている。うっとりと目を瞑り、全身の力を抜いた無防備な仔馬の姿に、誰からともなく安堵の息が漏れた。
「なんにせよ、悪いことではありますまい。寝藁の件も試して様子をみましょう」
「……マーヴィンがそう言うなら」
眠ってしまったレーニスを飼育員に任せて、エイミ達はその場を後にした。
そのあとは、他の動物達をみたり、恒例になった職員達との情報交換会という名目のお茶タイム。そしてフェンテに乗って散策。
その間レーニスの様子も確かめたが、何度か目を覚ましたものの寝て起きて、を繰り返しているようだ。睡眠不足の解消か、寝だめなのか分からないが、付いている飼育員達がみな嬉しそうにしているので、それでいいかと思うことにした。
そろそろ帰ろうかと馬車の用意を始めて、もう陽も傾き始めていたことにエイミはようやく気が付いた。久しぶりの馬場を堪能していたら、予定よりかなり遅くなってしまった。
侍女や護衛がつくとはいえ、未成年の令嬢の帰宅時間には遅いことをマーヴィンが申し訳なさそうに詫びる。
「お引止めしまして」
「いいの、私も楽しかったわ。それにほら、今日はこれを借りてきているから」
「ああ、ノースランド局長の特別製ですな」
時間が経つのも忘れて過ごしてしまったのは、エイミも同じ。
心配はいらないと、エイミはドレスの奥についたポケットを軽く叩いてみせた。そこには、ジョシュアが家族用に作った特別な通信用魔道具が入っている。
王城の職員達に携帯させているのと違い、GPS的な機能がついている。さらに、異常を感知すればすぐに父の元に知らせが届く仕組みだ。
世情は落ち着いていて治安が悪いわけではないが、貴族籍で王家に関わる立場のエイミは狙われる可能性がある。そして、事件に巻き込まれても人海戦術による捜索が基本で、どうしても時間がかかるのだ。
父が採算度外視で作った道具だから、魔石も純度の高いハイクラスなものを使っている。原価だけでもちょっと引くくらいのコレを持ち歩くには一抹の不安がある。
とはいえ、護衛を増やすよりは負担が少ないのも確かで、単独で外出の際はこうしてポケットに入れているのだった。
ちなみに、父には帰宅が遅くなると連絡済みだ。
気を付けて帰るようにと言った本人は、今日もまた残業らしい。母のあきれ顔が思い浮かんでエイミはこっそり苦笑したのだった。
「次に来られるのは、競技会の後だと思うわ」
「はい。しかし、ご衣裳のこと本当に申し訳ありません」
「もう、マーヴィン。気にしないでって何度も言ったでしょう」
「ご温情ありがたく……レーニスのこともお任せ下さい。何かありましたら、いつも通りお手紙でご連絡させていただきますので」
「うん、そうしてね。それじゃあ……ん?」
マーヴィン達飼育員に別れの挨拶をして馬車に乗り込むべく、護衛のスコットに手を預けようとした時だった。道の向こうにいた職員のほうから驚きを含んだざわめきがたつ。
声と視線の示す先は、この場に至る一本道の先。黒っぽい馬に乗った誰かがこちらに向かって駆けてくるようだが、暮れ始めた空の下では馬の色も手綱を握る人物の顔もよく分からない。
「エイミ様、私の後ろに下がってください!」
「お守りします、ご心配なさらず」
即座に警戒姿勢を取ったスコットの背に庇われ、アリッサに後を守られる。
職員達の驚きようからいって、アポを取ってある訪問者ではないのは確実だ。乗馬の腕はあるようで、あっという間に距離が縮まり、ここに到着するのもすぐだろう。
敷地のはずれとはいえ、王城内。門衛もいるし、あちこちに警邏も立っている。悪漢が入り込んだとは限らない。
――でも、誰?
緊迫した空気から伝わる不安を鎮めるように、ドレスの下に着けたペンダントを布の上から無意識に握りしめる。
そのエイミの視線が馬上の人の姿を捉えると同時に、マーヴィンの安堵を含んだ驚きの声が響いた。
「ウェントス!? それに、殿下!」
それは、今日は戻ってこられないと手紙に書いた――
「……エドさま?」
「よかった、間に合った……!」
エイミに話しかける嬉しそうな声は、少し息が切れている。顔に疲れは見えるし髪も乱れているが、確かにエドワードだ。
ウェントスを止め、さっと降りると、急ぎ足で駆け寄ったマーヴィンに手綱を渡して世話を頼む。束の間離れた視線はすぐにエイミの元に戻ってきた。
そうして迷いのない足取りでまっすぐに向かってくる。
スコットとアリッサが警戒を解いて礼を取っても、エイミは目をぱちくりと見開いて立ち尽くしていた。
――だって、手紙に。それに皆も言っていた。
「今日、は、戻らないって、」
「うん。その予定だったけれど、エイミに会いたくて急いで帰ってきた」
そう言って、いつものようにエイミの手を軽く握って持ち上げる。そうして満足そうに目を細めた。
「どうしても今日戻りたいのはウェントスも同じだったみたいで、よく駆けてくれたよ」
「そ、そうなの」
「エイミ、迷惑だった?」
「え、ちがっ、お、驚いてっ」
会えないと思っていたのだ。会えなくて、残念だと……会いたかったと思った人が、目の前にいる。
そのことに気が付いて、エイミは自分の顔に熱が集まるのを感じた。持たれたままの手も熱い。陽が高い時間だったら、全部ばっちり見られてしまっただろう。
隠すこともできずうろたえるエイミに、エドワードはそれはもう、にこにこと嬉しそうな笑みを浮かべる。
「あとでウェントスのことも褒めてくれるかな? すごく頑張ったから」
「そ、それはもちろん。あ、あの、エド様、あのっ」
「ん、なに?」
――手! 手を、離してほしいけど、そんな笑顔されたら言いにくいっ!?
「えっと、あの、」
「うん」
「あ……お帰りなさい。今日、会えて私も嬉しい」
結局、言えたのは何の変哲もない挨拶で。
それなのにエドワードがますます嬉しそうにするから、ついエイミも一緒に笑顔になってしまう。
――あくびは伝染るっていうけれど、嬉しいのもそうなのかな。
暮れかけた馬場で、まだ回らない頭で、そんなことをぼんやりと思った。




