40 仔馬と対面です
ほかの馬達とも一通り交流し終わったエイミは、屋外の馬場から厩舎へと向かう。仔馬はそちらで、大人の馬とは別に飼育されているのだ。
マーヴィンは軽く振り返って、エイミに話しかける。
「献上された仔馬ですが、少々繊細でして、まだここに馴染めないでいます。実は、お嬢様に触れていただいたらそれも良くなるかと期待しているのですよ」
「マーヴィン、私の手にそんな効能はないわ」
治癒魔術で怪我を治したり、痛みを和らげたりはできる。しかし、性格を変えるような魔術はない。
当然それを分かって言っているマーヴィンに、エイミも冗談めかして軽く答えて笑い合う。
「あら。エイミ様に治癒魔術をかけていただくと気分まで明るくなりますから、効くかもしれませんよ」
「ええ、アリッサ」
「本当ですよ。胸が温かくなるというか、ほっとするのです」
「それは、私の手がアリッサよりあったかいからじゃない?」
ほら、とエイミはアリッサに並ぶと手を握った。小さめでふっくらもっちりとしたエイミの手は実年齢よりも幼くみえる。
「……やっぱり、なんだか気持ちがいいです」
「ふふ、手触りが?」
「まあっ、エイミ様」
ころころと笑い合う二人に、後ろから従う護衛騎士のスコットの生真面目そうな表情もつい緩む。
今までのやり取りで、今日の担当に指名された時、同僚に羨ましがられた意味が分かってきた。同じ護衛をするのでも、守られて当然とばかりに傲慢な態度を取る貴族相手とは雲泥の差なのだ。
そして、ノースランド伯爵令嬢の警護は緊張感を保てなくなるから気を付けろ、とも言われたことを思い出し、平和な厩舎で気を張り直す。
「母や友達も『あったかーい』って、くっついてくるもの」
「ああ、分かる気がします」
確かに、丁寧に手入れされた肌はきめ細かで、ぽっちゃりした体は見るからに柔らかそう。とはいえ、一番の理由は、エイミがいまだ未自覚なヒーリングの能力にあるのだが。
当の本人は、そういった能力を持つ【加護者】と呼ばれる人の話を聞いても「すごい人がいるんだねぇ」などとのんびりしたもの。
貴族に転生して第三王子の婚約者候補になっても、前世から続くモブ意識は健在。悪役令嬢役から全力で逃げ出そうとするくらいには、平凡を絵に描いたような心持のエイミである。
当然、自分がそういった重要人物の一人になりえるとは、欠片も思っていなかった。
だが現実に、エイミが馬場を訪れたあとは、治癒魔術をかけずに触れ合っただけの動物達も機嫌がいい。エイミが馬場に出入りするようになった早い時期に、マーヴィンはそのことに気がついた。
今まで動物に好かれる飼育員もそれこそ大勢見てきたが、どうも少し様子が違う……「精霊の加護」という言葉が頭をよぎったところで首を振った。
歴代の加護者は皆、王家の子孫か敬虔な神官ばかりだ。
しかも、晩年になってからそうと分かるのが多い。この、ほわんとした女の子がまさか加護者とは、常識的に考えられない。
それに、加護者として公に認定された者は特殊な立場に置かれ、家族とも離される。戦時であるとか、身寄りがなく生活にも窮しているとかならともかく、今の時代の平凡な一令嬢にそれは酷だろう。
念のため、エドワードだけには懸念をぼかして伝えた。
黙って話を聞いたエドワードが得心がいった表情を浮かべたのを見て、マーヴィンは改めて詮索をやめたのだった。
そうとは知らないエイミの進行方向に、学校の体育館程度の運動場が見えてきた。半屋外になっていて、少し低い柵の向こうに数頭の仔馬達がまとまっている。
その集団から少し離れて、芦毛の仔馬が一頭でぽつんと立っていた。
足先だけが少し黒くて、体躯のバランスがよく、ほかの仔馬に比べても成長したら立派になりそうな雰囲気がある馬だ。
「あの子ね!」
「はい、レーニスといいます」
駆け出しそうになる足を堪えて近づくエイミに、マーヴィンも馬を驚かさないように声を抑えて話す。
「綺麗な子ね。それに賢そう」
「頭は良いですな。だからこそ敏感なのでしょう」
新しくきた仔馬は、領地で離乳を済ませ、母馬とは離れたばかりだという。
瞳を不安そうに何度も瞬かせてあちこちを気にしている。落ち着きなく歩いたり、止まったりするが、ほかの馬が近寄ると、さっと距離を取っていた。
「本来、馬は群れで生活します。新しい場所に馴染むのに時間のかかる馬もおりますが……できれば早く、と思ってしまいまして」
そう言って、バツが悪そうにこめかみのあたりを指で掻いた。
マーヴィンは軍に所属していた若い頃からずっと、馬と関わってきた。結婚もしなかったため、部下や馬達が子どもみたいなものだ、と以前に話してくれたことがある。
小さな頃のエドワードがこっそりと厩舎に来るのを、何も言わず見守ってくれていたような人だ。忙しなく耳を動かしながらウロウロするばかりのレーニスに、気を揉むのは当然だろう。
黙って眺めていると、こちらにようやく気付いたレーニスが、おっかなびっくり近づいてきた。数日前からようやく、マーヴィンの元にだけは自分から来るようになったのだそうだ。
マーヴィンに顔を寄せるレーニスだが、エイミ達を見るとやはり怯えたように視線を背け、前脚を地面に叩きつけるようにした。これは、何か不満があるときに馬がよくする仕草のひとつだ。
息を荒くするレーニスの背を、ぽんぽんと宥めるように軽く叩きながら、マーヴィンが苦笑する。
「こういう状態です。最初の頃はそれほどでもなかったのですが、日に日に扱いが難しくなりまして」
「今までに病気とかはないのよね?」
「ええ、血統や既往症は確認しました」
問題のある馬を献上するわけもない。だとすると、やはり環境の変化でナーバスになっているのだろうと思われる。
ただ、普通は徐々に慣れていくものだが、逆に悪化してきているというのが気になった。
「そろそろ、人を乗せる練習を始めたい時期なのですが、今のままですとまだ無理でしょう」
「そう……でも、広い外でたくさん走ったほうが、気分転換にもなるわよね」
ほかの馬に怯えるうえ、最近は外にも出たがらなくなったとマーヴィンは困り顔だ。待つことはできるが、それで状況が改善しなかった場合、対処の遅れに繋がるのも懸念される。
献上馬の飼育と調教は、王家からのみならず贈り主の貴族からも注目されている。飼育に関わる者も気の休まるときがないのだ。
パッチリと大きい焦げ茶色の瞳は警戒に揺れている。とはいえ、噛みついたりする様子もなさそうだ。
ただ、走ってもいないのに、今も息が乱れている。
――呼吸が速いかな。心臓や呼吸器にも問題がないなら、緊張しているだけとも考えられるけれど……。
治癒魔術はあくまで治療ができるだけで、診断は医者の領分だ。さすがにエイミにはそこまでの知識も経験もまだ足りない。
でも、具合が悪いのなら何かして慰めたいと思う。腹痛の時にお腹に手を当てたり、転んでできた擦り傷に「痛いの痛いの飛んでいけ」をするみたいに。
そう思ったら、自然と手が伸びていた。
「おっと、お気を付けて。ああは言いましたが、お嬢様が怪我などされたらそれこそ大変です」
「大丈夫、挨拶だけ。嫌がったら止めるから……こんにちは、レーニス。私はエイミよ」
視界の脇から見えるようにゆっくりと動かして手を当てた瞬間、びくりとレーニスの体が大きく震えた。だが、それ以上は動かない。
仔馬だからフェンテよりもずっと小さく、見上げなくても目線の高さが合う。エイミは静かに話しかけながら、微笑んでみせた。
怖がらせないように、安心してもらえるように。
すると、触れたままのエイミの手のひらに、じんわりと何かが伝わってきた。
――え、なんだろう? ……もしかしてレーニスの感情、というか、気分?
重傷の動物に治癒魔術をかけようと体に触れると、患畜が感じている痛みとか、苦しさの気配が伝わってくることが時々ある。
今感じているのは、それらとは少し違う。
重だるい、濁ったようなイメージ……エイミはその感覚に覚えがあった。




