31 音楽発表会・表 *後書き小話「あずまやで一休み」
演奏会の行われる学園の会堂は、一般的な歌劇場と似た造りになっている。高く据えられたステージ、奥に向かって傾斜のつく観客席。スポットライトこそないが、煌々と灯る魔法灯で演者は十分に明るく照らされる。
その舞台中央では、器楽の授業の発表者達が順番に演奏を披露していた。
前寄りの列の中ほどの「いい場所」に席を取って、エイミはロザリンド達の出番をわくわくして待っていた。隣にはつんと澄ましたレティシア、そしてさらにその隣にバクル国からの留学生であるジャハル王子が掛けている。
今から舞台に立つロザリンドとアレクサンダーがここにいないのは当然だが、エドワードの姿もない。演奏の合間に二階席を見上げたレティシアがぽつりとこぼした。
「ジャハル王子は貴賓席にいらしたらよろしいのに。警護が大変ですわ」
今日のジャハルの警護は離れたところではなく、彼の隣と、エイミの隣の席についている。そういった意味では、エイミもレティシアも共に守られており、いつもは聞こえる陰口も静かなものだった。
「レティのお願いでもそれは聞けないな。一緒にいられるのに離れて座るなんて、考えるのも全くの無駄だね」
ジャハルはそう言いながらあくまで自然にレティシアの手を取り、指先に唇を寄せる。
「っ、ジャハル王子!」
「留学先では、多少の自由行動は許されるものだよ。まあ、レティが一緒なら向こうに座ってもいいけれど」
「お、お断りしますわ」
二階中央に設けられた貴賓席は、王族も通う学園ならでは。時折観覧に訪れる、王家に連なる方達が使うその席は当然ながらそれなりの設えとなっていて、舞台がよく見える。そして客席からもよく見える。
ちなみに今日の貴賓席は空席だ。そんなところにこの愛情表現豊かな婚約者と二人きりで座ったら、砂糖を振り撒くどころではない。レティシアは慌てて握られた手を引っ込めた。
「二人は仲良しだねえ」
「エイミっ、殿下がいらっしゃらないからって」
小声でにこやかに言うエイミに、レティシアは赤く染まった頬を向ける。エドワードはここにも貴賓席にもいない。在学中とはいえ毎回の発表会を観覧するわけではない「第三王子」が来たことでの特別扱いを避けるため、観客からは離れて舞台裏の職員席で観ているのだ。
残念そうに向こう側へと行ったエドワードに、王族というのも色々大変なのだな、とエイミは改めて思った。
「ところで、レティはどの演奏がよかったんだ?」
「そうですわね、今までの中ですと二番目のカウンターテナーのファルセットは、わりと好みでしたけれど」
「……僕だってすぐに彼くらいの身長になる予定だ」
「わ、私は発表した人物ではなく、歌のことを話しているのです!」
「そう? よかった、ああいうのが好みだっていうなら、ちょっとどうしようかと思ったから」
「な、」
にやりと形のいい唇の両端を持ち上げるジャハルの黒い瞳は、軽い口調と反対に不遜に光っている。
「あ、ヤキモチ?」
「エイミっ、もう、二人とも!」
エイミの直球の指摘に一瞬怪しさを孕んだ雰囲気は霧散して、ジャハルもくつくつと笑い出した。やっぱり仲がいいよなあ、と思いながらエイミは隣の二人を眺める。一緒に同じものを見て、それについて屈託なく話す……動物のことでも音楽のことでも、共通の話題というものはとても楽しい。
――エド様だったら、どの発表が気に入ったって言うかな。
本人が不在のためレティシアを揶揄えるくらいの余裕があるが、その一方でここで一緒に観たかった、とも感じてしまう自分がいることに気が付いた。
「エイミ、どうしましたの?」
「な、なんでもない。大丈夫」
無意識に考えていたことに驚きプルプルと頭を振って、レティシアに心配されたエイミだった。
「えっと、それより、もう少しでロザリンドの出番だよね、レティ」
「そうね。アレクが足を引っ張らなければいいのですけど」
「え、アレク様ってピアノ下手だった?」
「弾くのは上手ですわ。そういう意味じゃありませんのよ」
万事控えめが好みのロザリンドにとって、アレクサンダーは真逆の存在だ。
この発表会に二人で出ることはあっという間に噂で広まり、最初はかなり居心地悪そうにもしていた――隙あらば練習に駆り出されて、日を追うごとに分かりやすく消耗していくロザリンドの姿に、次第に羨望と嫉妬よりも同情が勝っていったのだが。
「そうそう、楽器もね、カヴァデール公爵家のバイオリンを使えって、なんかすごいの渡されたって青くなってた」
「まあ、あれを? ……ふうん、そうなの」
なにか含んだ表情のレティシアだが、それを訊く前に次の演奏が始まり、エイミは口を閉じた。ピアノの伴奏に続いて高らかに歌い上げるソプラノがホールに響く。技術的には本職には敵わないが、張りのある甘やかな歌声はこれで学生というのだから驚きだ。
すごいなあ、とエイミは素直に感嘆する。絵も音楽も、自分が知っている前世に比べて一般の学生でも随分と完成度が高いというか、芸術性が高いのだ。とはいえ前世でも、クラシックの音楽会が流行最前線で人気演奏家はアイドルさながらだった時代も過去にはあったから、一概には比べられないのだが。
客席から僅かに覗く舞台袖に、人影がちらりと見えた。ロザリンドかと思ったのだが、彼女が着ると言っていた落ち着いたベージュのドレスとは色が違ったから別の人かもしれない。
でも、もうすぐだと期待に胸を躍らせながら、終盤のコロラトゥーラにエイミはうっとりと聴き入ったのだった。
* * *
ロザリンド達の順番の、一つ前の学生の演奏が始まった。舞台の音は客席に向けて響くように設計されているから、こうして舞台袖で聴く音は距離が近いわりにどこかよそよそしい。
いつもと違うように聞こえる同級生の歌声を耳にして、ロザリンドはまた一つ息を吐いた。
「そんなに緊張しなくても」
「……誰のせいだとお思いですか」
「言って気がラクになるなら、いくらでも俺のせいにして構わないよ」
「ええ、そうさせていただきます」
おどけたように肩をすくめてみせるアレクサンダーに、ロザリンドはぞんざいに答えた。
この半月の猛練習で言い合うのがすっかり普通になってしまい、うっかりすると家族に対するような態度すら取りそうになる。なんとか止まってはいるが、アレクサンダーのほうもそれを歓迎している節があるため、今後に関してはロザリンドもいささか自信がない。
「お屋敷が買えるほどの高価な楽器に、着たこともないような豪華なドレス。演奏のお相手はあのカヴァデール公爵令息。これで緊張しないほうがどうかしていません?」
「そう? 心配しなくても、楽器は家にもともとあったものだし、ドレスもよく似合っている。いつもそういうの着ればいいのに」
はああ、と溢れる深い溜息にアレクサンダーは楽しそうに目を細める。その気安い雰囲気に、ロザリンドもようやく表情を緩めた。
「……世のご令嬢憧れのアレク様が、こういう御方とは」
「こういうって、どういうかな。俺は俺だよ、この通り」
「言葉遊びをしたいのじゃありませんわ」
「まあ、俺としてもノールズ伯令嬢がこんなふうだとは思わなかったから、そこはお互い様ということで」
声を潜めながらの会話は自然、距離が近くなる。婚約者でもない未婚の男女としてあり得ない密着具合に我に返ったロザリンドが慌てて数歩下がった。それを見て、またアレクサンダーが楽し気に含み笑いをする。
――本当に。お互いに相手がこういう人物だとは予想外だったのだ。
~ある日のノースランド伯爵邸~
「あ、ふくた!」
どのくらいの高さで、目標物を見つけているのだろうか。かなり上空を飛んでいる時から、ふくた(改名前:ルードル)はエイミのことを認識しているようだ。
ファサ、と髪を揺らすほどの羽ばたきで、白フクロウはエイミの腕に危なげなく降りる。お疲れ様、と労うと、偉いでしょう、というように頭を寄せてくる、白くて大きな羽根のこの子が可愛くて仕方がない。
軽く撫でて用意していたオヤツをあげると、嬉しそうに完食する。そのまま空へと戻る日もあれば、しばらく滞在する日も。ふくたの今の寝床は、王城とノースランド伯爵家の両方に用意されていた。
「エイミ、殿下がいらしたわよ。エイミ? ……あら」
「構いませんよ」
声を潜めて、エドワードは立てた人差し指を唇に当てる。いたずらっぽい表情に、そういえばこの王子は息子より歳下だったと今更のようにイサベルは思い出した。
……よかったこと。
彼にとってこのノースランド伯爵家は、気構えたり取り繕ったりする必要のない場所になっているらしい。
庭のあずまやで休むエイミはこちらに気付いていない。
ゆったりと腰掛けて引き寄せた腕にふくたを止まらせ、その下の隙間に重なるようにティガーは膝の上。両方を順番に撫でながら、何か小さく歌っている。
時折、身じろぎするフクロウと猫に向かって微笑むエイミは、心の底から幸せそうだ。
約束していた遠乗りの迎えに来たエドワードだったが、邪魔をするのも忍びない雰囲気につい、声をかけ損ねる。
エイミのあんな顔が見られたのならいいか、と思っていると、上着の裾をクイ、と引っ張られた。
「ん? わっ!」
「ベェ〜〜」
「……エド様の声? はっ、時間! あ、メルにロー、食べちゃ駄目!」
立ち上がりそうなのを察して即座に移動するティガーと、さぁっとあずまやの屋根へと飛び上がるふくた。祖父から贈られた黒と白のヤギ二頭を押さえるエドワードとイサベルのところへ、駆け出すエイミ。
わちゃわちゃとした楽しげな声に、ほんのりとした一時は幕を引かれたのだった。




