29 猫と楽器の関係 *後書き小話「贈り物は……?」
微笑んで皆の話に相槌を打っていたロザリンドが、ちらりと室内の壁掛け時計を窺った。
手にしていたカップを静かに戻すと、テキストや筆記用具などの入ったバッグを寄せて手荷物をまとめ始める。
「私、そろそろ行かないと」
「あ、そんな時間? ロザリンド、ごめんね。私が代わりに弾ければよかったのだけど……」
「いいのよ、エイミ。気にしないで」
しょぼんと眉を下げるエイミに、ロザリンドは姉のような眼差しを向け、いい子いい子と髪を撫でた。
「弾く?」
「器楽の発表会です、エドワード殿下」
ロザリンドの返答に、腑に落ちた顔をするエドワードとアレクサンダー。学園の器楽の授業では、各々が選んだ楽器を講師について習い、最終的に大勢の前で発表をして単位を獲得するという流れになっている。
教養の一つとして幼い頃から楽器に親しむ貴族は多い。月に一度、学園の会堂で催される発表会はなかなか聴きごたえがあり、卒業生や保護者も観覧可能なこともあって毎回盛況なのであった。
ここでも興味を示したのはジャハル王子だ。
「ふうん、そういうのがあるのか。それで、楽器は何を?」
「私はバイオリンです。ただ、ピアノの生徒と二人で合奏する予定でしたが、彼女が出られなくなってしまって」
発表スタイルは自由だが、数人で組んでアンサンブルをしたり、伴奏者を連れてきたりする生徒が多い。ロザリンドにも同じクラスで一緒に練習を重ねていた相手がいたのだが、親戚が亡くなったため先週から休学して領地に戻っているのだった。
このまま復学しない可能性がでてきたため、申し訳ないが演奏のペアは他の人に代わってもらってほしい、と急ぎの手紙が届いたのだという。
「今から本番までに代わりの方を探したり、新しい曲に変えるのは難しいです。ですから、発表の日を来月以降に延ばしていただけるかどうか、先生に相談に伺おうかと」
「なるほど。エイミは楽器を弾かないのか?」
「小さい頃は習っていましたが、今は何も」
「エイミのところはティガーがね」
その理由を知っているエドワードは楽しそうに付け足した。隣のアレクサンダーも頷いている。
「ティガー?」
「私の猫です。楽器を練習しようとすると、必ず一緒にしたがって」
困ると言いながら、全く迷惑ではなさそうなエイミが語るには――ピアノを弾こうとすれば、さっと鍵盤に乗って両手足で素晴らしい和音を奏でてくれる。
バイオリンを始めると、弓の動きが気になるらしく、猫じゃらしよろしくパンチを繰り出す。
フルートは一緒になって鳴きながら、エイミに乗りかかって抱っこをせがんでくる……等々。
実は、ティガーがこうした行動をするのは、エイミが演奏するときだけ。母やその他の人が演奏するときなどは、ソファー、もしくはエイミの膝の上で静かに耳を傾けているいい子なのだ。
そんなわけで楽器の演奏は諦めて聴く専門。選んだ授業も実技ではなく、鑑賞がメインの音楽史だ。
「そ、そうか。それは大変だな」
「可愛いからいいのです」
さすがに苦笑いのジャハルに、エイミはティガーを思い出して胸元で手をきゅっと結んで目を細める。
初対面の他国の王族が相手でも、猫のこととなると会話も滑らかだった。
「ところで、曲は何を?」
「あ、はい」
ロザリンドの答えたのはやや難曲ではあるが、誰もが知っている曲。
おや、とエドワードが幼馴染のほうを向く。
「その曲なら、確かアレクが弾けたよね」
「あら、じゃあ代わりにお弾きになったらよろしいのではなくて?」
「そんな! だ、大丈夫です!」
降って湧いた話の行き先に驚いたロザリンドが両手を前にして遠慮する。
それはそうだろう、顔を合わせるようになったとはいえ、キラキライケメンの公爵家令息と大勢の前でデュオなんて。玉の輿狙いの肉食令嬢でもなければ、色々な意味で心臓に悪すぎる。猫で縁のできた公爵夫人が相手のほうが、よっぽど心安いかもしれない。
エイミと猫友かつ類友のロザリンドは恋愛や結婚についての感覚も似ていて、まだ婚約者もいない。本が好きな彼女は、実は独身のまま司書になるのが将来の夢だったりする。
とはいえ、さすがに最近は、実家や寄宿先の夫人からいろいろとお相手を勧められているようだが。
「ええ? 俺、面倒――」
「アレク。週二回の器楽の授業は、サー・ディオンの魔術実技と同じ時間だったね。そういう事情なら欠席でも最低単位は貰えるはずだよ」
「――でもないな。楽譜は持っている?」
やる気なさそうに視線を飛ばしたアレクサンダーだったが、エドワードの誘い文句は強力で、寄りかかっていた椅子の背もたれから身を起こした。
「え、あ、はい。ここに」
「よし! 発表会は今月末だったよな、半月あるし余裕だろ」
「えええっ? ほ、本気ですかっ?」
「もちろん。そんなわけで、ジャハルの学園案内はエドに任せたから」
「うん、分かったよ」
相変わらず厳しいディオン卿の授業を合法的に欠席できる機会を逃す手はない。いそいそと楽譜を受け取ったアレクサンダーは、パラパラとめくりつつ上機嫌で鼻歌まで歌っている。
いつもしっかり者で落ち着いているロザリンドが事態を飲み込めずにおろおろしていて、珍しいものを見られたとエイミはなんとなく得をした気分になった。
「そっか、最初からアレク様に頼めばよかったんだ」
「これで一安心ね、ロザリンド」
「エイミ、レティまで……どうしましょう、別な意味で緊張してきましたわ」
気が変わらないうちに、と思ったのか、アレクサンダーは急かすようにロザリンドを立たせると講師のところへ報告に向かった。
心でドナドナを歌いつつ、何度も振り返るロザリンドに笑顔で手を振るエイミとレティシアなのだった。
「それじゃあ私達もそろそろ動こうか」
「今更だけどエド、学園の案内をしてくれるのはレティじゃだめなのか?」
「私は今から授業がありますの」
「……仕方ないな」
別れの挨拶に出したレティシアの手を握ったジャハルはそのままぐいっと引き寄せて、婚約者の柔らかな頬に見事なキスをした。
エイミは思わず声が出そうになった口を手で押さえ、そのまま指の隙間から覗き見る状態で固まる。
「~~~っ!?」
「虫避けのおまじないだよ、レティ」
みるみる薔薇色に染まるレティシアの見事な紅潮ぶりに感心していたら、エイミの目の前にタルトが現れた。迷う間もなく、ぱくりと口に入れる。
もぐもぐしていると、先にテラスから中庭に降りたジャハルの後を追うようにエドワードも立ち上がって二人に笑顔を見せた。
「それじゃあ、エイミもまたね。レティシア嬢、ジャハル王子をお預かりします」
「わ、私のものじゃありませんわ!」
「おや。では、そういうことにしておきましょう」
楽し気に去っていく二人の王子に礼をとるレティシアとエイミだが――
「……レティ。ちゅって聞こえた」
「っ、え、エイミ! さっきのタルト、どなたが食べさせてくださったか分かってそういうことを言いますの?」
「はうっ!?」
両手を上げているのに勝手にタルトが口まで飛んでくることはありえない。当然、誰かが「あーん」をしたわけで……。
思い至って、ふしゅ、と改めて湯気を出す。
そんな二人がそそくさと授業へと向かった後には、まるで蜂蜜を振り撒かれた気分になった令嬢達ばかりが談話室に残されたのだった。
~ありし日のバクル国~
どこまでも青い空の下、アラベスク文様に彩られた建物が優雅にそびえ立つ。高く丸い天井にも、ひんやりとした石の床の全てにも精緻な模様は施されていた。
蔦の絡まるアーチが連なる中庭には湧き出る清水が引かれ、軽やかな水滴が樹々を潤す――ここは砂漠のオアシス、バクル国の王宮。
そこに連なる小宮殿の一つには、第一王女が嫁ぐ予定のルドゥシア国との調整役であるエルフィンストン侯爵が、家族と共に住んでいた。
「レティシアお嬢様、贈り物です」
「まあ……ジャハル王子からね」
自国とは違う異国の衣装の侍女がうやうやしく差し出した籠には、布が掛けられている。
また珍しい果物か何かだろうか、と思いながら受け取ると予想外に軽くて驚く。と、その時、籠の中で何かが動いた振動が手に伝わった。
「な、え? これって」
「きっとお喜びになると仰せでした」
そっと布をめくると、白い艶やかな毛玉が見えた。
美しい黒の斑点が全体についていて、もぞもぞと動き―ちょい、と上げた顔にはぴょこりと大きな薄い耳、眩しそうに見上げるグーズベリーグリーンの潤んだ瞳。
「……ねこ?」
「ミミです」
「猫よね?」
「猫です」
「な、なんで急に、「ナァー」
赤子より高い鳴き声は小さいものだったにもかかわらず、まるで虎にでも吠えられたようにレティシアは肩を震わせて目を丸くした。
そんな主家の令嬢の様子を、侍女は嬉しそうに眺める。
「鳴いたわ!」
「猫ですから」
狐につままれたような表情で、レティシアは目の前の子猫と侍女とを忙しく見比べた。
「こ、この子はどうしたらいいの?」
「可愛がってあげてくださいまし」
「いえ、そうだけど、そうじゃなくてっ、あ、どうしましょう、動いたわ!」
「猫ですから」
自分は籠を持ったまま動けなくなっているレティシアは、いよいよ笑いだしてしまった侍女を窘める余裕もない。
「これまでの贈り物で、一番お嬢様の反応がよろしいですわね。ジャハル王子もさぞお喜びになられましょう」
「そういう問題じゃないで「ンナ〜「また鳴いたわ!?」
「ですから、猫ですって」
実はこれまで猫も犬も飼ったことのないレティシア。異国の地でやや持て余し気味だった彼女の生活は、この日を境に大きく変わるのだった。
・・・・・・
※ミミのモデルはエジプシャンマウ。