20 討伐の裏側で
討伐船の近くにクラーケンが現れてすぐ、沖に浮かんでいた数隻の漁船は皆慌てて避難していった。しかしそのうちの一隻はなにかトラブルがあったのか逃げそびれてしまい、その場を離れられずにいた。
クラーケンはより大きな船を襲う傾向がある。討伐船に意識が向いているため小型の漁船は攻撃対象にはなっていないようだが、荒れる波にもまれてさっきから何度も転覆しそうに大きく傾いだり海水をかぶったりしている。
乗っているのは二名だが、船べりにしがみついて海に投げ出されないようにするのが精いっぱいで、操舵も出来ない状況だ。
「お、お母さん、あの船っ」
「救援が出たから大丈夫よ」
膝の上でぎゅうと抱いたティガー越しにしか沖を見られないエイミから、オペラグラスを受け取ったイサベルは冷静に状況を話す。討伐船から下ろされた小舟が慣れた様子で波を越えて漁船に近付くと、一人がロープを持って飛び移り、そのまま曳いて陸に向かって動き出していた。
「はあぁ、よかったぁ……!」
「お祖父ちゃんの隊は優秀だからそんなに心配しないの。ほら、後はちゃんと自分で見なさい」
ほとんど涙目のエイミに苦笑いしながらオペラグラスを渡すイサベル。受け取って覗くと、討伐の真っ最中の現場から大きく迂回して岸に向かってくる二艘の船が見えた。漁船の二人――年配の男性と、その孫だろうか――もようやく安心した表情で、エイミはほっとして大きく息を吐いた。
二艘が岸に着くと討伐隊から来た船は取って返し、隊員一人と漁船の二人が本陣があるこちらに向かってくる。状況報告のためだろう。
「さ、エイミ」
イサベルに促されて席を立つ。領主の代わりに隊員や職員を労い、被害に遭った領民を見舞うのも役目の一つなのだ。
――ん、あれ?
急に舵が効かなくなり避難が遅れた、と説明をする男性の脇に立っているのはエイミと同年代の男の子だと思っていたが、近寄ってみるとそれは間違いだったことに気が付いた。
着古した男物の服と、髪の毛を押し込んだつばの広い帽子で遠目では見間違えたが、たしかに女の子だった。しかも随分可愛らしい顔立ちをしている。
多少日に焼けてはいるが、くるりとした大きな緑色の瞳、長いまつ毛に形のいい唇。目鼻立ちははっきりとしているのに派手さや嫌みはなく、親しみやすさというかちょっと守ってあげたい感じというか。
漁をするときにはスカートは向かないから、女性でも乗船時は男物の服を着る領民は少なくない。だからその服装には別に違和感はないのだ。ないのだが――
「ご苦労様でした。無事に戻れてよかったですわ」
「こ、これはお嬢様!」
ここが故郷のイサベルは、結婚し二児の母になった現在でも地元では「お嬢様」呼びされている。現領主の娘であるから間違いではないし、イサベルも『ここで奥様っていうと、亡くなったお母様しか思い浮かばないのよね』とあえて訂正させないからそのままだった。
小さい頃は、母がお嬢様と呼ばれると一緒に返事をしてしまったエイミだが、さすがに最近は慣れて間違えることはない。
「お手伝いをしていたのね、偉いわ。怖くなかった?」
「あ、あの、はいっ!」
急にイサベルから話しかけられて驚いた娘は真っ赤になって返答し、つばの広い帽子を慌てて脱いだ。ふぁさっとその下から広がったのは見事なピンクブロンド。
「……!!」
「クラーケンは初めて?」
「は、はいっ。す、すみません、びっくりしているうちに、回転羽根が止まって舵が効かなくなってしまって」
「そうよねえ、驚くわよね」
呑気に会話をしているが、今現在も討伐船とクラーケンは戦闘中である。そんな沖も気になるが、エイミの視線は目の前で頬を紅潮させてイサベルを見つめながら話す少女に固定だ。
ピンクブロンドの、その女の子に。
――もしかして昨日の? よく見れば髪の長さも同じくらいだし「ヒロイン」として充分通用する可愛さだわ。お下がりのような男の子の服を着て漁船に乗っていることは少し意外だけれど、経済的に恵まれないで育った「ヒロイン」が貴族の養子になるパターンも多かったし……。
目の前のヒロイン(仮)はイサベルしか目に入っていないらしく、少し後ろに立つエイミとは視線が合わない。
悪役令嬢もヒロインも乙女ゲームも関係ない、と心の整理はついているが、これ以上の登場人物候補者との遭遇を望まないスタンスは変わらない。ヒロイン疑惑が当たっていようと外れていようと、そのまま自分には気付かずにいてほしい、とエイミは願った。
「おーい、じいさーん。これだよこれ」
声が聞こえたほうに振り向くと、急に動かなくなったという漁船を調べていた港湾事務所の職員が、なにか半透明な塊を棒で引っかけてぴしゃんっと岸に投げてよこす。半球状のカサとたくさんの長い脚があり、家庭用扇風機程度の大きさだ。
「まあ珍しい、深海クラゲね」
「クラーケンにくっついて海面まで上がってきたんでしょう。あ、陸では動きませんけれど毒針がありますから触らないでくださいね」
「えっ、わ、ダメよティガー、ここにいてね」
言われてエイミはそろそろとクラゲに近付こうとしていたティガーを慌てて抱き上げる。体の大きいティガーの後ろ脚は地に着いたままなので、抱く、というより持ち上げる、が正しいが。
潮溜まりでイソギンチャクやヒトデを見るようになって以来、海洋生物については怖がらず興味津々のティガーだったが、抱っこされてクラゲのことは忘れたよう。ふさふさの長い尻尾をぐるっとエイミに巻き付けて満足そうに喉を鳴らしている。
クルルル、と少し高めの声がどんな気持ちで発せられているのかなんて、顔を見なくても分かってしまう。
――うん、私も大好き!
ティガーがクラゲを忘れたように、ヒロイン(仮)に揺れた心が遠くかすむエイミだった。
深海クラゲは柔らかそうに見えるが強い弾力と粘性があり、普段そこいらにいるクラゲと違ってちょっとやそっとでは切れたりしない。これが漁船のスクリュー部分に運悪く絡みついたらしい。
船の整備不良が原因ではなく被害者もいない。特に面倒な手続きやお咎めがないと分かって、祖父と孫娘はあきらかにほっとした表情をした。
「怪我がなくてなによりでした。貴方達もご苦労様、あと少しね」
「はいっ、ありがとうございます!」
にっこりと微笑むイサベルに労われて職員たちも喜色を浮かべる。沖から勝どきをあげる大きな声が海風に乗って聞こえてきたのはそのときだった。
入港する討伐船は歓声を持って迎えられた。続々と下船する討伐隊のメンバーたちに、重傷者は見当たらない。怪我人がいるかもだから貴女は向こうへ、と一足早く船着き場へと向かわされたが、どうやらエイミの出番はなさそうだ。
「あ。エイミ、こっちこっち」
治癒魔術に関しては自信がないこともないが、痛そうにしている人を見るのはやっぱり辛い。ほっとしているとよく知った声に呼ばれた。やり切った感にあふれた笑顔で手招きをする兄とその友人達の元へと、小走りで移動する。
海中戦に参加したハロルドは濡れてはいるが、ぱっと見たところ三人とも大きな怪我はなさそう。その雰囲気は討伐から帰還したというよりは、遊園地のちょっとハードなアトラクションから戻ってきたところのようだ。
「お兄ちゃん達、怪我は?」
「ほんのちょっとな。これなら治癒魔術もいらないくらいだし、平気へーき。珍しい、ティガーは一緒じゃないんだ?」
「あ、うん。こっちはバタバタして危ないから、お母さんに預けてきたの」
「ああ、あの子、人が多いところ好きじゃなさそうだものね」
「むしろ今もよく頑張っているよ。俺たちに撫でさせてくれるまでも結構かかったものなあ」
皆の視線の先は事務所近くにいるティガー。まだ慣れぬ屋敷で一人でお留守番も不安がるので連れてきたのだが、イサベルにぴったりくっついてやや丸くなり尻尾を足の間に巻き込んでいる……ああ、今すぐ走って行って撫でてあげたい。
「え、お前らティガー撫でたの?」
「三回目くらいでようやくね。めっちゃふわふわで気持ちよかったよな、ギル」
「そうそうニック。首回りなんてすっごいモッフモフだし、あの手触り、妹のぬいぐるみなんて目じゃないの。しかもあれで鳴くと可愛いのな、声が高くってさ」
ギルバートとニコラスの言葉に意外そうな顔をするハロルド。エイミの実兄だというのに彼はティガーに触れたことはあっても、まだしっかり撫でさせてもらったことがないのだった。
「俺……かなりショックなんだけど……」
「あ、お、お兄ちゃん、ほらクラーケン!」
フォローのしようがないことにどうしようかと思ったが、ちょうどいいタイミングで討伐されたクラーケンが陸に上げられた。エイミはこれ幸いと、がっくりと肩を下げたハロルドの視線を違うほうに向けさせる。
「わあ、ここで見ると余計に大きいのね」
ウインチがギシギシと軋む音を出しながら、ぼたぼたと海水を落とす巨体を引き上げていく。近くの解体場へ運ぶために用意された荷台の上にゆっくりと置かれるが、当然のように乗り切らない。
目を見開いていたエイミがぽつりと呟く。
「……あんなに大きいと、ぽっぽ焼きは無理だね」
「ばっ、無理、毒あるし食べられないって!」
「え、そうなの?」
ごく小さい声で「イカじゃないんだから」と呟かれてしまった。そうか、ダメなのか。
「死にはしないけど、痺れるってよー」
「いや、内臓はヤバイってよ」
普段内陸に住み学園にも通っていない年齢の女の子の素朴な感想に、ギルバート達は楽しそうだ。ニコラス曰く、弱いとはいえ毒がありアクが強く、加熱するとゴムのように固くなる。食用には全く向かないそうだ。残念。
とはいえ、軟骨部分は強度と柔軟性を兼ね備えており、主に防御用の鎧の素材として重宝されている。
「ははは、エイミには食べ物に見えたか」
「おじい様、私そんなつもりじゃ、あ、先生っ!」
「ヒッ!?」
再登場の領主と教師にまた直立不動で固まる学生三人を尻目に、エイミはにこにこと近寄って綺麗な礼をする。
「お待ちしておりました。船の上にいらしたから驚いたんですよ」
「ほう、見ていたか」
満足そうに頭の上に置かれる手も口元に浮かんだ笑みも、ハロルド達の目には永久凍土に埋まった遺物と同じくらいのレア級だ。
「練習はしていたか?」
「はい! またよろしくお願いします!」
「そうだな、明日からそこの三人もだ」
討伐も初日で終わったし次の出航までは日があるだろうと、突然の課外授業の宣告に慌てる三人。
「い、いえっ、ご遠慮申し上げ」
「……ほう?」
「「喜んでっ!!」」
居酒屋かよ、と誰かの心の中のツッコミを受けつつ帰途についたのであった。