10 今度は馬場へ
手の甲を何度つねってみても「痛くない……はっ、やっぱりこれは夢だった!」となることもなく。ノースランド伯爵家まで迎えに来てくれたこの王家の馬車が、粛々と王城の馬場に向かっているのは変わらない。
仕立てたばかりの紺色の乗馬服姿のエイミは膝の上で手をぎゅっと握り、豪華な車内を見回しては、うにゃあ、と猫のようなため息をこぼした。
「ねえ、お母さん。私ってけっこう太ったよね?」
「そうね、丸くてとっても可愛いわ」
頬をプニプニと触られながら隣の席の母に肯定されて、そういうことじゃない、と涙目で見上げる。
肥満体の王子妃などありえない。エイミが故意に太ったのは「第三王子の婚約者候補」を穏便に回避するためだった――体重が増えると魔力も安定することに気付いてからは、そちらがメインになった気がしないでもないが。
「みんな細くて可愛い子ばっかりだったのに。ほかにも誘われているのかと思ったら、今日の招待は私だけだっていうじゃない」
王宮から、わざわざ使者が招待状を持って伯爵家まで来たのだ。常にない来客に、いつもは冷静な伯爵家執事のクロードも、さすがに一瞬動揺したほど。
その時に確認として、何人くらいの規模での馬場見学になるのかと訊いて……「お嬢様お一人です」と笑顔で断言され、よく倒れなかったと自分でも思う。
「も、もしかして王子は、そういう好みとか……? 俗に言うデ、い、いひゃいでしゅ」
「ほほほ、エイミちゃん? お母様、お城に知り合いもいますけれど、そんな話は聞いたこともなくってよ」
ムニ、と両頬を軽く引っ張られて変顔にされ、至極いい笑顔で疑惑の性癖を否定された。そもそも、それを知っていたら太るように勧めはしない、と言い切る母に、それもそうだと頷く。
「じゃあ、どうしてこんなことになっているのー?」
「それはあなたが『はい』って応えちゃったからでしょうねえ」
了承も何も、ただの締めの挨拶だと思っていて、誘いの言葉だなんて気付いてさえいなかったのだ。
――でも、落ち着いて考えれば、向こうだって社交辞令だったかもしれない。自分がうっかりした返事のせいで、とんだ迷惑だと思われている可能性もけっこうある。
成人前の子どもとはいえ、社交の場では相槌一つにもよくよく気を付けなさい、と何度も言われてきたその忠告がつくづく身に染みるエイミだった。
「もう、ほら。せっかく可愛い服も作ったのだし。馬も好きでしょう? お祖父ちゃんによく乗せてもらっているじゃない」
「好きだけど……」
「お茶会の時だって話せていたし、平気よ」
「それは、あの時は動物のことばっかりだったから」
「今日もそうしたらいいだけよ」
そうかなあ、そうできるといいけど、と、どうにも乗り気ではない娘の頬を優しく撫でて、イサベルは馬車の小窓にかかっている布をめくった。
ちらりと外を確認すると、まるで車掌さんのような口調で歌うように話し出す。
「えー、当馬車はまもなく終点、王城内馬場前駅に到着でございまぁす。どなた様もお忘れ物のないよう……エイミ、諦めなさい。ここまで来たら女は度胸」
「お母さん、それ何か違う」
からかわれてちょっとだけ遠足気分になり、ようやく笑顔が出たエイミ。馬車を止めた御者が扉に手をかけた時、内から聞こえたのは楽しそうな母娘の笑い声だった。
そんな二人をにこやかに出迎えたのはまさかの第三王子本人で、エイミはまたピキリと固まってしまう。
「で、殿下」
「ようこそ。エド、ですよ」
「エ、エド様。お、お招きいただきありがとうございます……」
にっこり微笑んで扉の外から手を差し伸べるエドワードには、社交辞令や義務といった雰囲気は感じられない。
もしかして、本当に自分を連れてきたかったのだろうか……戸惑いと疑問符を浮かべながら、エイミは王子に手を引かれてややぎくしゃくと、続いてイサベルは王子の護衛である騎士にエスコートされて王城内の馬場へと降り立つ。そうして、待っていてくれたもう一人の護衛の騎士やお茶会の時にも会った侍女達とも、軽く挨拶を交わした。
あのお茶会の日とは違って薄雲が広がる空だが、遮る物のない屋外ではかえって過ごしやすい。奥に大きな厩舎のある広い馬場。柵の中には数頭の馬が出されていて、それぞれ世話をされたり軽く歩いたりしている。
さすがに立派な馬ばかりで、エイミはまだ王子に手を持たれたままなのも忘れて目が釘付けになった。
「わあ……」
「向こうの奥にいる、あの黒い馬がウェントゥスです」
そのまま馬場の柵の近くまで連れていかれた。エドワードが軽く手を上げると、近くにいた厩舎の係員より先に黒馬が王子に気付き、嬉し気に歩き出す。足を優雅に動かして近寄って来る青鹿毛の馬に、エイミの胸は高鳴った。
やがて追いついた係員とともに柵の向こうに到着して、一人と一頭の紹介を受ける。
「厩舎長のマーヴィンです。マーヴィン、こちらはノースランド伯爵夫人と令嬢のミス・エイミ」
髪もあご髭も真っ白な初老の男性は、がっしりとした体躯で手綱を持つ手も大きく安心感がある。年齢や髪の色に祖父に似た雰囲気を感じて、エイミは笑みを浮かべて挨拶を交わした。
「マーヴィン・ダグラスと申します。お嬢様は馬がお好きなご様子。では、こちらからもご挨拶を。ウェントゥス、さあ」
エドワードに向かって柵越しに首を伸ばし頭を軽く上下に揺らすウェントゥスは、見るからに賢そう。艶やかに黒く光る毛並みからは、丁寧に世話をされていることが窺える。
ポンポン、と褒めるように鼻面を撫でるエドワードの手や眼差しは、自分がティガーに向けるものと似ているように感じた。
見つめていると、ウェントゥスの長いまつ毛に囲まれた瞳と不意に目が合って、ドキリとする。どうしてこう動物の瞳というものは魅力的なのだろうか。
この世界にはいろいろな魔術があるが、調べたところ動物と話せるようなものは見当たらないのがエイミは残念に思う。目は口ほどにものを言う、とはいうが、直接会話ができたらどれだけ素敵かとわくわくしたのに。
――それにしても、本当に綺麗な馬だ。エドワードに撫でられて嬉しそうに細める目にグッとくる。つい、素直な感想が口をついた。
「可愛い子……」
「撫でてみますか?」
「よ、よろしいのですか? わぁ、それじゃあ……ウェントゥス、少しいい?」
マーヴィンにも勧められて、馬相手に自己紹介をしながらそっと近寄って触れたウェントゥスは、つるつるのすべすべ。腕を伸ばして触った首のあたりは温かくふっくらとしていて弾力がある。
ティガーのモフモフとろん、とした手触りとは違うが、こちらはこちらで非常に気持ちがいい。
優しく撫でていると馬も気分が良いようで、鼻から軽くふこふこと息をしながらエイミに顔をぴと、とつけてきた。
「ふふっ、くすぐったい」
「おやおや、随分と気に入られたようですな。これだけ馬に慣れていらっしゃるお嬢様なら、すぐに乗れましょう」
「ああ、残念ですが娘は一人ではまだ」
早速行きますか、と乗馬に誘われて答えたイサベルの声に、エドワードは嬉しそうにする。
「では、私と一緒に」
「なっ? え、いいえ、エド様がそんなっ」
驚いて、それでもウェントゥスのすぐそばにいたので小声でご遠慮申し上げたが、王子はにこにことするばかり。
「自分で言うのも何ですが、乗馬は得意ですから落としたりしませんよ」
「殿下は鞍なしで乗れるほどですし、心配はないですな」
「まあ、それは凄いわ」
それは凄いと思うけどそういう問題じゃないし! お母さんも感心していないでちょっと!?
いえ、あの、と赤くなったり青くなったりしながら口をパクパクするエイミに、厩舎長のマーヴィンは楽し気に助け舟を出す。
「そうなされたらさぞかし楽しいでしょうな。まあ、しかし腕に不安はないとはいえ、殿下は二人乗りには慣れておられないのも確か。お嬢様、今日のお相手はこの爺でいかがでしょう?」
「ええ、いつも祖父と一緒に乗っておりますので、そのほうが娘も慣れていますわね」
呑気に笑うイサベル達の様子では、もともとその予定だったようだ。エイミはほうっと安堵の息を吐く。
エドワードだけが少し残念そうな表情をしていた気がしたが、もう一頭の馬が連れて来られると、やはりそちらにばかり意識が持っていかれてしまうエイミだった。
お読みいただきありがとうございます!
猫ではなく、馬の回でした。馬も可愛いですよね……。
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