ブリキ男とラーテル女
その2人が出会ったのは、あるネットの掲示板でした。
その掲示板は、ある病気に罹った人間が集まって話をする掲示板でした。
その病気は通称“欠落病”。
感情の一部が欠落してしまう、1万人に1人ほどしか罹らない奇病でした。
2人はその掲示板で意気投合し、住んでいる場所が近かったということもあって、リアルで会ってみることにしました。
「初めまして。ラーテルさんですか?」
「はい、初めまして。ブリキ男さんですよね?」
「はい、そうです」
「わぁ、ちょっと思っていた感じと違います。ブリキ男っていうんだからもっとがっちりした方だと思っていました」
「はは、残念ながらもやしっ子です。それにブリキ男っていうのは外見的特徴から付けた名前じゃないですし」
「くす、分かってます。オズの魔法使いに出てくる、心を持たないブリキ人形ですよね?」
「ええ、まあもっとも、ブリキ人形が心を持たないっていうのは本人の思い込みで、本当は心はあるんですけどね。作中で主人公を思って泣きますし、そもそも本当に心がないなら、心が欲しいとも思いませんし。本当に悲しむことが出来ない私とはそこが違います」
「そうですね」
「そちらは世界で最も怖いもの知らずな動物ですよね?」
「ええ、ギネスブックにも認定されているんですよ?恐怖を感じない私にぴったりだと思いません?」
「はは、ラーテルみたいな凶暴な方じゃなさそうでよかったです」
「分かりませんよ?もしかしたら牙を隠しているかもしれないじゃないですか」
「そうだとしても大丈夫ですよ。なんせ僕はブリキですからね。文字通り歯が立ちません」
「あはは、それもそうですね」
2人はリアルでもすぐに打ち解け、頻繁にデートを重ねるようになりました。
「…本当に怖がらないんですね。これ、日本で一番怖いと言われているホラー映画なんですけど」
「そうですね。まあいきなり幽霊に出て来られると驚きはしますけど…。というか、これって結局呪いの正体は何だったんでしょう?」
「さあ?そこがよく分からないからこそ怖いんじゃないですか?」
「う~ん、その感覚が分からない私としては、どうにもそういった細かい矛盾みたいなのが目に付いちゃうんですよね~」
「はは、ホラー映画は頭で考えるものじゃないですから」
「ぐすっ、ほ、本当に、泣かないんですね?」
「そうですね。まあ救いがないというか、戦争ってよくないなぁ、って感じです」
「でも、皆死んじゃったんですよ?こう、ぐっと込み上げて来るものがありません?」
「すみません、どうもそういうのはよく分からなくて…」
「ああいえ、謝らなくてもいいんですよ?そうですね、今度は悲しいだけじゃなくて、感動できる映画にしましょうか?」
「ああ、それはいいですね」
2人はやがてお互いを深く愛し合うようになり、結婚することにしました。
そして2人が夫婦になった日、2人はある約束をしたのです。
「ねえ、あなた。1つ約束をして欲しいの」
「ん?」
「あのね、絶対に私より先に死なないで欲しいの」
「なんだい?いきなり」
「怒らないで聞いて欲しいのだけど……あなたは、私が死んでも悲しまないでしょう?」
「……まあ、そうなんだろうね。残念ながら」
「うん、それはいいの。でも、私はあなたが死んだらとても悲しいわ。そしてすぐにでも後を追うと思う。だって私、死ぬのが怖くないのだもの。でも、自殺ってとっても重い罪じゃない?だから、くれぐれも私よりも先に死なないで欲しいの」
「…分かった。絶対に君を置いて死んだりしないよ。約束だ」
「うん、約束ね」
2人は左手薬指で誓いを立てたその日、小指でもう1つの誓いを立てました。
それからしばらく、穏やかで幸せな日々が続きました。
しかし、ある日唐突にその平穏は奪われ、そして約束は果たされるのです。
その日、2人は一緒にデートを楽しんでいました。
そこに、暴走したトラックが突っ込んで来たのです。
足が竦んで動けないブリキ男を、彼女は突き飛ばしました。
彼女は最期まで怖いもの知らずでした。トラックに撥ねられるその瞬間も、その顔には一切恐怖は浮かんでいませんでした。
ただ、その顔には愛する人を守れた安堵だけがありました。
そして、夫の命と、夫と交わした約束を守って、彼女は命を落としました。
ブリキ男は悲しくありませんでした。
搬送先の病院で妻の死を告げられた時も、妻の葬式の時も、一切涙を流すことはありませんでした。
しかし、日が経つほどに、ブリキ男は自分の心の病気がどんどん進行していることに気付きました。
ブリキ男は、悲しみ以外の感情も次々と失っていったのです。
それはたとえば怒りでした。
妻を撥ねたトラックの運転手を前にしても、全く怒りが湧きません。
それはたとえば喜びや楽しみでした。
何を見ても、何をしても楽しいと思えません。心が浮き立つことがありません。
それはたとえば……愛情でした。
ブリキ男は、自分が本当に妻を愛していたのか分からなくなってしまったのです。
ブリキ男は、日に日に自分が本当のブリキ人形になっていくように感じました。
それでも、いつまで経っても消えない、消えてくれない感情もありました。
それは苦しみや恐怖でした。
ブリキ男は、自分が分からなくなって苦しみました。
自分の妻に対する愛情を疑って苦しみました。
それなのに、どんなに苦しいと思っても、死のうとは思えませんでした。
もう生きていても仕方ないと思うのに、ブリキ男はまだ死ぬのが怖かったのです。
ブリキ男は感情を失っていくことに怯え、失った感情を思って苦しみました。
やがて、彼はもうずっと通っていなかった心のお医者様の元を訪ねました。
そして、自分の苦しみを全て吐き出したのです。
全てを聞き終わった後、お医者様は静かに頷くと、ゆっくりとブリキ男に言いました。
「“欠落病”は他の病気と違い、重症化したり進行したりすることはありません。あなたが奥様を亡くしてから感情を失ったのは、病気のせいではないのです」
「え……」
「あなたにとって怒りや喜び、それに愛情。それらはずっと奥様と共にあったものなのでしょう。だからこそ、奥様を亡くした今、あなたはそれらを一時的に感じることが出来なくなっているのです」
「……」
呆然とするブリキ男に、お医者様は優しく微笑みながら言いました。
「安心なさい。あなたは心から奥様を愛していました。今のあなたのその状態こそが、あなたが今なお奥様を愛している何よりの証拠なのですよ」
その時、男の頬を一筋の涙が伝い落ちました。