八十話 冷気渦巻く温泉
「いやぁ……いい湯だったね。いい温泉宿を見つけれて良かったよ。お金足りるかな、と思って心配だったけど、このあいだの〔魔昌石代〕の余りが残ってて良かった良かった。まったく、ナスルさんには足を向けて寝れないよ」
僕らはビズの新たな温泉宿を訪れていた。
ビズ一番の宿では無いとはいえ、十二分に満足できる温泉だった。
……いや、ビズ一番の宿が営業停止になったので、今やここが一番に繰り上がっているかもしれない。
「俺はナスルさんに会わせる顔がねぇよ……問題起こさないように頼まれてたのに。アイスはなんでそんなに図太いんだ……」
「レットは気にしすぎなんだよ。ナスルさんなら、これぐらいのことは笑って許してくれるよ。……ねぇ、ナスルさん?」
『はっはっはっ……温泉宿の一軒や二軒、いくらでも壊したまえ』
ノリの良いルピィが〔ナスルさんの声音〕で返事をしてくれる。
さすがはルピィ、打てば響くとはこの事だ!
「…………」
だが、レットはますます苦悩している。
指を眉間に押し当てているその姿は、レットの彫りの深い顔立ちも相まって彫刻のようである。
たしかに先のルピィの発言は、行き過ぎたものがあったかもしれない。
娘のジーレだってここにいるのだ……当のジーレは「パパの声だー!」と大喜びしているが……。
『――僕はアイス=クーデルン。軍国一の天才とは、僕のことさ!』
褒められて調子に乗ったルピィが、僕の声音でとんでもない事を言い出したので、慌てて制止する!
ジーレは大はしゃぎし、セレンは静かに感心しているが……まったくルピィは油断も隙も無い。
人の声音でいい加減な発言をするなんて、許されないことじゃないか……!
……しかし、フェニィも元気になったようであるし、トラブルは概ね解決したと言えるだろう。
唯一、僕が気になっている点は――
「――お、おお食事をお持ちひてもひょろしいでしょうか?」
この宿の人に、ひどく怯えられているという事だ……!
ルピィによると――僕らはお湯がぬるいということだけで激怒して、激情のままに温泉を破壊した連中だと思われているらしい。
なんなのだ、その〔無法者ご一行〕みたいなのは……。
宿の若い女中さんは、そんな根も歯もない噂を信じているのか、顔を青白くして喋る言葉も覚束ない。
純朴そうな女の子にそんな態度を取られると、心にダメージを覚える……僕と同じくらいの歳の子だから尚更だ。
この怯えられている感じは、ナスル城の人たちと同じではないか。
なぜ旅行先でまで、腫れ物扱いを受けなければならないのか。
――いや、このままで良いはずがない!
「緊張しなくても大丈夫ですよ? 申し遅れましたね、僕の名前はアイス=クーデルンと言います」
緊張を溶かすような、心を溶かすような優しい笑顔で挨拶をする。
その甲斐あってか、青白かった女中さんの顔は、あっという間に真っ赤に染まった。
――よし、掴みは上々だ。
この調子で、僕らは良識的な人間だと分かってもらうんだ……!
続けて僕は、女中さんの手を両手で掴み取り――強引に握手をしてしまう。
「……あなたの名前、聞かせてもらえますか?」
そう言いながらも、女中さんの眼をまっすぐ見詰め、安心させる為の笑顔も忘れない。
さらに親指の腹を使い、掴んだ女中さんの手を優しく擦ってあげる――安心の波状攻撃だ!
「あぅ……っ」
女中さんはのぼせ上がっているかのように、ますます顔を赤くしている。
心なしか目も潤んでいるようだ。
女中さんは眼を逸らせないかのように、じっと僕を見詰め返しながら口を開く。
「あ、あ、あの……私は――」
「――なに堂々とナンパしてんの、アイス君?」
ルピィの冷えきった声を浴びせられ、氷水をかけられたかのように女中さんの顔は真っ青に変貌する。
「ナンパだなんて、失礼だよ。僕はただ自己紹介をしていただけなんだから」
「……にぃさまは、まずその手を離してから喋ってください」
セレンは穏やかに喋りながらも、鋭い手刀を僕の手首へ降り下ろす。
――おっと。
手首を折るというより、切断するかのような手刀をさっ、とかわす。
危ない危ない、セレンはお茶目さんだなぁ……。
しかし仲間意識が強すぎるのか、僕が初対面の人と親交を深めているだけで怒るのは問題だ。
このままではいけないと思い、這うように部屋を出ようとしている女中さんを呼び止めようとするが――僕の肩にルピィの冷たい手が置かれた。
「……さっきアイス君たちが温泉から飛んでいったやつ、最大でどれくらいの飛距離が出るのか、試してみる必要があると思わない?」
な、何を言ってるんだ、この人は!?
一歩間違えれば死んでしまうところだったのに!
「そうだねー。ジーレもおにぃちゃんが飛ぶとこ見てみたいなー」
そんな!?
子供の純粋な好奇心と呼ぶには残酷すぎる!
「……そうですね。にぃさまは少し空で頭を冷やすべきですね」
セレンまで!?
頭が冷えるどころか、死の恐怖で熱くなっちゃうのに!
まずい。僕の人権をまるで無視した催しが開催されようとしている……。
……いや、大丈夫だ。
〔アイスロケット計画〕にはフェニィの協力が不可欠になる。
フェニィがこんな計画に賛同するはずがない。
肝心のフェニィは怒っているのか悲しんでいるのか、よく分からない複雑な様相なのが少し不安だが――
「…………殺しはしない」
飛ばす気だ!!
まずい、まずいぞ。発射台が確保されてしまった…………そうだ。
僕らの良心ことレットなら、こんな蛮行を見過ごすわけがない!
――いない。レットが部屋から消えている。
レットばかりか、部屋の角で丸くなっていたマカもいなくなっている。
これが野生の危機察知能力ということか……!
ここは僕もさりげなく退室しよう。
……レットはトイレかな? よし、連れションといこうではないか。
だが、僕の肩に食い込んだルピィの手は……外れることがなかった。
明日も夜に投稿予定。
次回、八一話〔雷神の洗礼〕




