四話 回帰
――――痛みが体に戻ってくる。
腕が、足が、頭が、強酸をかけられて神経が溶けているかのような痛みを感じてしまう。
……良かった。
痛みを感じるということは、僕はまだ生きている。
手も足もぴくりと動かすことも出来ないが、どうやら成功したらしい。
視界の片隅で、放心したようにこちらを見て立ち尽くしている女王が見える。
その首元に歯型のようなものが見えて、僕は少しだけ思い出した。
僕は手足が動かなくなって、女王の首筋に文字通り〔喰らいついた〕のだ。
喰らいつき、ぶら下がった状態で、魔力を流しこんでいたような記憶がある。
そんな事を僕がぼんやり考えていると、女王に声を掛けられた。
「……なぜ、泣いて、いる?」
泣いている? と、わずかの時間考えたが、頬を濡らす感触からすると……どうやら僕は泣いていたらしい。
彼女の凄惨な記憶を追体験したことで悲哀の感情に流されてしまったのか、単純に痛みで泣いてしまったのかは、僕自身にも分からなかった。
「い、いや、泣いてないよ。それより、君の体は大丈夫?」
気恥ずかしさから、つい強がってしまった。
どうみても大丈夫じゃないのは僕の体だったが、彼女の体の様子も気になったので誤魔化しがてら尋ねてみた。
「……だいじょうぶ、だ。……お前が、わたしを、とめてくれたのか?」
長い期間、人と会話をする機会が無かった為だろう……彼女の言葉は途切れ途切れだ。
その事情を思うと胸が苦しくなったが、僕はそれを顔には出さずに答える。
「そうだね……僕はアイス=クーデルン。洗脳術を治す解術が使えるんだ」
「……そう、か。わたしは、フェニィ=ボロス。………けが、ひどい、すまない」
今の僕には視線を動かすことくらいしか出来ないが、痛みを感じるということは神経が通っているということだろう。
仰向けに倒れた状態のままではあるが、彼女に罪悪感を感じさせないように笑顔で応えた。
「大丈夫。身体治癒術も少しは使えるから、明日には動けるようになってると思うよ。文字通り首の皮一枚だったけど、上手くいってくれて良かったよ」
「……とめて、くれて、ありがとう」
か細い声で、寂しそうな悲しそうな声で、彼女はそう言った。
僕はその声を聞き――心が押し潰されそうになる。
今の僕には、彼女の気持ちが痛いほどよく分かった。
解術の作用で、彼女の心の一部が流れ込んできた影響だろう。
彼女は幼少期に洗脳術に囚われ今に至るまで、約二十年もの間縛られ続けてきたのだ。
――――そう、僕は遅すぎたのだ。
どうしようもない事だと頭では理解していたが、やり切れない思いが胸中から消えない。
そして……これから僕が口にしようとしている内容は、彼女の未来の幸せを奪うことになるかも知れないと考えると、ますます僕の心は重くなった。
「フェニィ……君に恩を着せて利用する形だけど、僕にはどうしても助けたい人がいるんだ――僕に力を貸してくれないか……?」
それでも僕は、そう言った。
ずっと他人に利用されて辛い目にあってきたフェニィを、また僕は利用しようとしている。
そんな自分に自己嫌悪を感じたが、それでも僕にはフェニィの力が必要だった。
「……それは、アイスの、父親、か……?」
――僕は理解した。
僕がフェニィの記憶を追体験したように、フェニィもまた僕の記憶を視ていたのだと。
魔力量が同程度の相手に、強引に解術を行使したことが要因だろう。
本来であれば、解術は魔力差のある相手に施すものだからだ。
「……そう、だよ。僕だけの力じゃ難しいんだ……」
「……わかった。でも、わたし、ひつようなのか?」
死滅の女王ほどの存在を解術可能であるのに、さらに私が必要なのか?
自分は他人に存在を必要とされる人間なのか?
それは、どちらの意味にも聞こえた。
しかしフェニィの心を感じていた僕は、すぐに後者の意味であることを悟った。
今の彼女は自分自身を嫌い、憎み――恐れているのだ。
僕はフェニィの眼を見詰めながら、心を込めて胸の内の気持ちを伝えた。
「フェニィの力が、必要なんだ」
「……ん」
フェニィは無表情のままではあるが、小さく頷いてくれた。
「その、あと……、これは最初に言っておくべきだったんだけど、僕の父さんを救う為に行動すると、軍国を敵に回す可能性があるんだ……それでも協力してくれるだろうか?」
「……なぜ、国が、てき?」
フェニィは純粋に不思議そうな様子だ。
その反応を見て――僕の全ての記憶が視られていた訳ではないのだな、と内心で安堵しつつ説明する。
「僕の父さんはこの国、ハド軍国第一軍団の軍団長だった……いや、今も軍団長なんだ」
「……洗脳された、人間が、今も軍団長…………国ぐるみ、か……」
――その通りだ。
十二年前に洗脳術に囚われた父さん。
その父さんが今も変わらず軍団長ということは、軍国王〔将軍〕が洗脳術に関与している事は間違いないだろう。
十二年前から公式行事にも出席せず、僕には父さんの生死すら分からなかった。
だが、二年前に父さんが派手に使われたことで、今も利用され続けていることが分かってしまったのだ。
次にどこで父さんが使われるか分からないというのも問題だが、さらにもう一つ大きな問題があった。
「それに父さんは武神の加護持ち、神持ちなんだ……」
「神持ち……しかも、武神、か……」
加護には、水の加護や火の加護といったものがあるが、これらの加護は類する術の習得を容易にしたり、術の威力を上昇させる働きがある。
加護の種類は豊富だが加護持ちの数となると、ひとつの村に一人いるかいないか程度の割合しか存在せず、それなりに希少な存在だ。
だが、水神の加護や火神の加護といった〔神〕の名が付く加護となると、加護の種類も少ない上に、その加護持ちは五十年から百年に一人の存在になってしまう。
通常の加護持ちと違い〔神持ち〕の最大の特徴は――神持ちは、常人とは比較にならないほどの身体能力や魔力量をその身に宿しているという事にある。
さらに神持ちの中でも〔武神の加護〕は特別な存在で、過去に武神の神持ちが確認されたのは一人しかいない。
四百年前にこのハド軍国を建国した――建国王その人だ。
父さんが十歳のとき、国の教会で加護を調べてその加護が発覚した際には、国中が大騒ぎになったというのも当然と言える。
――そして当然ながら、父さんは桁外れの強者だ。
父さんが模擬戦をしているところを観たことがあるが、大人と子供の差どころでは無かったのだ。
相手もそれなり以上の実力者だと聞いてはいたが、幼い僕の目から見ても〔模擬戦〕と呼ぶのも烏滸がましいほどの実力差だった。
言ってしまえば、闘いになっていなかったのである。
今の僕にはそれなりの体術の心得はあるが、それでも、父さんを気絶させるどころか近付けるイメージすら湧かないのだ。




