三七話 広がる格差社会
僕たちは馬車を売却してから、その日の宿へと向かっていた。
ほとんど休むことなく馬車で移動していたが、ここはまだ教国内だ。
馬車とてそれほど速いわけでもないので、東西に拡がっている教国を抜けるのには至らなかったのだ。
幸い〔凶悪兵器〕である馬車を売ったおかげで、僕らの懐には余裕がある。
今日は旅にアイファが加入して初日ということもあるので、お祝いがてらグレードの高い宿に泊まるのも良いかもしれない。
しかし……僕への嫌がらせの為だけに馬車を購入するとは、その熱意を褒めるべきか呆れるべきか判断に迷ってしまうというものだ。
別にそのまま馬車を使い続けても良かったのだが、僕らと行動を共にしていると馬たちが長生き出来なかった気もしているので、馬車を手放した判断は正しかったはずだろう。
教国の西側では各所に内戦の爪痕が残っているが、街の中心地に行けばそれなりに立派な建物も並んでいる。
その中の一軒、地区で一番高級と思われる宿を僕らの寝床と決めた。
馬車を一日で買ったり売ったり、高級宿に泊まったりと、短期間で散財し放題な僕らではあるが、教国の経済が潤うと考えれば悪い事でもないだろう。
――――。
入浴後、僕たちは大部屋で思い思いにのんびりとしていた。
レットは愛用の盾の手入れをしている。
そしてマカは嫌がらせのように僕の枕で寝そべっている。
しかし毎度のことながら、なぜマカは僕の枕にマーキングのような真似をするのだろうか……?
マカの習性に疑問を感じていると、ルピィとアイファが大浴場から帰ってきた。
――そこで僕は違和感に気付く。
ルピィのアイファを見る視線が…………優しい?
お風呂で腹を割って話をすることで、お互いに分かり合えたのだろうか?
いや、違うな。
アイファの様子がそんな温かい雰囲気ではない。
なんだろう、身体は温まっているはずなのに顔が青ざめている。
僕のいないところでルピィに苛められた……?
いや、それも違うはずだ。
ルピィなら僕の目の前で堂々と苛めることだろう。
陰でこそこそ陰湿な事をする人ではない。
ならばいったい…………あっ!
僕の全身に電撃のような痺れが疾走った。
もちろんマカに攻撃を受けたわけではない。
……悲しい真実に気付いてしまったのだ。
お風呂上がりでゆったりした浴衣を着ているアイファには、あるべきはずのものが無い――そう、胸が無い!
そうか……ルピィが優しい態度になるわけである。
自分が絶滅危惧種だと思っていたところに――仲間が現れたのだから……。
いつもアイファはキッチリしている服を着ていたから気付かなかったが、胸部を押さえる格好をしていたからスラリと見えていたわけでは無かったのだ。
押さえるまでもなく――無かったのだ!
ない袖は触れないと言うが、ない胸は押さえられないという事なのだろう……。
アイファがあれほどショックを受けている様子なのは、きっと……世界の広さを知ってしまったからだ。
なにしろ大聖堂で住み暮らしていたアイファだ。
閉鎖された環境下では、自身の異端さを自覚する機会が無かったはずである。
世界には平地しか存在しないと思っていたところに――フェニィだ。
雲に向かってそびえ立つ火山のようなものが、この世の中には存在しているという事実に気付いてしまったのだ。
知らないままなら幸せでいられたのに……世界はなんて残酷なんだろう。
――いや、こんな時こそ僕の出番ではないか。
仲間が落ち込んでいるならば、僕が優しく声を掛けてあげるべきであろう。
「アイファ、世界のほとんどは海で構成されているんだ。陸地にしたところでほとんどが平地だ。アイファが気に病む必要なんてどこにも無いんだよ」
僕は世界のスケールの壮大さを参考にして慰める。
そう、世界の大きさの前では胸が小さいことくらい小さな悩みではないか。
「え……? アイス、どういう意味だ?」
だが僕の言葉はアイファには届かなかった。
ふむ、少し婉曲的過ぎたかもしれない。
言葉をオブラートに包みすぎたせいで、原形が見えなくなってしまったのだろう。
「アイファちゃん。アイス君はバカにしてるんだよ? アイス君はアイファちゃんの胸を平面――男と変わらない、って言ってるんだよ?」
――言ってない!?
そこまで僕は言っていないぞ……!
しかしまずい……ルピィによる悪意ある曲解によって、アイファの顔が怒りで真っ赤になっているではないか。
元気になったとは言えるが、これは僕の意図した形ではない……!
「き、貴様ぁぁっ……!」
これはいけない、気の短いアイファがすぐにでも襲い掛かってきそうだ。
ここは僕の気持ちをしっかり伝えなくては!
「待って、待ってよアイファ! バカにしてるなんてありえないよ。僕にとって、胸があろうが無かろうがどうでもいい――アイファたちが男だろうが女だろうがどうでもいい事なんだ! 僕らは仲間じゃないか!!」
そうだ、僕は外見にとらわれて本質を見失うような事はしない。
アイファ君もルピィ君も、僕の大事な友達だ……!
「ほら、バカにしてるでしょ? それにしても『アイファたち』ねぇ……しっかりボクも一緒にされちゃったね、ふふふっ……」
バカにしてないのに!?
そしてアイファの炎上をおさめるはずが、ルピィにまで飛び火させてしまった。
口では笑っているけどまったく顔が笑ってない、これは危険だ!
「こ、これほどの屈辱を受けたのは久しぶりだぞアイス=クーデルン! ……いや、思い返せば過去に受けたひどい屈辱も貴様だった……!」
まずい、何故かアイファも激怒している。
これは『屈辱ランキング一位、二位を独占だね!』なんて言える空気ではない。
加減を知らないアイファに、加減を知っているけど加減しないルピィ。
この二人の組み合わせは僕の生命に関わる問題だ。
――ここは頼りになる他の仲間に助けてもらうとしよう。
フェニィはまだお風呂だとして、セレンは?
…………駄目だ。
セレンは薄く微笑みながら困っている僕を観察している。
どこまでも優しかったセレンが、僕の困り顔を楽しむようになってしまうとは……ルピィの悪影響は留まるところを知らない。
いや……ひょっとして、セレンの胸も控え目なので〔無い無いコンビ〕に共感しているのだろうか?
セレンはまだ成長期なんだから『タイムアップ!』の二人とは違うのに……。
そう、セレンが気にする必要なんて――無い無い!
こうなれば親友の出番だ……が、レットは背中を向けてベッドで寝ていた。
こいつめ、さっきまで盾の手入れをしていたくせに、わざとらしくも寝ているではないか。
まだ就寝には早い時間なのに、盾も片付けずに出しっぱなしである。
まったく、なんて薄情な男なんだろう。
こうなれば残すはマカだけだ。
愛らしいマカならば、怒りに燃える二人ですら癒やして宥めてくれるはずだ。
そんなマカは、相変わらず僕の枕の上に寝そべっている。
だが寝ている体勢から考えれば……不自然な方向に顔を背けているではないか。
これはレットの影響だろう。
君子危うきに近寄らず――いや、どちらかと言えば〔臭いものに蓋〕の方が的確な表現だろうか。
危険な臭いがぷんぷんと漂っている場から、悪臭ならぬ危険臭を嗅がないように留意しているみたいだ。
なにしろルピィは他人を躊躇なく巻き込む人である。
下手に関わって巻き込まれてはたまらないという事だろう。
「マカ、マカ」と僕が声を掛けると、その度に――ピク、ピクと身体が震えているが、マカは頑なにこちらを向こうとはしない。
あやつめ……意地でも巻き込んでやる!
「――アイス君? 往生際が悪いよ。ほら、早くうつ伏せに寝なさい」
くっ、時間切れなのか。
何故ルピィに〔うつ伏せ〕を要求されているのかは分からないが、疲れを癒やすマッサージをしてくれるとは思えない。
なんといっても、ルピィが『寝なさい』と指で示しているのはベッドではない――部屋の床だ。
ここから僕に優しい展開が待っているはずもない……!
嫌な予感しかしないので、なんとかして回避しなければ――
「待ってよルピィ。僕は何も悪いこと……」
「――はやく」
「…………はい」
僕の言葉は無情にも届かなかった。
世界には理不尽な事がたしかに存在する。
まったくの清廉潔白で無実そのものである僕が、お仕置きと称してイジメられるのはこれが初めてではないのだ。
見て見ぬフリをしているレットとマカ。
そう、君たちも加害者である事を自覚すべきだ!
僕の上に座り込んだルピィは、おもむろに僕の両脚を掴み――曲げてはいけない方向に反り返らせる!
「……っう!」
これはっ――逆エビ固め!
息が、息が苦しい……!
しかしルピィの蛮行はまだ続いていた。
「ほら、アイファちゃんはアイス君の首ね!」
……首?
この哀れな僕に、これ以上何をしようと言うのだ。
「ア、アイスの上に跨るのか……?」
アイファはためらう素振りをしつつも、ルピィとは逆向きにどすっと乗っかる。
ルピィの逆エビ固めは解かれていないので、アイファが座るスペースはほとんど無いはずなのだが……こんなところで譲り合いの精神を発揮しないでほしい。
そしてアイファはルピィの指示に従いながら、その手を僕のアゴにかけて――重力に逆らうように反り返らせる!
「……っぐ!!」
これはっ――キャメルクラッチ!
馬鹿な、逆エビ固めとキャメルクラッチのコラボレーション!
誰がこんなコラボを望むというのだ……!
というか、キャメルクラッチはルピィのマイブームなのだろうか。
趣味は人に迷惑を掛けないものであるべきではないのか……!
――不意に僕は気付く。
そうか、今の僕は〔凹〕の形にされている。
つまり――〔谷〕の形に他ならない。
ルピィたちは平地呼ばわりされたと誤解していたので、それより下層の谷にしてやろうというわけだ。
平原の民である二人による逆襲か……うむ、これは中々シャレが効いている。
僕の体もシャレにならない事になっているので、そろそろ止めてほしい……。
呻き声も出せない僕の上から、ルピィの声が響く。
「ほらほらアイス君、反省したかな~?」
「……!」
キャメルクラッチな状況になっている僕に、弁明など出来るはずもない。
当然、ルピィにもそれが分かっている……。
「あれれ~、反省の弁が聞こえないなぁ~。う~ん、ボクも心が痛いけど、もう少しお仕置きが必要みたいだね~」
ぐ、ぐぬぬ……許さぬ、許さぬぞ……!
落ち度の全く無い、無実の僕に対してこの非道な所業!
……僕は薄れゆく意識の中で、平原の民への復讐を誓った。
明日も夜に投稿予定。
次回、三八話〔検証すべき疑惑〕