十六話 限定の誘惑
まとわりつくような磯の香り。
濃い海の気配がするここは――そう、教国だ。
以前に訪れた時とまったく同じように、教国は僕らを迎えてくれている。
軍国にいる時と違って、教国の人々は誰一人として僕らを気に留めていない。
僕ら一行の外見は目立つので、軍国では視線を集めてしまう傾向があるのだ。
しかし、この教国では違う。
旅人が多くて僕たちの存在が埋没しているということもあるが、お国柄なのか他人に干渉する人間が少ない傾向があるのだ。
ここが教国で最も栄えている街ということも関係しているだろう。
どこの国でも、田舎に比べて都会の方が対人関係が希薄になりがちなのだ。
……正直、この僕らへの関心の低さはありがたい。
なにしろ軍国では、僕個人の名前と顔も知れ渡りつつある。
そんな事もあって問題を起こそうものなら誤魔化しが効かなくなるのだ。
そう、結果的に父さんたちにも迷惑をかけてしまう恐れが強いのである。
なにかとトラブルを起こしがちな仲間たちを抱えているので、素性がバレていない上に注目度が低いのは実に都合が良い。
……いや、待てよ。
最初からトラブルを起こす事を前提に考えるのはどうなのだろう。
これでは犯罪者の思考ではないか。
品行方正に生きている僕らしくもない。
前回教国に来た時だって、僕らは何の問題も起こしていないのだ。
せいぜいが、ルピィが聖女の護衛であるアイファを殺しかけた事ぐらいだろう。
…………うん、何も問題を起こしていないな。
自問自答しながらも、旅慣れた僕たちは手際よく今日の宿屋を決めてしまう。
そこで僕は――仲間たちに高々と声明を告げた。
「じゃあ皆、宿屋で荷物を置いたらすぐに出掛けよう。もちろん行き先は分かってるよね? ――そう、魚市場にある食堂だ!」
「『分かってるよね?』じゃねぇよ! そんなもん分かるわけねぇだろ! 大体なんだよ食堂って……大聖堂へ顔見せに行かなくていいのかよ」
真面目で義理堅いレットらしい意見だ。
しかしレットらしくもない、肝心要のことを忘れてしまっているらしい。
「おいおいレット、忘れたのかい? この時間なら〔一日限定三十杯のカニ汁〕に間に合うかもしれないんだよ? どちらを優先するかなんて、考えるまでもないじゃないか」
そう、かつて行きつけの食堂で好んで注文していた〔カニ汁〕だ。
その名の通りカニの出汁が効いた味噌汁なのだが、これは地元民に大人気の裏メニューなのである。
昼の開店から三十分も経たない内に売り切れてしまう人気商品なのだが、今のこの時間ならオープン前には食堂に到着出来ることだろう。
「大聖堂の二人に会うよりカニ汁の方が優先順位高いのかよ。……アイファさんが気の毒になってくるな」
僕が親切にカニ汁のことを思い出させてあげたのに、レットは否定的なスタンスを崩さない。……というか、なぜアイファが気の毒なんだろう?
アイファなら『カニ汁を優先しろ!』と言ってくれる事は間違い無いのだ。
よく仲間内で意見が孤立してしまうレットだが、今回もやっぱり異端児となってしまっている。
フェニィはカニ汁の話を聞いてから、その眼には「ワク」と書いてあるのだ。
そう、両眼合わせて――ワクワク!
そしてフェニィと同じく〔食いしん坊組〕のマカも、待ちきれないようにフードから僕の肩へと移っている。
まるで「早く行くニャ!」と言わんばかりに、肩に乗ったまま雷術を行使してしまい、僕をビリビリさせながら催促しているのだ。
セレンとルピィはそれほど食い意地が張っているわけではないのだが、なぜか今回は僕の決断を支持するように満足げに頷いている。
満場一致とはいかなかったが――多数決により決定だ……!
――――。
「あら、アイスちゃんじゃないの! 久し振りねぇ……二年振りくらいかしら?」
かつての馴染みの食堂を訪れてみると、熱烈に歓迎されてしまった。
一時期集中的に通っていたおかげか、顔と名前を覚えてもらっていたらしい。
「そうですね、二年振りです。またここに来ることが出来て嬉しいですよ。お姉さん、今日のカニ汁はまだありますか? 六つお願いしたいんですが……」
マカの分も含めて六杯分のカニ汁だ。
限定三十杯しか無いのに、その多くを独占してしまうことになるので心苦しい気持ちはある。
「任せといてよアイスちゃん! ――ちょっと、アンタたちのカニ汁はキャンセルね! 青さ汁でも飲んどきなさい」
事前にカニ汁を注文していたらしい男二人に対して、お姉さんは有無を言わせず一方的に通告してしまう。
なんて豪快なエコ贔屓なんだ……!
当然、漁師らしき男たちから不満の声が上がる。
「えぇー、そりゃないぜ。俺たちが先に注文してたじゃないかよ」
――ごもっともです!
しかし……これはいけないな。
僕は何もしていないのに、結果的に恨まれてしまう事になりそうだ。
かといって、仲間たちの〔カニ汁ムード〕が最高潮に達している状態でこちらが引くわけにはいかないのだ。
よし、ここは僕が間に入って不満を解消してあげようではないか。
「いやぁ、すみませんおじさん。横紙破りは承知の上なんですが、どうかこれで手を打ってくれませんか?」
そう言いながら僕が手渡したのはお金などではない。
さすがにこんな事をお金で解決するのは印象が悪いし、お店のお姉さんにも自責の念を与えてしまうかもしれないのだ。
「なんだ坊主。……こ、こいつはキウイじゃねえか。しかも、キンキンに冷えてやがる!」
そう、キウイだ。
実は食堂に行く途中、市場でこれを買っていたから遅くなっていたのだ。
質の良いキウイが安値で売られていたので、ついまとめ買いをしてしまうのも仕方がない事だろう。
しかも食後のデザートにしようと思っていたので、しっかりとキウイを凍術で冷やしてある。
凍術の術者は珍しいので、冷えたキウイは貴重なはずだ。
ある意味では、カニ汁より希少度が高いと言っても過言ではない。
「分かってんじゃねぇか坊主。ありがとよ!」
ふふ、漁師にキウイを一個ずつ握らせただけでこの変貌ぶりよ。
キウイは沢山あるので痛手にもならないし、これはお互いが幸せになれる交渉だったと言えるだろう。
……漁師の手に渡ったキウイをフェニィが目で追っているのが気になるが、後でお腹いっぱい食べさせてあげるとしよう。
運ばれてきたカニ汁をすすりながら、新鮮な刺し身に箸を伸ばす僕たち一行。
やはり刺し身は鮮度が大切だ……そう、鮮度が大切だ!
おっと、つい新しいトラウマに襲われてしまったせいで強く主張してしまった。
あの時はフェニィの気持ちを味わったのだ。……味などは些細な事だ。
――仲間たちも嬉しそうに海の幸を堪能している。
その中でも特にフェニィが嬉しそうだ。
弁当の主役に抜擢してしまうほど魚好きなので当然と言えるだろう。
まるで薄く切られたフグ刺しを食べるかのように、フェニィはマグロを何枚も同時に取っているのだ。
これはすぐに無くなりそうだ……次々に注文していかなくては。
そして壮快な食べっぷりを見せるフェニィよりも、食堂内の注目を集めている仲間がいる――そう、マカだ。
なにせこのマカちゃんは、テーブルの上に座り込んで両手でお椀を持ってカニ汁をすすっているのだ。
――もう完全にネコ離れしている……!
猫舌はどうしたのか? などなど、食堂の客からの疑問が聞こえてくるようだが、マカはマイペースそのものだ。
両手で箸まで使ってカニを取り出している。
この調子で行けば、マカが片手で箸を使いこなすのも時間の問題だろう。
ちなみにテーブルにマカを乗せていることについて、店側からの注意はない。
こんな事になるのを見越して〔袖の下〕こと、キウイを渡してあるのだ。
食堂の店主も店員のお姉さんも、よく冷えたキウイを喜んで受け取ってくれたのである。
……様々な経験を経て、僕は成長している。
根回しさえしておけば――多少のルール違反も許されることを学んだのだ……!
明日も夜に投稿予定。
次回、十七話〔歓呼の予感〕