十二話 第二の故郷
僕がお世話になっていた村を出たのは二年前――十六歳の時だ。
シークおばさんの家に引き取られた僕ら兄妹は、実の子供のように育てられた。
そのまま何も無ければ、もしかしたら村で一生を過ごすという選択肢もあったのかもしれない。
父さんがおかしくなったあの日以降、僕はその原因を調べる為に教会の蔵書に片っ端から目を通し続けた。
そしてある日、ついに太古の洗脳術の存在を知ることに至ったのだ。
その日から、洗脳術への対抗策となる解術の鍛錬に明け暮れる日々が続いた。
毎日毎日、身をもがれるような痛みに耐えながら来る日も来る日も繰り返していたが、その間、王都にいる父さんの情報は全く村には入ってこなかった。
もうひょっとしたら、父さんは死んでいるのかもしれない。
そう思いながらも、僕は十年以上も鍛錬を止められずにいた。
だがある日、それが無駄では無かったことを知らせる情報が訪れた。
僕は……それを聞くことを待ち望んでいたのか、聞きたくなかったのか、自分でも分からなかった。
父さんの情報が入ってくるという事は、父さんが未だ囚われの身であることを知る事になるからだ。
二カ月に一度の感覚で山奥の村を訪れる行商人。
その行商人の言葉に――僕は凍りついた。
「いやー、今、軍国首都ではえらい騒ぎですよ。関所を抜けた先にある難攻不落の帝国の砦。これを軍国が落としたらしいんですよ――それもたった一人で! ここ数年、公式行事にめっきり顔を出してなかった、あの〔武神持ち〕のカルド=クーデルン様が、一人でですよ!」
東の軍国と西の帝国を行き来するルートは、大きく分けて三つある。
一つ目が、軍国と帝国に跨って東西に広がる〔排斥の森〕を抜けるルートだ。
森には魔獣が多いが、他二つのルートに比べれば越境が容易と言われていた。
だが、何年か前からは〔死滅の女王〕と呼ばれる存在が現れたことにより、現在では最も困難な越境手段となっている。
二つ目が、北にある〔教国〕を経由して帝国に入るルートだ。
だが、教国はかれこれ数十年は内戦状態にあり、教国内の通過には危険が伴う。
三つ目が、軍国から南西に位置する〔崩落の谷〕にある関所を通過する道だ。
しかし、関所を挟んで両国ともに砦を建造しており、堅牢な砦が互いの侵攻を防いでいる状態にある。
行商人が言っている砦とは、崩落の谷にある砦のことだ。
――続けて行商人は、さらに残酷な事実を告げた。
「しかも、砦にいた軍人から商人、女子供に至るまで皆殺しにしたらしいですよ。
カルド様は武神持ちで国でも一番強いのに、ずっと帝国との争いに反対してたから立派なもんだと思ってたんですけどねぇ、正直なところがっかりですよ。これから本格的に帝国との戦争が始まるんじゃないかって、王都じゃその話で持ちきりですよ」
あの無闇に人を傷つけることを嫌う父さんが、女性や子供にまで手にかけたというのか……。
父さんから体の自由を奪っただけでは飽きたらず、この上更に、名誉を尊厳をも奪ったということに、僕は頭が沸騰するほどの怒りを覚えた。
洗脳術下では本人の意識が残っているはずだ。
自身の凶行を、父さんはいったいどれほどの思いで受け止めていたというのか。
僕が出血するほどに唇を噛み、激情に震えていると――不意に、温かい声が僕の心を包んだ。
「にぃさま……」
セレンの心に響き渡るような声で僕は我に返った。
――危ない危ない。
ここで怒りを露わにしても、不審感を与えるだけで得する事は何もない。
カルド=クーデルンの家族は死亡したことになっているし、行商人もまさか今話している相手が、死亡したはずのその家族とは思わないだろう。
だが、過剰に反応して訝しげに思われるのはマイナスでしかない。
セレンのおかげで冷静さを取り戻すことが出来てよかった。
それにしてもセレンの声は落ち着く――
これはもしや、セレンの前世は精神安定剤であるトランキライザーだったのではないか?
いや、それでは語感の持つ雰囲気が強そうな感じがするので、セレンに似つかわしくない。
精神安定作用のある香草、ラベンダーやジャスミン辺りはどうだろう?
ジャスミン・セレン。
……うん、どちらが名前だか分からない感じはするが悪くないぞ。
すっかり落ち着きを取り戻した僕は、まだ村の皆に話を続けている行商人を尻目にその場を離れた。
僕の服の袖を掴んでセレンも後をついてくる。
「あれ? そういえばレットは? この時間はまだ二人で剣術の稽古をしていると思ったけど」
この村では戦闘術においては子供も大人も含めても、僕とセレン、それから友人のレット、この三人の実力が抜きん出ている。
その為、戦闘訓練をする時は必然的にこの三人の組み合わせが多い。
僕は解術の練度を上げることを優先しているので、たまに訓練に参加する程度だが、レットとセレンは頻繁に、余人では目で追うことも難しいような苛烈な戦闘訓練を行っているのだ。
「レットさんなら、稽古中に気絶してしまったので置いてきました」
セレンはこともなげに言う。
レットは〔神持ち〕であり身体能力も極めて高いのだが、戦闘系の神持ちではないせいか、同じく神持ち――おそらくは戦闘系の神持ちであるセレンに、後塵を拝してしまうことが多い。
セレンは〔刻神の加護〕という、加護について記された文献にも載っていないものを持っているが、本人にもどの分野に適正があるのか分からないらしい。
僕には人を見ればその保有する魔力量が分かるし、加護の種別もなんとなく検討がつくのだが、セレンの系統は他に類を見ないものである為、判別が困難だ。
今までの経験からすると、目に見える魔力の色で言えば青よりは赤、さらにその色が濃ければ濃いほど――戦闘系加護の傾向がある。
そしてセレンの魔力は、おどろおどろしい骨まで溶かす〔底なし沼〕から発する瘴気のような濃い魔力をしているのだ。
色で言えば濃厚な黒色――戦闘系の加護であることだけは分かる。
セレンの優しい天使のような性格を考えれば、魔力の質に人格は関係無いことが分かるが、こんなとき他の人間に魔力を視認することが出来なくて良かったと思う。
セレンの魔力はその巨大さも相まって、まるで悪を司る魔王のような印象を与えかねないのだ。
人が立ち入らない、深い森の中にある透き通った湖のような心を持つ優しいセレンが、そのような悪意のある風評にさらされるのは許しがたいことである。
実際のところ、僕が幼い頃から魔力操作に長けていて、セレンに幼い段階で魔力制御のすべを伝えることが出来ていて幸運だった。
周りに誰も魔力制御を教える人間がいなかったら、セレンが近くにいるだけで――本人が無自覚であっても、周囲にいる人間は、体調ないし精神に異常をきたしていただろう。
「それじゃあ、レットの様子を見に行こうか。シークおばさんも含めて相談したいことがあるんだ」
「はい、にぃさま」と、相変わらず僕の服の袖を掴んだまま、まるで僕がいなくなることを恐れているかのように、とことこと後を付いてくる。
もうセレンは十一歳になるのに兄離れ出来ていないようで、僕は不安な気持ちに襲われる。
なにしろ、これから僕は――セレンに別れを告げなければならないのだから。