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深いスリット

作者: 南清璽

「初めてかしら?クラシックがお好きで?」

「いえ、これから聴こうかと。フルートの音楽だったら何がお薦めですか?」

「モーツァルトの協奏曲や四重奏曲なんて如何かしら。それにしても嬉しいわ!たまたま前を通りかかって寄って下さるなんて!」

 でも、決してそうではなかった。たまたま前を通りかかったというのは全くの方便で、あの日今日のリサイタルのフライヤーを偶然手にしたからだ。どうやら隣の席に座っている男性は私がその場に居合わせたことに気づいてないようだ。今は彼女のフルートのリサイタル後の懇親会。当初はこれには出ないつもりだった。だが、受付で彼女自身から誘われ、しかもアポもなく飛び込みである私に何らの警戒を示さず屈託なく破顔で迎えてくれたとなると無下にできなくなった。

「皆あれにやられるんだ。ユジャワンを気取っている。」

 その隣の男性の言葉は呟くとも私に話しかけているともとれた。私は応じるべきか迷いもしたが、紳士な装いにむしろ関心を向けてもいいかと考えた。

「ユジャワン?」

「ピアニストさ。」

 そう云いつつスマホを私にかざすようにして画像を見せてくれた。それは深いスリットのドレスをまといその美脚を露わにしながらピアノを演奏しているものだった。と同時に彼女も同様のコスチュームであった。確かにここにいる男性諸兄は好奇の目で彼女を見ていた。そして自分も例に漏れずその太腿に視線を落としている。あのフライヤーと同じだ。そこでの彼女のいでたちも大胆にも太腿を露わにし、色香を漂わせるものだった。そしておおよそそれに誘われここに来たのには違いなかった。もちろん彼女も男性の目を意識してのものだろう。しかし、たやすく蔑むこともできなかった。不思議と知性に富んだ深みのある語り口をする。

 帰りの電車の中でスマホにある彼女と共に収まった写真を見入っていた。ただその脚をスリットから出すポーズだった。その現実感のなさが頭にもたげそれがある意味予兆と捉えていた。そう何かの予兆と。


 それは数日前のことだった。しかも体験としての実感が世俗と隔たるばかりに不思議な感覚へと陥らせていた。そのとき驟雨に見舞われファミレスへとふりこめられたのだった。その入口でジャケットのしずくを拭っていたら女が現れた。しかも男に腕をつかまれていたがそれをふりほどき激しい雨の降る中走り去ったのだ。しかしそのまま走り去らず途中ふり返りずぶ濡れになった姿を見せもした。そうドラマさながらに。もっともそんな様子を見入るのはなんだと考え店に入りはした。偶然案内されたテーブルの下に今回のリサイタルのフライヤーが落ちていた。やはり興味をそそる写真だ。特にその深いスリットから見せる脚が。と同時にさっきのずぶ濡れになった女だと分かった。それを見つつふと‘カルマ’という言葉が連想された。でも言葉の定義づけからそれと相関に立つか分からず、ただ写真の妖艶さと雨に濡れながら見せた凄まじい形相とが妙に連関する程にあると考える次第となっていた。

 改めてそのフライヤーを見入ってしまった。そう電車の中であるにもかかわらず。と共にさっきの懇親会の隣の男性の言葉がもたげだした。

「また男を誑かすんだろうな。君も気をつけた方がいい。」

 これがその言葉だ。既に見透かされていた。私が彼女になにがしかの好意を寄せていることは。だが一方で気付いていた。この男性があの日、彼女の腕をつかみ振りほどかれた男性であることも。だからそのときは単なる腹いせだと受け止めてしまった。

「そんな方には見えませんが」

 これが何らの根拠にもとづくかない単にほのかな好意から出た言葉であるばかりか、少しは機知に富んだ言いようもなかったかとの想いも存した。と共に人を蔑む物言いが許せないとの感覚が伴わない表彰に嫌悪をしたのも確かだ。

「君も若いなあ!何だったら賭けないか。彼女がそういう女かどうかを。」

 それを受け合うことにしたが売られた喧嘩を買うという感覚はなく、むしろ刺激を求めたというのが実体にそくしていた。渡された名刺には『フリージャーナリスト 松下由羅』とあった。妙に印象に残る名だ。筆名かもしれない。一方職を失っている私は名刺は持っておらずとりあえずは何かの紙切れに氏名と携帯の番号を記し渡した。


「悪いけどお酒は控えてね」

 言われるまでもないことだった。何分、あの二人をラブホまで自動車で迎えに行かなくてはならないから。そう言いつつ当の彼女は既にドリアを食していた。その魚介の旨味が心地よく嗅覚を刺激していた。ここはマリーナにあるレストラン。だから注文するとしたら魚介類であろう。だが、こういった処で食する機会などないものだから同じものにするしかなかった。やがて料理が供されたが、まだ帽子を目深に被ったままであることに気づきテーブルの傍らに置いた。その帽子を見つつ、彼女のしていることが売春の周旋ではと思った。そうであるのならこれは売春防止法違反の罪だ。

 もし、これまでの梗概を述べるとしたらこうなろう。私は、彼女からどうしても頼まれてほしいことがあると云われとある場所に赴いた。もちろん警戒心を懐く様な要素などなかった。ごくごくありきたりの親切で済ませる用事だと考えたのだ。そこに彼女がランドローバーをさっそうとした姿で運転してきたのだ。それから連れて来られたのが、このレストランだった。彼女の運転でここまで来たのだが、あの日の「誑かす」の、そうあの「松下由羅」という男の言った言葉が現実味を増す結果となった。一方ここに来たものの、すぐに食事させてもらえず男女の送迎を頼まれたのだ。だがその折渡されたキャップを目深にかぶる様に言われた際は少々訝しさを感じた。

 そして、所定の場所に赴きまず女性を拾った。しかもあのコンサートで伴奏をしていたピアニストだとすぐに気付いた。だが驚いたのは次に拾った男性だった。何と前の職場の上司だ。そのとき帽子を目深にする理由が分かった。後ろめたさを多少なりとも軽減できるからだ。一方、その男性もどうやら私が誰か気付いていたようだ。二人をラブホまで送ると今度は彼女よりここに戻れと指示された。要は情を通じている間の待機場所でもあるのだ。私はここに戻る直前に松下に興味ある出来事だと云われ、この次第をLINEで告げていた。


 不思議だ。たとえそれがインモラル、淫靡であっても。彼女の気高さによってそういったものが打ち消されていた。彼女の醸し出す雰囲気に呑まれていたのかもしれない。だからか彼女の行いを質すことが安っぽく感じさせる次第となっていた。もっともここにいう気高さは崇高さとはまた違うどちらかといえば折り目正しい立ち居振る舞いからくる端正さだった。それは彼女の出自がやんごとなきものであるからで、そういった毛並みの良さは今や羨望の対象ではなく、実在性に乏しい幽きものにしか思えなかった。もっともこの場の雰囲気が何か言いたげな感じであるかのようにあったのだろう。きっと彼女は私の態度を煮えきれないと捉えたのかもしれない。

「質さないの?」

 だが、彼女のその問にすぐには答えられなかった。そして沈思の末、「何もあるはずないでしょう」との一言しか言えなかった。ただ、彼女のその折の態度は不満げそのものだった。きっと質されることを期待していたのかもしれない。

「単なるコンパニオンの派遣業よ。ちゃんと営業の許可は取っているわ。」

「だったらいいんじゃないですか」

 もちろんそこには装いはあった。だが別段の想いも懐かなかったのも事実だ。ふと思い出したのだ。聖書の一節で主が女の罪を問おうとするのなら自身に何らの罪も犯したことがないと言い切れる者でなければならないとのたまったことを。だがそんな高貴なものではなかった。単に自身がどれほどのものかとの考えの成り行きに過ぎなかった。それを察してか彼女はなぜそんな事業に手を染めたかの所以を語らなかった。気づけばスマホを眺めている。やはり重苦しくあったのかもしれない。そういう場の空気を嫌い迎えの時期を知らせるメールがまだかとみつめていたのだろう。やがて女から迎えを寄こしてほしいとの連絡があった。今度は途中まで彼女を載せての運転だった。それも彼女が投宿するホテルに寄るためだった。その号室と後でそこに来るように告げられた。一方私は松下由羅にその後の経緯についても知らせたのだ。そして大変興味があるとの返事をよこしたのだ。もっともこれから迎えに行くラブホの所在も尋ねてきた。

 二人をその送り先というか要は駅までへ運んだ。幸い元の上司である男性の方を先に降ろしたからそいつと二人きりになることはなかった。その仕事を終え彼女の泊まるホテルに往くものの自動車を残しキーをフロントに預けその場を去った。とても部屋にゆく気にはなれなかった。  


ある意味「あれは君のことを慮ってだ」うそぶいてくれた方がよかったかもしれない。その方が意地悪く嫌味や皮肉を述べることができたからだ。この数日前だった。かつての同僚からあの日ラブホまで送っていったあの上司が私の電話番号を知りたいので教えていいのかという連絡があった。もちろんすぐに察した。それがあの日の出来事に関わるものであることは。だから即座に快諾し、今宵この割烹でくだんの上司と会っている。よく接待で利用したこの場所で。

無論忘れられるものでもない。この上司から受けたパワハラの数々を。何分仕事のことで異見すると揚げ足をとり人前で罵倒し、挙句に散々反省文を書かせたのだから。そのお陰で退職した。だが、今日は違った。非常にしおらしくし、かなりの年齢を召してから結婚だったゆえ、年若い妻や幼い子どもにあたることができず、葛藤が生じるとつい職場の部下に向いたのだと弁明し謝罪したのだ。もちろん、許した訳ではなかった。しかし、それ以上の気持ちを起こせなかったのも、ある種の優越感が存したからだ。ただ、聖人の様に振る舞いこんこんと諭す様な物言いができたからだ。

上司はその写真を見せた。彼自身とあのピアニストがラブホを出るところを撮影されたそれを。しかも添えられた手紙には単にこの写真のことで連絡がほしいというものだった。もちろん、無視するのも一つの方法だが、何か有益な情報を得られないかと私とアポを取ったのだと今日の次第を告げてくれた。もちろん、警察に届けられる段階ではない。何分恐喝の構成要件を満たしていないからだ。だが、どうしてこうやって会社に送りつけることができたのか所以を尋ねもした。そのところは白状した。実に滑稽で私に先ほどの優越感を益々満たしてくれるものだった。女が奨学金の返済に窮していると云うものでその面倒を見てやると名刺を渡したそうだ。女はその場で名を告げるものでもなく、後日連絡を取るといわれ、それを待っているところにこの手紙が届いたらしい。もっともその女があのリサイタルで伴奏を務めた彼女とは云わなかった。何せまだ彼女に一種の色情を懐いているのは確かだからだ。ただ、差出人の名に因縁を感じていた。「津島優楽太」。どうせ偽名であろうが。


「すぐに分かりましたよ。あなただってことは。」

私はこの様に告げるまでもないという向きで松下由羅と名乗る男に云ったのだ。しかも極めて沈着な趣きで。でも幾分ミスマッチだったりして。というのもこの店の内装の重厚さとさりとてどことなくけだるい雰囲気に浸りきっていたからだ。そして、いつまでもだべっていたいとも。やはりバーテンダーだ。そのシャツの襟に残った汗ジミからくるすさみようがそう感じさせるからかもしれない。ただここにいるこの男の、得体のしれなさやそれに付随するうすみ気味悪さは払拭されないのも確かだ。

「さすがだね。こうあっさり看破されるとは。」

実際造作もないことだった。松下由羅(マツシタユラ)津島優楽太(ツシマユラタ)の名前の文字の並びがユラの箇所が同じであることから気付いたのだ。そう単に名前の文字を並べ替えただけであることを。だから元上司に手紙を送りつけた津島優楽太が松下由羅と名乗る男と同じであると考えた次第だ。私がそう述べると質すまでもなく動機を語ったのだ。

「一種のゲームだよ。急に興じてみたくなったものでね。」

もちろん、不快感を顕にする選択肢もあった。だが、不思議と興味が湧きしばらくこの男に付き合あうと思った。

「どうして彼が私のかつての職場の上司だと?」

彼、すなわちあの日私が女と共にラブホまで送った男性だ。

「Blogだよ。」

そうだったか。自称松下は私のBlogを閲読し企業名を知得していたのだ。その画期的な鋼材を開発したとの投稿を持ってだ。何分かなりの投資家で目ざとく特許技術に関する情報をむさぼっていたらしい。そしてあの女、あの元上司と情を交わした女から彼の名刺を貰い同じ会社だと気付いたようだ。ただ、私はあのとき平静を装ったもののお互いの態度から知己のある者同士だということを女は悟っていたようだ。

「それにしても君があの上司からパワハラを受けていたのは端々から窺えたよ。だったらかなり溜飲を下げられたんじゃないか?」

もちろん!そんな具合に肯定するのを意味もなく抗ってしまった。全くつまらんことだ。彼からは見透かされているというのに。無論私がそうならんとしてこうしたのであろうが。それにしても顧客を装って会社に電話し、私が所属した部署がその上司の元であることを確認しているのだからやっかいな面があるとも思えた。そう思うとつい不敵に笑いはぐらかすしかできない仕儀となった。と共に核心にも触れたくあった。

「あの女性は確かピアニスト。あの女の伴奏を務めた人では?」

「そうだとも。」

「何か魂胆でも?」

これは多少の意地からだった。だが手練ともいえない稚拙な手段でもあった。逆なでにしたところでこの男にはそうそう通じないのは分かっていた。


「君も人が悪いなあ。」

私はあの日のことをこの松下に告げたのだ。ファミレスであのフルートの女が彼から掴まれていた腕を振りほどき、雨の中を走り去った状況を目撃したことを。松下、いやただそう名乗る男は既にこれまでの梗概を述べてはいた。彼は、数多くの音大あるいは音楽部を卒業した者がその後音楽の道に進むのを断念せざるを得ない実情、そしてその挙句多額の奨学金の返済に追われることをルポルタージュに著そうとしていた。だが、その取材の過程でこの女のことを知ったようだ。

「君も気づいているだろうが、彼女の行いは売春防止法違反だ。しかも、組織化して行っている。だから内通者が必要だった。実はあのピアニストがそうだ。考えてもみたまえ、もし、これが記事にできたらセンセーショナルなことになっただろうに。なにせ音大を卒業した令嬢が売春に加担しているんだから。きっとあの事件のようにな。あのOLが殺害されたのと同様に。」

そうだったのか。ただあの日私はそのことを質したものの彼女からはうまくかわされたのは事実だ。単なるコンパニオンの派遣でちゃんと開業の許可をとっているとの話を鵜呑みしてしまった。だが松下いわくそのコンパニオンの派遣なるものが既に法に触れているとのことだった。しかし、単にお金の工面のためにしているとも思えなかった。だから率直に自身の見立を話した。

「だと思うね。」

そのセンテンスの短さがすべからくこの一連の事態を象徴するかの様だった。だとしても彼女たちが、そうフルーティストの彼女とそのピアノ伴奏を務める女がそうする所以は覚知したいところだった。もっとも金を欲してのものでないということは何とはなしに理解できるにしてもそれ以上のことは推察を及ぼすほかはなかった。一つ考えられるのは彼女が破滅的な一面を持っている点だ。脆くもありながらあえて危険な領域に踏み込んで行くそんな風にだ。だが、一方でそれが自己の願望の顕れであることも承知できていた。そう、いつか瓦解し彼女もろとも破壊の渦に陥るようなそんな感じだ。

「正直あいつが恋しい!柄にもないが。だからルポは書けなかった。」

松下は、はばからずそう述べた。ただ、無下に蔑む訳にはいかなかった。

「一応は関係を持てたよ。もちろん多数のうちの一人に過ぎないことは分かっていたけど。ただ彼女に好意を寄せる連中にあって君は違っていた。きっと君のようなタイプに弱いんじゃないかって。」

そうして松下はあの演奏会後の懇親会で彼女を貶める向きのことを述べ、私に警戒心を懐かせようとしたのだとも。

「そういえばあのとき、彼女が男を誑かす人かどうか賭けました。そこは私の負けであると認めます。」

だが、私のその言葉には何も反応しなかった。もちろん彼が本心で賭けたものではなかったはずだ。私に彼女を諦めさせようとしてのアイテムに過ぎなかったからだ。


やはりシンパシーを示さなかったからか。そう考えつつフローリングに散らばった無残にも砕けたグラスの破片を私は拾っていた。もっともこういう仕儀となったのは彼女が床にたたきつけそれを割ったからだ。だから招かれ飛んだことになったものだと思う一方でここまでの義理はないと立ち去れずにいたのも事実だ。やはり心持ちとして彼女が帰って来るまでいようとも思った。何分あれほど取り乱したとなると心配は尽きなかったからだ。

そもそもの発端は彼女からのラインのメッセージだった。それがまたいつかのように売春婦と客との送迎を頼むものであるとしか思えず指定された場所に出向くのを断ったのだ。そうなると今度は私が彼女のシンパでなくなったことが許せなくなった。だから質そうとしたのかこの住まいに招き入れたのだ。実は先んじて松下にそのことを告げていた。ただそのときはきっとジャーナリストとして何か醜聞な事柄を期待し肯定するのかと考えた。だが違っていた。極めて常識的に危ないからやめとけと云うのだ。何分、背後にどのような組織があるか分からないと。まるで映画のようにマフィアの囚われの身になるというのだろうか。だったらあのダニエル・クレイグのように機知で逃れればいい。まさか!ありえない空想だ。一方気持ちが高揚していたためか安易に無事であろうとの想いを懐いてしまった。だから彼の忠告を無下にした。もっともこちらから聞いておきながらと考えると申し訳なくあった。

ただ事の次第は予想どおりだった。彼女は如何に自己の来歴が不幸であったかを語りだした。しかも仰々しい物言いが白白しく、印象として乏しいばかりにリアクションを伴うことがなかった。そんな私の態度に激昂し詰った。それは心外であった。何らの問題のない接し方をしていたからだ。取り乱すと共に手にあるグラスを床に叩きつけ出て行ったのだ。それはあたかもあの日彼女が雨の中を走り去ったときのように。

そのときフルーティストとして将来を嘱望されながら芽が出なかった挫折感やソロ活動を始めたもののなかなか収益面でうまくいかなかったことを話していた。もっとも深いスリットの入ったドレスを纏うようになってからは状況が変わったらしい。男性からの好奇な目を誘え、お陰でリサイタルの収支は改善したようだ。しかもそういう異性の視線にスリリングな快感が伴うようになったことも告げるのだ。だがそんな彼女の話を聞きながら今の自己の状況と置き替ってしまっていた。思えばパワハラで仕事を辞めたものの、その後の身の処し方はままならない一方であった。鋼材の開発の研究に携わっていた関係で大学院の博士課程を受けてはみたがどこも受からなかった。もちろん退職金や僅かながらの職務発明に対する報酬などで当座の生活には困らないでいた。だから切迫していた訳でもない。そう漠然としていた。もっとも心のうちがそうであるため自分と比してはないにせよ、ただ空虚な感しかなかった。

そういう具合に想いが逡巡している際インターホンがなった。訪れたのは警察の人間だった。彼らが告げたのは彼女が自死したことだった。


知らずして神妙な面持ちになっていた。だからか遺族である継父と異父の妹もそれに従うかのような感があった。やはりそうともなろう。その最期の状況をすなわち自死を遂げた日の様子を告げたのだから。もちろんあの日彼女が住んでいたこの部屋で時間を共にした者として真相を語る義務はあった。ただ彼女が行っていた売春の周旋に言及するかは迷った。だが語る必然はあった。それというのもどうして自分がここにいたのかを明らかにするためには、一連の次第、つまりは売春の女と客をホテルに送迎し、今度はそれを断ったのがその所以であったことを言わなければ収まりが悪かったからだ。もっともこれは遺族として知るべきことを告げるという感覚ではなく自己の保身である向きは否定できない。

だが遺族である二人は彼女が売春に関わっていたのは知っていたようだ。それどころか彼女の死を受容している心の裡を明かしたのだ。もちろん人のありようとしてどうかという想いもあったがこれを糺そうとは思わなかった。ただ一言「お母さんの元に行けたのだから」と継父が添えたのは抒情をもたらし一定の体裁をととのえはしたものの。糺せなかったのは自身も同じであったからだ。ある種の複雑な想いによるというか、彼女の危うさあるいは脆さをほってはおけない反面、それが恋しさかと自身にも判然としなかったからだ。いやもっとありていに言えば売春の周旋に手を染める彼女を恋しく想うのを意識の何処かで制しようとしていたのだ。ただこの数日前あのピアニストから彼女の生い立ちを聴いて一層シンパシーが増したのも事実だ。それによると両親が離婚し母は再婚したが継父との間に妹が生まれると継父は妹ばかりを可愛がるようになり荒んでしまった反面、その継父がステイタスのある職業であったため、母への想いと、また、不自由することなく音楽の道に進めたという複雑な感情から葛藤を忍ばせるほかはなかったという事だ。

ただこのシチュエーションで遺族の二人から彼女がしていた売春防止法違反の事実があからさまにならないことを願っている節をあえて私に告げられたとき、彼女の葛藤が如何様であったか計り知れる思いがした。そうなるとこの場における二人の神妙さは空々しく感じるばかりとなった。でも外聞や装いを優先する体裁に対し彼女は抗わず従った。継父のステイタス、そしてその家の令嬢、人から羨ましがられる外観に違いない。だとすればそうある方が賢明だ。たとえその内実が如何にあろうとも。私は、当然にその意を察し口外しない心づもりだと伝えた。もちろん二人はその言を全面的に信頼はしなかったが、同時にいわゆる口止め料でどうこうできるものでもないと悟ってくれたので爾後は面倒くさい事にならなかった。

おおよそのことは伝えられた。そこをあとにするも二人はまだ遺品の整理を続けると云うのだ。最初は改まった場所でと継父から云われたが、ここでと願った次第だった。もっとも一時にせよ整理の手を止めてもらったのも事実だ。話を終わらせたことは松下にラインで知らせた。やがて返事をよこすもののそこには「俺といい君といい彼女への想いは何れも歪な、いわば変愛だった。もっともその歪さは違っていたが。」と記されていた。だろうな。ただそれには応えなかった。何分複雑に絡んでいたから。彼女の死を受容したことで苛まれていたという事実が。



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