心臓が見せる夢
「髪を切る日」番外編。
時間を越えることが出来るなら、こんなことがあってもいいのではないでしょうか。
意識が遠のいていく。もう何も見えない。死ぬときというのは、こんな感じなのか。
真っ暗になった視界で、ふと、唐突に息苦しさが消えた。
騒々しい場所だった。あちこちからざわめきが聞こえ、放送もかかっている。
まるで白昼夢から目覚めたように、一瞬階段から落ちたような気がした。足をしっかりとふんばる。
・・・ここは、どこなんだ。
制服や胴着、ジャージを着た少年たちが辺りを歩き回っている。時折少女の姿もあった。大きな建物の裏側に、自分は立ち尽くしているようだった。思わず利き手が己の心臓の辺りを押さえる。少し堅い、衣服の手触り。あんなに苦しかった胸が今は穏やかだった。鼓動がゆったりと刻まれ、緊張の余り再び高まったのを意識する。
「荒井主将、戻らないんスか?」
背後から声をかけられ、思わず身構えた。振り返ると、自分より少し小柄な学生服の少年が怪訝そうに首をかしげている。
「戻る…?」
「男子の決勝は終わったじゃないですか。女子も見て帰ります?顧問が主将に聞いて来いって言うんスよ。」
少年は自分と同じ制服を着ている。片手に大きなスポーツバッグを持っていた。
自分の足元に、同じデザインのスポーツバッグが置いてあるのに気がつく。
「主将?」
「あ、ああ…女子の決勝が終わったら戻る。全員帰り支度して待機だ。」
「了解しまっした。」
少年はバッグを持って去って行った。
ここは武道館の裏側に設置された臨時の休憩所だった。先ほど大会が終わったところだ。
…俺たちは、これで引退だったな。受験勉強へ専念するために。
残念ながら勝ち進めなかった自分達の学校はこれで終わる。秋には下の学年が大会へ出ることになるのだ。
足元のバッグに目を落とし、片手で持ち上げる。意外に重い。何が入っているのだ、と思わずその場でファスナーを開いた。真っ白なスポーツタオルの下には黒と紺の胴着や袴、剣道の防具がおさまっていた。
初めて見たはずなのに、驚くほど自分の手に馴染んでいるその防具を見てふと、誰かを思い出した。
・・・剣道の、道具。確か、これを懐かしいと言っていた奴がいた気がするのだが。
立ち上がった自分の目の前を、長い黒髪の少女が通り過ぎて行った。背中に赤いたすきをかけている。
白い胴着と白い袴に真っ赤な胴を身につけた少女の横顔に見覚えがあり、バッグを持ったまま後を追いかけた。
・・・今の娘は、今、目の前を通ったのは!
少女は外水道に向かって真っ直ぐ進み、何のためらいも無くそこで顔を洗い始めた。タイル張りの外水道のその脇に、彼女を追いかけてきた華奢な少女が立っている。
一目で忘れられなくなりそうな美少女だ。柔らかそうな栗色の髪、大きな瞳に、抜けるような白い肌。見た事のある制服を着ているその少女は、明るい笑顔で洗顔中の少女に話しかけている。友人なのだろう。
近くまで歩いて行くと話し声が聞こえた。
「由良、すごいじゃない!このまま行ったら優勝できちゃうわ!」
「そううまくいかないよ。次の相手は三年生らしいし。小沼第一の女子は全国大会常連じゃない。」
聞き覚えのある声だった。
華奢な少女の声は高く通る。か弱そうに見えるのに、薄茶の瞳の色はとても強く、気丈さがわかる。
ようやく水道から顔を上げた少女は、美少女よりも随分と大きい。
「あ、タオル忘れちゃった。やっぱいな、びっしょりだ…。」
由良と呼ばれた背の高い袴姿の少女の声に、自分の胸が震えた気がした。
大好きな声。優しく穏やかで、めったに荒げることも無かった柔らかな声音。余り高くなく、それでいてよく響いた。
思わず手にしていたバッグを探る。白いタオルがさっき見えたはずだ。ファスナーを再び広げてタオルを取り出した。
「使うか?」
振り返った少女の驚いたような表情が可愛らしかった。
びっしょりと濡れて顎から水が滴っているのに、それを拭いもせずこちらを呆然と見つめている。
つりあがった焦げ茶の瞳。小さな唇。よく焼けた肌。うなじの傷は、髪に隠れてよく見えない。
何度も触れたいと望み、独占したいと思った少女は、そこにいた。
「使うか?」
もう一度呟いた。
彼女は、差し出されたタオルにゆっくりと手を伸ばす。
「ありがとう…。」
少しはにかんだように笑い、タオルを受け取ってそのまま顔を拭う。
・・・俺はこの娘を知っている。さっき会場で準決勝を見ていたのだ。一年ながら大将を務め、団体戦を勝ち抜いた。
その俊敏な竹刀捌きや足腰の動きの軽快さに感心したものだった。
だが、違う。
同じだけれど違う。俺の知っているこの娘は、竹刀ではなくサーベルを振るっていた。
腰までの長い髪を後ろで無造作に束ねたこの娘は、自分の記憶の中では短髪だった。
まるで初対面のような表情でこちらを見る彼女を、自分は何度もこの腕に抱きしめたことがある。
あの小さな唇に触れたくて。あの肩を抱きしめたくて。
・・・強引に抱いて、傷つけ、泣かせた。
脳裏に浮かぶ、あの時の泣き顔。悲しげにすすり泣く声。あんな目には二度とあわせない。
二度と会えないと思っていたのに、再び会えたのだ。
あの長い髪を切らせぬように。
「次が決勝なんだろ、がんばれよ。」
一言告げて、懐かしそうな視線を彼女に向ける。
彼女は、何故そんな視線で見られるのかわからなくて困惑しているような表情だった。長いことそうして見つめていたが、ふと、自分に向けられた反抗的な視線に気がつく。
彼女の傍に立っている小柄な美少女がまるで睨むようにこっちを見ていた。
・・・そうだった。今度は、この娘にも好かれるようにしなくては。
笑うのは苦手だったが、精一杯愛想のいい表情と言うのを作ってふわふわの髪の少女の方を見る。そして軽く頭を下げた。
とたんに小柄な少女の表情がやわらぐ。
もう一度、袴姿の少女を見た。
自分のタオルに埋もれた恥ずかしそうな表情。
思わず微笑んでしまいたくなる、その照れた顔。自然と口元に笑いが浮かぶ。知らず知らず笑顔になっている自分に気がつく。バッグを肩に持ち上げて振り返りそのまま武道館の中へ戻った。一度だけ振り返ると、あの黒い長髪の少女が軽く手を振っている。自分も軽く手を上げて挨拶を返す。お互いの姿がちゃんと認識できる、この挨拶に既視感を覚えた。あの時は、彼女には俺が見えず、手を振り返しても見えなかったのに、手を振ってくれていた。病室の、マジックミラー越しに。
バッグのファスナーが開けっ放しだったことに気が付き、ふと、バッグの裏側の刺繍の名前が目に付いた。銀色の糸で、荒井真己、と縫われている。
それが、自分の名前だと気が付き、ようやく納得がいったように溜息が出た。
・・・そうだった。俺は、ここで初めて由良に出会ったんだ。
後輩達の待機している場所へと歩きながら、ファスナーを閉める。
・・・きっとまた会える。そうしたら今度はちゃんと恋人になってくれるように頼もう。
・・・今度は絶対に強引なことはしない。少しずつ、ゆっくりと関係を深めればいい。焦らない。…絶対に傷つけない。
・・・美夜子のご機嫌を取ることも忘れないようにしなければ。
「主将、なんか嬉しそうですね。…負けちゃったのに。なんかいいことあるんスか?」
さっきの後輩が寄ってきて腕を小突く。
「…ああ、一目惚れって奴だ。」
「ええーっ!?荒井主将が、ですか!?硬派中の硬派の、主将が!?」
「…うるさい。別に俺だって好きでお堅いワケじゃない。」
「どこの女ッスか?今日来てる高校で女子がいるのは…。」
「見鷹だ。」
「ああっ決勝に残ったトコですね。でも、あそこそんな可愛い子いたかな…。」
「俺見ましたよ、制服で来てる栗色の髪の子。可愛いんですよね~。結構有名なんですよ、中学の時弁論大会で優勝してるんで。頭すっげいいんだって。見鷹の女子の大将と仲がいいらしいです。よく試合には顔を出すんですよ。」
日頃女っ気の無い男子校なので、女の子の話となると途端に寄って騒ぎ出す。
「ホラホラ、女の話はそこまでだ。顧問を呼んできてくれ。」
真己は盛り上がり始める後輩と同級生達を押さえる。それも主将の務めだ。そして今日で終わるのだ。部活もこれで引退となる。ようやく肩の荷が下りてほっとしていた。
負けてしまったのは悔しいが、もう終わったことだった。
それよりも今気になるのは、あの娘の事だった。
・・・今日優勝しても負けても、由良には必ずまた会えるはず。俺は剣道をやめても、あいつはやめない。だったら、あいつが竹刀を振っていそうな場所へ行けばきっとまた会える。
後輩たちは彼女の親友の美夜子のことで盛り上がっているが、それも好都合だった。由良に目を止めるやつなど、一人もいないほうがいい。自分だけがあの娘を見ていればそれでいいのだ。
今度こそ他の誰にもやらない。
絶対に傷つけない。泣かせない。無理なことはしない。一歩引いて慎重に由良に接する。
そうすれば必ず彼女は応えてくれるはずだ。
もう一度右手を左胸に置く。力強い鼓動、健康で若いこの身体は確かに自分のものだった。幼い頃から健康で、殆ど大きな怪我も病気もした事がない、幸運なこの身体。何の異常も無い、人間の身体だった。活力に溢れ、自在に動ける自分の体に初めて感動したように、大きく溜息を付く。由良と同じである人間であることに深く安堵して。
・・・今の俺ならば、この身体ならば、由良と共に歩いていくことが出来るのだ。
だって彼女は自分を好きだと言ってくれた。大好きだと言ってくれたのだ。
だから大切に扱えば、きっと応えてくれる。
必ず自分と一緒に生きていくことを望んでくれる。
ただ、優しくしてやれば、それで。それだけで。
彼女が成長するのを待ちながら一緒に生きていけばいいのだ。そして今の自分にはそれが出来る。
そう思っただけで心が浮き立っていた。こんな高揚感ははじめてだと思った。
今度会うにはどこへ行けばいいのか、頭の中で知っている大会の会場をいくつも思い浮かべる。後で、大会本部へ行って彼女の学校が参加予定の大会を調べてみよう。強い高校は毎週のように試合をする。大会には極力参加し、練習試合もいくつも組むからだ。知り合いにも聞いてみればわかるかもしれない。今日戦った相手高校の中に彼女の高校の男子はいなかっただろうか?ああ、もっと知り合いを増やして置けばよかった。己の無愛想さが恨めしい。最悪わからなければ彼女の高校の武道館まで行ってしまおうか。ストーカーと思われてしまうかな。ぐるぐると考えを巡らせながら、館内放送に気がついた。
真己は女子の決勝がはじまったことに気が付き、慌てて客席へと走り出した。
今度はきっと、仲良くやれますように。