気がついたら財閥夫人だったけど、なんかおかしい。
河合侑李は窓ガラスを叩く雨音で目を覚ました。
「…………?」
キョロキョロと周囲を見渡し、夜の窓に映る自分を見返す。
「名前は同じだけど、違う」
私はただの会社員だったはず。
だが、今ここに立っている自分は河合コンツェルン、いわゆる財閥のトップに君臨する男、河合祐介の妻である。
しかもお飾りの。
侑李は覚えている限りのことを冷静に思い返した。
(この部屋には眠るために入ったはず……)
大きなベッド、片方だけ使われた形跡がある。
夫婦の寝室である豪奢なベッドルーム。
『夫』がこの部屋で休んだことは一度もない。
結婚して半年、一度もだ。
昨晩の侑李は何かの落成パーティに出ていた。
そこで夫に放置され、帰り際に夫を探した。
会場の中心から少し外れた、衝立で仕切られた先に夫がいた。
数人の学生時代の友人と、夫の初恋の人である白瀬舞と一緒に。
そして彼らの話し声は何故かやけに明瞭に聞こえてきた。
「河合祐介、奥さんはどうしたんだよ」
「仕方ないさ、今日は祐介の初恋相手の白瀬舞が帰国してるんだから」
「そうだよな、ずっと白瀬舞一筋だもんなぁ」
「そんな、申し訳ないわ……祐介、奥さんのところに戻って。私なら……我慢、できるから」
「いいんだ。侑李は──わかっているはずだから」
「ははは、お飾りの妻だもんなぁ」
「あら、失礼よ、うふふ」
侑李はいたたまれずその場を離れたが、今度は周囲の囁きまでが何故か明瞭に耳に入ってきた。
「そうよ、あの人が河合コンツェルンのお飾りの妻」
「河合コンツェルンの? あの方は白瀬舞さんにずっと片思いしてるのに惨めなものね」
「妻の座にしがみついているのよ」
「愛されていないのに哀れね」
傷ついて一人で帰宅した侑李はシャワーを浴びたあと寝室で酒を煽ってベッドに潜りこんだ──。
そして今は窓辺に立って考えている。
ゆっくり通知ランプが揺らめく携帯を手にとり、ミンスタグラムを開く。
白瀬舞からのメッセージだ。
《祐介が愛しているのは昔から私だけ。お生憎様、河合侑李》
窓の外は荒れ、台風が近づいてきているようだった。
「いや、なんでいちいちみんなフルネーム呼んでんの」
そもそも侑李が生まれ育った世界に河合財閥など存在しない。
しかも侑李が何故この家の持ち主である祐介と結婚したのか、全く記憶にない。
あるのは不遇な結婚生活、舞からの煽り、周囲からの嘲りの記憶だけだ。
テレビをつけると、ニュースが流れている。
昨夜のパーティの様子、祐介と舞が相思相愛である報道──。
「そんなわけあるかいな……」
侑李がいた日本では深夜にニュースなんかやってなかったし、芸能人でもない個人の恋愛沙汰を放送なんてしていなかった。
しかも祐介と舞の純愛?がやたら賛美されている。
「いや、不貞でしょ、ウケる」
侑李は笑いだし、ベッドに腰掛けた。
この世界の侑李は毎朝心を込めて栄養バランスのいい食事を祐介に作っていた。
家には複数のメイドがいるはずなのに。
しかも侑李の記憶によると、メイドたちからも河合財閥夫人である女主人は軽く扱われていた。
「旦那様は白瀬舞さんのほうが似合っているわ」
「あんなにお似合いの二人なのに妻の座にしがみついているのよ」
「白瀬舞さんが帰国したら、きっとプロポーズするのよ」
こんな調子である。
そんなバカなメイドいる?
しかも侑李は何故か毎日スーパーで日々の買い物をしていた。
財閥夫人なのに。
そもそも財閥なのかコンツェルンなのかハッキリさせて欲しい。
舞も立場で言えば愛人に過ぎないのに、なんであんなに威張ってんの。
そしてそれが当たり前のようにマスコミが美談みたく扱ってんの。
しかも離れてる場所の陰口まで聞こえてくるってなんなの。
その陰口までフルネームいちいち呼ぶってなんなの。
「…………」
ここは日本。
それは間違いない。
この世界の侑李の記憶によると米が不作だったり、世情は日本のままだ。
芸能人の名前なんかも一致している。
侑李の周囲だけがおかしい。
祐介は冷たく、記入済みの離婚届まで渡してきてる始末だ。
じゃあ、そもそもなんで結婚したのさ。
舞も独身で相思相愛ならなんでそっちと結婚しないのか。
(舞はなんか知らんけど留学してたのよね。んで捨てられた祐介が酒浸りになって私とヤケクソで結婚した──)
という記憶はあるが、どこで出会ってどういう経緯だったのかは記憶にない。
うなるほど金がある財閥の主が、初恋相手がただ留学しただけで酒浸りってどういうこと。
追いかけろよ、権力あるんだからさ。
なんで悲恋みたいな扱いになってんの。
不倫でしょ、不倫。
朝になり、侑李は階下に降りてコーヒーを淹れて気を落ち着けることにした。
しばらくすると祐介が降りてきてコーヒーカップしかないテーブルを不機嫌そうに見下ろした。
いたんかい、お前。
なにしにわざわざ帰ってくんの。
舞のとこにいればいいじゃん。
「どこか悪いのか。朝食は」
「私、朝はコーヒーしか飲まないの」
「…………」
その時、祐介の携帯が鳴った。
何故か耳元で話しているかの如く舞の甘ったれた声が聞こえる。
《河合祐介、私台風が怖いの》
《そばにいてほしいの》
《ごめんなさい、わがままなのはわかってる。でも怖いの》
おいおい、二十五歳にもなって台風怖いって正気か。
てか住み込みのはずのメイドなんで起きて来ないんだよ。
「…………」
「出かけてくる」
「あっそ」
祐介は少し驚いたように侑李を見たが、構わずコーヒーのおかわりを注ぐ。
財閥だけあってコーヒーは美味しい。
寝室の金庫に好きに使えと言われた多額の現金がある。
離婚届もある。
ならば、やることは決まっている。
侑李は結婚指輪を指から抜き、シンクの三角コーナーに放り込んだ。
てか財閥の家に三角コーナー。
庶民かよ。
大理石のアイランドキッチンに三角コーナー!
河合侑李もびっくりよ。
金庫の現金は頂いていく。
好きに使えって言ったんだから、慰謝料代わりで良いでしょ。
役所に行き、離婚届を出す前に自分の戸籍を取ってみた。
(親の欄が空白! なんなのほんと)
ちなみに離婚届は受理された。
親が存在しないらしいので、離婚後も河合のままで職員も当たり前のように処理している。
普通大問題なんじゃないの、これ。
しかも職員の囁きよ。
《河合コンツェルンの妻が離婚届を》
《やっと出ていく気になったのね》
《やっぱり河合祐介さんは白瀬舞さんを選ぶのよ》
《お似合いだもの》
なんでお前らがそれ知ってんの。
てか個人情報ぞ。
まあいいや、もう他人だ。
役所を出ると執事の瀬川が立っていた。
「奥さま──」
執事がいて名が瀬川なのは記憶にあるが、どっからわいてきたんだろう。
「もう他人だから、関わらないで」
そう言い捨てて侑李は銀行に行って多額の現金を自分の口座にぶち込んだ。
もちろん、いつものアレはある。
《離婚に慰謝料要求したなんて》
《愛し合う二人を引き裂いておいて図々しい》
《河合コンツェルンには微々たる金額よ》
《やっと白瀬舞さんと結婚するのね》
引き裂いた覚えはないのだが。
まあ、金庫にあった数億はゲットした。
なんでこの時代に数億も金庫に入れてあったのかは理解できないけども。
電子マネーがあるというのに。
「あ、クレカ」
侑李はコンビニでハサミを買い、祐介から貰っていたクレカを切り刻んだ。
思った通り瀬川はまだ役所の前に佇んでいたので、役所においてある封筒にクレカの残骸を入れ、手渡した。
「テーブルにでも置いておいて」
「奥さま──」
なに、瀬川は定型文しか言わないんか?
まあいいけど。
「じゃあね」
侑李は足取りも軽く電車に乗り込んだ。
《見て、河合コンツェルンの元妻よ》
《捨てられたなんていい気味ね》
《白瀬舞さんを虐げた罰ね》
《これでやっとあの二人は結ばれるのね》
電車の乗客、なんで離婚したの知ってんの。
情報教育どうなってんの。
携帯にメッセージ。
《祐介は今日は泊まっていくって。残念だったわね、こんな日にまで放置されて》
ん?
あ、今日誕生日なのか、河合侑李。
ということはわざと呼び出したんか。
虐げられてたの、私の方だよね。
《河合祐介さんは白瀬舞さんと一緒に過ごすてるしうyい》
《いい気味ね。誕生日に放置sr》
《こrで二人はむsyばr……》
都内を出た瞬間、周囲の様子がおかしくなった。
いや、普通になった。
侑李は車窓に映る自分を眺め、服装が違うことに気がついた。
いつもの見慣れた風景、着慣れたスーツ。
(あれ、通勤途中じゃん私……)
カバンを探っても通帳はない。
何度探してもない。
(金は欲しかった……)
代わりに見つけたのは社員証。
河合侑李、とある。
生まれてからずっとこの名前だから当たり前だが。
侑李は会社に入る前に実家に電話をした。
母が出た。
《侑李、外泊するならひとこと言ってよ、夕飯が無駄になったでしょうが》
「外泊……あ、なんかごめん。今日は帰るから」
《全く、連絡くらいしなさいよ》
通話が終わり、侑李は会社が入っているビルを見上げた。
昨日、自分はどこにいたんだろう。
「ま、いいか。今日は会社の人フルネームで呼んじゃおうかな」
侑李は社員証を首にかけ、歩き出した。




