温もり伝わる静かな家
お久しぶりな短編です。
足し算よりも引き算を意識して書きました。
物心ついたばかりの頃、私は姉を姉だと認識することができなかった。家族に覚える親しみから乖離した“それ”を、芽生えたばかりの自我に深く刻まれた。
生まれた時からきっと、わたしは手遅れだったのだろう。
家の中の空気は、季節よりも姉の機嫌で変化する。
この家に住み始めてから十七年、わたしーー陽菜は、その事実を誰よりもよく知っている。
姉の深月は、温度の低い人だ。
淡々としていて、必要以上に感情を動かさない。
けれど、家のどこにいても彼女の存在が分かる。気配が、空気をひっそりと整えるのだ。
今日も帰宅すると、リビングには深月が座っていた。
学校の制服のまま、本を読んでいる。髪を束ねた横顔は隙がなく、けれどどこか柔らかい。
「おかえり」
視線を上げずに、彼女はそう言った。
それがわたしたちの日常だった。
「ただいま」
わたしは鞄を置きながら隣に座った。
この距離を、深月は決して嫌がらない。
「今日、遅かったね」
「委員会。ちょっとだけ書類が残ってて」
「そう。……無理してないならいいけれど」
深月はそう言って、本を閉じた。わたしの顔を見る。
そのまなざしの静かさに、昔から微かに体温が上がる。
「陽菜、疲れてる?」
「ううん。いつも通り」
「なら、いい」
深月の手が、そっとわたしの髪に触れた。
指先がほんの少し動き、撫でるようにして離れる。その仕草にいつも胸がざわつく。
そんな些細なことで爆ぜそうになる欲情は、家族に向けて良いものではない。
深月は、生まれたときからわたしを守るように接してくれた。
優しいけれど、特別甘やかすわけではない。
必要最低限の行動がいつも正確で、それがむしろ安心感をくれた。
ただし、彼女が唯一揺らぐ瞬間がある。
「陽菜、またお菓子食べてたでしょう」
「え、なんで分かるの」
「口元に欠片がついてる」
灯はため息をついて、わたしの頬に指を伸ばして拭った。
くすぐったい。
でも、それよりも――近い。
「食べすぎると夕飯食べられなくなるでしょ」
「たまにならいいじゃん」
「駄目」
そっけない声のくせに、わたしの頬を触る手つきは驚くほどやさしい。
彼女はこういう矛盾をよく抱えていて、わたしはそれが好きだった。
深月がわたしを見る時に時々見せる獰猛な目は、他の誰にも向けないものだ。
それに気づいたのは、最近のことだった。
――深月はわたしを特別扱いしている。
家族だから、で説明できない程度に。
たとえば、わたしが部屋に入ると、深月はわずかに表情を緩める。
わたしが誰かに話しかけられていると、深月はほんの少しだけ眉を寄せる。
わたしが誰かを褒めると、彼女は静かに目をそらす。
そんな微かな反応ひとつひとつを、わたしは拾えるようになってきた。
「ねえ、深月」
「なに」
「わたしのこと、過保護じゃない?」
「そう?」
「そうだよ。友達にも言われた」
「不愉快ね」
「なんで?」
「部外者は私たちに構わなくて良いのに」
即答だった。
わたしは言葉を失った。
「いけない?」
「……いけなくはないけど」
むしろ嬉しいと感じてしまう自分がいて、もっと困る。
「あなたは、私だけ見ていれば良いの」
深月はそう言って、わたしの髪をまた撫でた。
その指先に、わたしは逆らえない。
ある日、深月がわたしの部屋に入ってきた。ノックはしない。
幼い頃からずっとそうだし、わたしも気にしていない。
「深月、ちょっといい?」
「どうしたの?」
「これ」
深月は紙袋を差し出した。
開けると、新しいヘアピンが入っていた。
「かわいい……」
「陽菜に似合うと思って。買った」
「ありがとう。でも、どうして急に?」
「つけてみてちょうだい」
深月はそう言って、椅子に座るよう指示した。
わたしが腰を下ろすと、彼女は自然な動作でわたしの髪を耳の後ろに流し、ヘアピンを留めた。
彼女の指が触れた部分が、熱い。
「うん、かわいい」
深月は満足そうに言った。
わたしの頬を指でなぞりながら。
「……あんまりかわいいって言わないで」
「どうして?」
「勘違いするから」
「構わないわ」
その言葉の意味を、深月は理解して言っているのだろうか。
わたしは胸の奥で答えが膨らんでいくのを感じていた。
その夜、寝る前に深月がわたしの部屋に来た。
「陽菜、まだ起きてる?」
「起きてるよ」
深月は迷いなくわたしのベッドの横に座り、しばらく何も言わなかった。
静かな呼吸が聞こえる距離で、ただわたしを見ていた。
「……どうしたの?」
先に耐えられなくなったのはわたしのほうだった。
「あなたの顔を見たかっただけ」
「それだけ?」
「それだけ。……じゃない」
深月は視線をそらした。
珍しい。彼女が言葉に詰まることなんてほとんどない。
「陽菜」
「なに?」
「あなたが好きよ。……あなたが欲しい」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
深月の頬はわずかに赤く、けれどその声は静かで、真剣だった。
「陽菜は?」
「……わたしも好きだよ」
心臓が痛いほど高鳴っていた。
でも、迷いなどなかった。
「姉妹だからとか、関係ないよ」
「そう」
深月は小さく息を吐き、わたしの手を取った。
その手は僅かに震えていた。
「じゃあ、陽菜はこれからもわたしだけ見てくれる?」
「見るよ」
わたしは迷わず答えた。
「わたしも、陽菜だけ。ずっと」
深月はゆっくりとわたしの額に唇を寄せ、軽く触れさせた。
それは触れたか触れないか分からないほどやさしいキスだった。
血が燃える。心臓が沸きそうだった。
けれど、怖くはない。
深月となら、どんな距離でも受け入れられる。
次の日から、深月は一層距離を縮めてきた。
学校ではわざと避けるようにしているくせに、家に帰るとずっとわたしの側にいる。
夕飯を作るときも、勉強するときも、ソファに座るときも。
「陽菜、手」
「また?」
「触りたいの」
彼女はそう言って、わたしの手をそっと握る。
それは恋人同士のようで、わたしは毎回胸が熱くなる。
「陽菜は、私以外の人と仲良くしないでね」
「しないよ」
「本当に?」
「あなたが好きだから」
その言葉を聞いて、深月はわたしの肩にもたれかかった。
体重を預けるような甘え方は、姉らしくなくて、でもとてもかわいい。
「陽菜も、もっと甘えていい」
「甘えてるよ、充分」
「足りないわ。もっと欲しい」
深月はわたしの首に軽く腕を回し、顔を寄せてきた。
頬が触れ合う距離。
心臓がまた早くなる。
「陽菜の全部、私にちょうだい」
「……うん」
その答えは、本当の気持ちだった。
夜、ベッドに入ると、深月がそっと隣に潜り込んでくる。
「ねえ、陽菜。隣で寝ていい?」
「当たり前でしょ。いつものことだよ」
「そうだけど……今日は違う」
深月は布団の中で、わたしの手を握った。
「ひな……。あなたが可愛くて狂いそうよ」
深月の甘い声に全身の肌が泡立つ。
胸の奥が温かく、切なく、でも幸せだった。
「……わたしも、深月が好きで狂いそう」
「なら、いい」
深月はわたしの頬にキスを落とし、静かな声で言った。
「陽菜は、私の世界だから」
「わたしもそう。深月が世界の中心だよ」
そのまま深月はわたしに抱きつき、眠るように目を閉じた。
彼女の体温が、わたしの胸の奥まで浸透する。
縋りつかれ、撫でられ、捻られ、擦られ、吐息が交叉し、強い痺れからの弛緩。その夜は初めての夢を見た。
この家の空気は、今日も深月によって支配されていく。
呼吸の音が重なり、二人の世界だけが静かに続いていく。
枠を越えても変わらない。
深月となら、わたしは今日も生きていられる気がした。
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