虎沢家訪問 ③
「うふふ、懐かしいわね。若い頃の私とパパも、そんな感じだったわ。匂いを嗅がせてもらうために密着してこれを押し当てると、パパってば毎回照れて今みたいに真っ赤になっていたのよ。思い出して、照れちゃった?」
「……」
自分の胸を持ち上げて懐かしむ妃奈さんに尋ねられ、真っ赤になっていた龍泉さんは黙って顔を逸らす。
えっ、じゃあ顔が赤くなっていたのは怒っているからじゃなくて、若い頃のことを思い出して照れていただけ?
そういう視点で見ると、怖さが幾分かマシに見えてきた。
「……兎川君」
「は、はいっ!」
龍泉さんに迫力のある口調で呼ばれ、つい背筋を伸ばしながら返事をする。
なんだ、何を言われるんだ。
「本当に……詩織の嗅覚を、匂いに対する行動を、変に思っていないかね……」
「思っていません!」
「なら、良い……。詩織を、よろしく頼む……」
良かった、怒っているわけじゃなかった。
ただ、結婚の挨拶に来た相手へ向けて言うようなことを言われたのが気になる。
これってただの顔見せだよな? そうだよな?
「やったね、ゆーき君。パパも認めてくれたし、安心して付き合って結婚できるね」
だから、そういう目的で来たんじゃないだろう。
でも認めてもらえたってことは、関係を深めても問題無いのか?
詩織の影響か、最近その辺りの考えが緩くなってきた気がする。
「うふふ。良かったわ、詩織の鼻に適った相手がこんなに良い人で。末永く幸せにね」
「はーい」
妃奈さんまで……。詩織も、「はーい」じゃないだろう。
「申し訳ありません、兎川さん。実感している通り、うちの家族は少々独特なので色々と苦労するかもしれませんが、どうかご勘弁ください」
「ああ、うん、分かった」
なんだか一番年下の寿梨亜ちゃんが、この中で一番しっかりしている気がする。
こういった家族に囲まれているから、自分がしっかりしなくちゃと思っているのかな。
とりあえず龍泉さんが緊張しなくなるまでは、虎沢家では寿梨亜ちゃんが一番頼りになると思っておこう。
「そういえばママ、寿梨亜。ゆーき君の匂いはどんな感じー?」
そうだ、詩織にとって俺は良い匂いでも、妃奈さんと寿梨亜ちゃんにとっては不快な匂いになるんだった。
でも入学式で大島から聞いた話だと、親族の男の匂いは不思議と少し不快感を覚える程度なんだよな。
だからといって、本人達から感想を聞くまでは安心できないか。
「あら? 言われてみれば……変ねぇ、パパの良い匂いしかしないわ」
「本当だ。パパの少し嫌な臭いしかしない」
鼻をスンスンいわせながら妃奈さんと寿梨亜ちゃんが周囲の匂いを嗅ぐが、嫌な表情を浮かべることは無く、不快感を隠すような素振りも見られない。
むしろ龍泉さんの方が、寿梨亜ちゃんの発言にショックを受けている。
妻の嗅覚には適合しても、娘の嗅覚には適合しない。
ゆえに娘から嫌な臭い扱いされるのは当然だが、そうだと分かっていてもショックには変わりなく、龍泉さんは俯いてしまった。
「お姉ちゃん、ちょっと兎川さんの匂いを近くで嗅いでいい?」
「私もお願いするわ」
「いーよー」
なんで俺じゃなくて詩織から許可を取るんだ。
なんで俺には許可を取らず、席を立って身を乗り出して匂いを嗅ぐんだ。
なんで龍泉さんは、妃奈さんと寿梨亜ちゃんに何も言わずだんまりなんだ。
これが虎沢家では当たり前なのか、それとも龍泉さんが強そうに見えるだけで、立場的にはとても弱いのか。
あと、さりげなく詩織がいつものように密着して、胸を押し付けて甘い香りを漂わせながら匂いを嗅ぎ、だらとろ笑顔を浮かべている。
「どうして詩織も嗅いでいるんだ」
「にゅへへへへへへー。今日の分を嗅いでなかったからー」
ああそうだな、そういえば今日はまだ嗅がれていなかったな。
「はあ……」
龍泉さん、虎沢家女性陣が一人の少年に群がって匂いを嗅いでいるこの状況です、溜め息を吐いていないでなんとか言ってください。
あっ、身を乗り出していた妃奈さんと寿梨亜ちゃんが、やっと離れてくれた。
妃奈さんは驚きの表情を浮かべ、寿梨亜ちゃんは不思議そうに首を何度も傾げている。
なにその反応、俺の匂いをどう思ったわけ?
「……お姉ちゃん、兎川さんってどうなっているの? これまで男の人からしていた嫌な匂いがしないよ」
「えーっ⁉ それってまさか、寿梨亜ちゃんもゆーき君から良い匂いがするのー⁉」
ちょっと待て、だとしたら姉妹揃って俺が特定の相手なのか?
「違うって。私とかお姉ちゃんとかお母さんが分かる類の匂いが、兎川さんからは一切しないの。良い匂いも嫌な匂いも皆無、消臭剤も驚きの無臭なの」
「んー? なんでー?」
「私が聞きたいんだけど」
首を傾げる詩織に寿梨亜ちゃんが呆れた目を向ける。
普通は無臭だとそう変には思わないけど、特殊な嗅覚で分かる匂いが当たり前だからこそ、無臭が変に感じるのかな。
なんにせよ、姉妹揃って相手というわけじゃなくてホッとした。
「なんてことなの……。詩織ちゃん、よく聞きなさい。あなたの鼻に適った兎川君だけど、今後彼を巡って茨……いえ修羅の道が待っているかもしれないわ」
「ほえー?」
急に妃奈さんがシリアスチックな表情で、バトル漫画の台詞っぽいことを言いだした。
ここまでにそんな要素は皆無なのに、どうしてそんなことを言いだすのだろうか。
「知っての通りうちの家系の女性達は、結婚して姓が変化はしても特殊な嗅覚だけは受け継いできたわ」
これまたバトル漫画の台詞みたいなことを言っているが、あくまで嗅覚の話だ。
「だけどそんな嗅覚で見つけたお相手の中には、兎川君みたいに親族の女性が匂いを嗅いでも無臭だという人が数名いたそうよ。そしてその無臭な相手には必ず、恋敵となる女性がいるのよ! 最低でも一人、多い人は十人近く!」
……何それ。大事だからもう一度、何それ。
「えぇー⁉ だけどゆーき君、彼女いないんだよねー?」
「……ああ。過去にいたことすら無い」
悲しいが事実だ。
「今や過去はいなくとも、これからそういう相手が出てくるのよ。いえ、兎川君が気づいていないだけで、狙っている相手はいるのかもしれないわね」
「そうなのー? ゆーき君、思い当たる相手はいるー?」
「いないとは思うけど、俺が気づいていないんじゃ分からないって」
「それもそっかー」
でも本当、そういう相手にはとんと心当たりが無い。
異性の知り合いや友人はいるにはいるが、まさかその中に?
……駄目だ、どれだけ思い返しても、そんな素振りを見せていた相手が浮かばない。
絶対にいるってわけでもないみたいだし、考えすぎかな。
「そういうわけで詩織、どんな相手が何人こようと、その人達に兎川君を奪われないよう頑張るのよ」
真剣な表情で告げる妃奈さんに対し、詩織は俺に密着したまま「んー」と考えるような声を漏らす。
というか、複数いるのは確定しているのか?
俺が複数の異性に言い寄られる光景なんて、全く想像できないぞ。
今までの人生でそんな状況とは無縁だったし、彼女が欲しいとは思っても複数人からモテたいと思ったことはほとんど無いから、どうもピンとこない。
「ねー、ママに一つ聞きたいんだけどいいかなー?」
「何かしら」
「その人達とゆーき君を共有するのって、ありかなー?」
詩織は唐突に何を言いだすんだ。
「共有……。つまり、いずれ現れる恋敵と戦うことはせず、共存の道を探りたいってことね」
「そうだよー」
いやいや、数少ない趣味のラノベや漫画にある、男女比の割合がおかしくなっていて女性の数が圧倒的に多い世界じゃないんだから。
そういうのは創作の中だからこそ成立する関係であって、認められるはずが――。
「その発想は無かったわ。相手の理解を得る必要はあるけど、平和的に解決できるのならそれにこしたことはないものね」
理解を示した⁉ 妃奈さん、本当にそれでいいの?
普通こういう時、何を考えているんだって諌めるものじゃないのか?
「でしょー。ママが言うように、ゆーき君のことが好きな人が集まってくるなら、恋敵として戦うよりも共有した方が平和で楽しいと思うよー。結婚式は無理だろうけど、衣装を着て写真を撮るくらいはできるし、それが私達の結婚の形だと思えば問題ないしねー」
人間関係の構築さえ上手くいけば、ドロドロの愛憎劇よりずっと平和的なのは認める。
結婚前提でのお付き合いっていう、当初の発言を覆すようなことを提案する以上は、相応の決意があるのも伺える。
でもそれって、実現したらしたで色々と大変だと思うぞ。
「なるほどね。詩織が構わないなら、私に文句は無いわ」
遂に妃奈さんが肯定しちゃったよ! そこは母親として、娘を説得してくれ!
いいのか? 娘の相手になるかもしれない男に、複数の女性の影があってもいいのか?
「やったね、ゆーき君。これで他の人から好きって言われても、なんとかなるねー」
なんとかなるのか? 本当になんとかなるのか?
そもそも俺にはハーレム願望なんて……全く無いとは言わないが、一夫一妻制の日本で生まれ育った身としては相手が複数いる状況は、あくまで想像の中の話としか認識しておらず、実現しようなんてこれっぽっちも考えたことは無い。
ここはしっかりと、自分の意思を示さないと。
「あの、俺は複数の相手と付き合うなんて考えていないから、遠慮したいんだけど……」
さすがに俺の意思に反することなら、そうそう強くは出まい。
そう思っていた俺の考えは、甘いというよりも浅かったのだと、直後に思い知る。
「つまり、私としか付き合いたくないってことだねー。ありがとー、ゆーき君、嬉しいよー」
今の発言をそう受け取るか⁉
目を輝かせた詩織がより密着してきたのはともかく、腕を回した首が、首が決まっているから!
タップ、タップ! 離せ、息が、落ちる、意識落ちる!
「お姉ちゃん、兎川さんが苦しそうだよ」
「へっ? あー、ごめんねー。嬉しくてついー」
寿梨亜ちゃんの指摘のお陰で、詩織が腕を解いてくれた。
ありがとう寿梨亜ちゃん、お陰で助かったよ。
呼吸を整えながら目配せをすると、無表情でグッとサムズアップされた。
「あらまあ、これでハーレムを喜ぶことはせずにそんなことを言うなんて、兎川君は真面目で誠実な人なのね」
いや、至って普通の考えだと思うんですが。
「そんなあなたには、この兎川君が書くべき箇所以外は全部埋まった詩織との婚姻届けをあげるわね」
やめて、そんなとんでもない物をさも当然のように、目の前にスッと差し出さないで。
そもそも、どうしてそんな物を予め用意しているのか、小一時間ほどかけて問い詰めたいんですが?
「ママ、まだちゃんと付き合っている訳でもないのに、それは早いよー」
「あらそう? ならこれは厳重に保管しておくわね」
詩織のフォローのお陰で婚姻届けは引っ込めてくれたけど、厳重に保管しなくていいですから。
使う機会があった時に備えているんですか? そうなんですね!
まあなんにせよ、これで一息つけるかな。
「それにゆーき君を好きな人達とゆーき君を共有することになったら、それは無用だよー。私だけ抜け駆けして婚姻関係になったら、共有にはならないからねー」
一息つけなかった⁉
確かにそれが実現したら、そんな物は争いの種にしかならないから無用だろうけど、たった今否定したよな、俺。
「それもそうね。じゃあ共有が決定したら、残念だけど処分しましょう」
決定しなくとも、処分していただいて構いません。
「ただね、ゆーき君。気持ちは嬉しいけど、ゆーき君を好きな人と争うようなことは嫌だから、共有する話を進める前提でいてねー」
俺の意見はスルーか⁉
ああもう、今日だけで一体何回心の中でツッコミを入れたんだよ。
なんでこうなる、なんでこうなった、何がどうなったらこうなるんだ。
「詩織は本当に、それでいいのかよ……」
「いいって、いいってー。負けるかもしれないリスクを背負って争うよりも、勝ちではなくとも引き分けにはなる共有で、何日かに一回独占する方が平和的で安全だし、楽しそうだからねー」
たった一枠を争って奪われるリスクを背負うよりも、たまに独占できるよう調整して共有する安全策を取るってことか。
考えは分からなくはないが、楽しいかどうかは相手次第だから未知数だ。
「そーゆーわけだから、ゆーき君を巡って女の戦いをするようなことはしないから、安心していいよー」
別の意味で安心できない!
これ以上反論しても詩織の様子からして暖簾に腕押しだろうし、妃奈さんは既に肯定済みで今は乗り気になっている。
その二人が、そういえばお茶も何も出していなかったと台所へ向かったタイミングで、なんとか助けてもらおうと期待を込めて寿梨亜ちゃんと龍泉さんへ視線を送る。
頼みます、どちらでもいいので、なんとかしてください!
「申し訳ありませんが、こうなった姉と母は止められません。兎川さん、ファイトです」
視線を送った寿梨亜ちゃんから、無慈悲な宣告と応援とサムズアップが送られた。
こうなったら頼りは龍泉さんだけど……。
「兎川君……強く、生きろ……」
緊張で怖いままの表情をした龍泉さんから、まったくありがたくない励ましを受けた。
この人、凄みがあるのは緊張した時の見た目と喋り方だけかよ!
思いっきり女性陣の尻に敷かれているじゃないか!
孤立無援、四面楚歌、絶体絶命……は違うか。
とにかく逃げ道を失って、本当に妃奈さんの言う通り俺を好きな相手というのが現れたら、詩織が提案した共有の道へ進むのだろう。
こうなったら残る希望は、妃奈さんの言うような相手が現れないことを願うだけ。
頼む、そんな相手よ、現れないでくれ。
「遅れてごめんなさいね。はい、粗茶ですが」
「ゆーき君、これもどうぞー。近所に昔からあるお店のお煎餅、美味しいよー」
「ああ、どうも……」
目の前に置かれた日本茶と煎餅にお礼を言い、詩織と妃奈さんから促され手を付ける。
粗茶と言う割には美味いし、煎餅も本当に美味い。
できればこのまま、平穏無事に時が過ぎていってほしい。
そう願いつつ、隣の詩織に密着されながら虎沢家の人達と会話を交わし、昔の詩織の写真を見せてあげると言いだした詩織と妃奈さんが龍泉さんを連れ、アルバムを取りに席を外すと寿梨亜ちゃんがこっちへ身を乗り出してきた。
「兎川さん、未来の義妹として一言よろしいですか?」
ああ、寿梨亜ちゃんの中で俺はもう義兄確定なのか。
「もしもお姉ちゃんを泣かせたら、お姉ちゃんの友人の藤井さん……否、団長へ連絡するのであしからず」
えっ? 今、藤井を団長って呼んだ?
まさか寿梨亜ちゃんも、【詩織守護女子団】に関わっているのか⁉
「……ふっ」
ずっと無表情だったのが初めて笑顔になったけど、そんな「分かったな」みたいな感じの笑みを向けられるとは思わなかったよ!
【詩織守護女子団】、一体どこまで勢力を拡大するつもりなんだ。




