虎沢家訪問 ①
高校へ入学して早数日。
少しは新生活にも慣れ始め、同じ中学だった大河達以外にも友人が何人かでき、悪くないスタートを切れたと思っている。
ただし、詩織とのやり取りに関しては未だに慣れない。
「にゅへへへへへへー。一晩ぶりのゆーき君のこの匂い、たまりませんなー。何度嗅いでも頭が蕩けるようで、まったく飽きがこないよー。クンカクンカ、スーハースーハー」
今日も今日とて登校し、教室へ着くやいなや抱き着いてきた詩織が胸元に顔を寄せ、ものすごい勢いで俺の匂いを嗅ぐ。
抱きつく前のふわっとして緩い笑みは、匂いを嗅いだ途端にだらしのない蕩けた笑みへと変わり、口の端からは涎が垂れそうになっている。
入学式翌日から毎朝これをやっているし、そのうちクラスの名物になるんじゃないだろうか。
いや、既になりつつあるかもしれない。
「だらとろ笑顔の虎沢さん、いただきました」
「ふわゆる笑顔派の私としては、早く戻ってもらいたいわ」
「ううむ、だらとろ笑顔派であるべきか、ふわゆる笑顔派であるべきか、それが問題だ」
「俺は不動のふわゆる笑顔派だ」
クラスメイト達が話しているのは、詩織の笑顔について。
ふわっとして緩そうな雰囲気そのままの笑み、略してふわゆる笑顔。
今浮かべているだらしのない蕩けた笑み、略してだらとろ笑顔。
この二つの笑みのどちらがいいかという、どうでもいい派閥争いがクラス内だけに留まらず、とびっきりとは言えなくとも美少女には違いない詩織の話題ということもあり、男女問わず学年内にまで広がっているんだとか。
これを大河と猿川から聞いた時は、この学年は大丈夫かと思ったものだ。
なお、その二人はふわゆる笑顔派なんだとか。
「そろそろ離れてもらっていいか?」
「だめー。あと二時間はこのままでー」
「長い! ほら、そのままでいいから歩け」
匂いを嗅ぐために密着したままの詩織と共に歩き、自分の席へ座って一息つく。
最近は毎朝こんな感じだ。
席に着いても授業が始まるまではずっと腕を組んだ密着状態で匂いを嗅がれ、いざ授業が始まっても、周囲へ漂う俺の匂いを嗅ぐためとか言って、隣の席から詩織の荒い鼻呼吸が聞こえる。
だけどこれはまだマシな方だということを、最初の体育の授業直後に思い知らされた。
清鳴高校は体育祭の練習を除き、体育は男女別になっている。
だから授業中は問題無いかったんだけど、問題はその後だった。
『わーいー。一時間ぶりのゆーき君の匂い――ぐほあぁっ⁉』
『『『虎沢さーん⁉』』』
体育の授業を終えて体操着から制服へ着替えて教室で待機していると、着替えを終えて戻って来た詩織が匂いを嗅いだ瞬間、大きなダメージを受けて吐血したようなリアクションで崩れ落ちた。
後から来た女子達が慌てた様子で駆け寄り、男子達も何事かと焦り、俺も足元へ崩れ落ちた詩織へ声を掛けようとした時だった。
『にゃにぃ、これぇー。ゆーき君の匂いに汗の匂いが加わることで、奇跡のマリアージュを生み出して、新たな魅惑の匂いになって私の脳を侵食して堕落させようとしているよー』
今まで以上にだらしのない蕩けた恍惚の笑みを浮かべ、口の端から涎を垂らしそうになりながら目を潤ませる詩織の発言に、一瞬意味が分からなくて思考停止した。
マリアージュって、ワインじゃないんだからって思うのが精一杯だった。
しかもその状態から復活した際に、他の人の汗の匂いじゃ駄目で、俺自身の匂いと俺の汗の匂いによる組み合わせだからいいんだと、よく分からない主張をされた。
本当、こうして振り返ってみてもなんかよく分からない状況だよ。
そんな中でも確実に言えるのは――。
「にゅへへへへへへー。今日も体育があるから、ゆーき君の汗の匂いを嗅げるんだねー」
例え汗の匂いを楽しみにしていると言っていても、だらとろ笑顔だろうとふわゆる笑顔だろうと詩織は可愛くて、漂ってくる香りは甘く、押し付けられている胸はとても柔らかいということだ。
辛うじてコロッといかずに済んではいるが、チョロい俺がいつまで耐えられるだろう。
うん? ここまで何日も耐えて来たんだから、そこまでチョロくない?
それとも連日頑張って耐えてきたお陰で、精神的に鍛えられたのか。
なんにしても、悪いことではないからいいか。
「そうだ、ゆーき君。今度の土曜は空いてるかなー?」
「土曜? 空いているぞ」
「じゃー、うちに招待するよー。ママが私の鼻に適ったゆーき君に会いたいんだってー」
まさかのお呼ばれに、周囲がざわついた。
おい誰だ、両親へ結婚の挨拶とか言った奴は。
「あと、パパもゆーき君に会いたいってー」
母親の方はともかく、父親の方から会いたいって言われると何故か怖い。
お前に娘は、なんて無言の圧力を掛けてきそう――って、そういう挨拶へ行くんじゃないだって。
だけど詩織の家って、鼻に適った相手と一緒になれば幸せになれる云々って話があったはずだから、何か勘違いをしてそういう相手と捉えている可能性もある。
いやいや落ち着け、仮に何か思い違いをしているんだとしても、俺がしっかり訂正すれば済む話なんだから。
「そ、そうか。ご両親が俺に会いたがっているのか」
「うんー。そういえばパパから、ゆーき君に伝言を頼まれたんだー」
な、なんだろう。なんか恐怖心が湧き出てくる気分だ。
「えっとねー。黙って面を見せに来い、だってー」
こえぇぇぇぇぇぇっ!
顔じゃなくて面って言っているあたりが怖い!
しかも黙ってだなんて、反論は許さないって雰囲気が既に現れているよ!
「悠希、頑張れ」
「三日連絡が取れなければ、骨を拾いに行ってやるからな」
大河も猿川も、縁起でもないことを言わないでくれ!
特に猿川、三日連絡が取れなければってところが妙にリアルだからやめろ!
「安心してー。パパもママも妹も優しいから、大丈夫だよー」
付き合っていないとはいえ女子の親から面を見せに来いと言われて、安心できる男子がいるだろうか。
って、詩織には妹がいるのか。
今まで話に出たことがなかったから、知らなかった。
「なんならそのまま、結婚の挨拶しちゃうー?」
さり気なくとんでもない提案するな!
そもそも、年齢的に無理だから!
あと周りの連中、やっぱり結婚の挨拶だ、とか言うな。
おい、大河! 猿川! 他のクラスにまで広めに行こうとするんじゃない!
こうした騒がしい学校生活において、数少ない安らぎの時は男女別の体育の時間。
更衣室で体操着に着替えながら、大河と猿川と会話をする。
「女子の家へお邪魔して両親へ挨拶なんて羨ましいぞ、悠希」
「ちゃんと娘さんをくださいって、はっきり言うんだぞ」
「お前ら、いい加減にしないとしばくぞ」
ワイシャツとインナーを脱ぎ、上半身裸になって二人を睨む。
「よしてくれよ。筋肉バッキバキの悠希にしばかれるなんて、たまったもんじゃねぇよ」
苦笑する大河の視線が俺の首から下へ向く。
視線は大河からだけでなく、更衣室内にいる他の男子達からも向けられている。
理由はさっき大河が口にした、筋肉バッキバキに鍛えられた俺の体。
さすがにボディビルダーやプロのスポーツ選手には劣るが、少なくともこのクラスの中では一番筋肉が目立っていて、初めての体育でこの体を見た運動部員達が、負けたと呟いて崩れ落ちていた。
「だったら変なこと言うなよ」
「悪い悪い。しっかし、服を着ている時は普通の体つきに見えるから、着替えの時か半袖の時期にならないと分からないよな、その筋肉」
「厚みと太さが目立つゴリマッチョとは違って、引き締まった細マッチョタイプだからだな。くっ、何度見ても引き締まった筋肉と割れた腹筋に敗北感を覚えるぜ」
適当な感じで謝る大河に続き、筋肉について語った猿川が悔しそうにする。
猿川は柔道部に所属していて、体つきはしっかりしている。
ただ筋肉の付き具合は俺に劣っており、それが悔しいのだとか。
「兎川は確か、ボルダリングやっているんだっけ?」
「ああ、五歳くらいからな」
別のクラスメイトの質問に答え、上の体操着を着る。
プロや一流選手を目指せとまでは言わないが、何かしらのスポーツをやって心身を鍛え、コーチや指導者といった目上の人との接し方を学べ。
そういった両親の教育方針もあり、子供の頃からスポーツをやることになって、色々な体験会に参加してハマったのがボルダリング。
今では完全休養日にしている土曜日を除き、週二でボルタリングができるジムへ通い、それ以外の日は放課後にそのジムや自宅で筋トレやストレッチや体幹トレーニングをしたり、隔週で一般開放されている近所のスイミングスクールで水泳をしたりしている。
なお、ボルダリングをやっていることは出会った初日にファミレスへ寄った際、趣味についての話で詩織へ伝えてある。
「やっているうちに、もっと上手になりたい、もっと色々なルートで登れるようになりたいと思うようになって、そのために体を鍛えていたらこうなった」
下も体操着に着替えて体つきの理由を告げる。
「だからって、そんなになるのか?」
「なかなか上手く登れない悔しさからムキになって鍛えていたのが、そのまま日常化したからな」
呆れ顔の猿川にそう返し、ロッカーを閉める。
あの時の俺は本当に子供だったよ。
壁を登れないのが悔しくて、登れるようになるため鍛え、やがてその壁を登れたら、今度は別の壁で同じことを繰り返す。
そうしているうちに、今では体を鍛えるのが日常化して、体つきもいつの間にかこんなことになってしまった。
「悠希の家に遊びに行った時、よくストレッチを手伝わされたもんだぜ」
「あと、俺もやるとか言って筋トレや体幹トレーニングに付き合って、あっさりダウンしたこともあったな」
「あったな。根拠も無く自信満々にやれるって言い切った挙句、日頃からやっている悠希と同じことをしようとしてダウンした挙句、翌日に筋肉痛とか」
「あとはストレッチで無茶して、筋を痛めたこともあったぞ」
「それもあったな。いやー、あの時の俺は本当に子供だったわ」
ちょっとした昔話に花を咲かせているうちに大河も着替えを終え、同じく着替えを終えた猿川と共に更衣室を出て校庭へ向かう。
「ところで、虎沢は兎川の体つきのことを知っているのか?」
「あれだけくっ付いているんだし、気づいているんじゃね?」
「でも、そのことに触れられたことは無いぞ。互いに制服を着ているし、気づいていないんじゃないのか?」
というより、匂いを嗅ぐのに夢中で気づいていないと思う。
「人によっては筋肉質なのが苦手って人もいるけど、虎沢はその辺どうなのかね?」
「さあな。そこは同中出身の俺も知らん」
大河と猿川の会話を聞き、仮にそうだとしても匂いは嗅ぎ続けるんだろうなと思う。
でも、密着はされなくなるかもしれないな。
そうしたらあの柔らかい胸の感触とか、甘い香りは嗅げなくなるんだろうか。
って、それは詩織に失礼だろう。
あと、甘い香りが嗅げなくなるのを残念がるって、この一週間足らずで詩織の匂い好きに毒されていないか?
「なあ、悠希はどう思う?」
「分からない。いっそ聞いてみるか」
「おー、思い切りがいいな」
「悠希はこんな奴だよ。分からなくて悩むくらいなら、聞いた方が早いってな」
考えても答えが出ないことを、ウジウジ悩んで先延ばしにするのが嫌なんだよ。
そういうわけで、体育が終わったら聞いてみよう。
ああでも、体育の直後は俺の匂いと汗の匂いのマリアージュとやらを楽しむだろうから、話を聞くどころじゃないだろうな。
今の季節的に汗を掻くのは体育の後ぐらいだし、毎日体育があるわけじゃない。
そんな限られた機会を逃すまいと、詩織は全力で匂いに集中するはず。
だとすると、すぐには聞けないだろうな。
かくして、その予想は的中した。
「にゅへへへへへへー。これこれ、ゆーき君自身の匂いとゆーき君の汗の匂いによって生まれるマリアージュは、やっぱり最高だねー。これを嗅げば体育の後の疲れも吹き飛んで、眠気も覚めるよー」
男女別だった体育を終えて教室へ戻って来た詩織は俺を発見するやいなや、わき目も振らずに俺の下へ歩み寄って来て、周囲の目なんかこれっぽっちも気にすることなく密着し、俺との間に挟まれた豊かな双丘が圧迫されて変形するほど押し付け、体育直後にも関わらずいつもの甘い香りを漂わせ、大きく深呼吸するかのように俺の匂いを嗅ぐと、独特の笑い声を漏らし、直前までふわゆる笑顔だった表情をだらとろ笑顔へと変えた。
ふう、自分へ向けて長々と状況解説したおかげで、甘い香りと柔らかい双丘と二種類の笑みで失いかけていた冷静さを取り戻せた。
「汗の匂いが消える前に、たっぷり堪能しておかないとねー」
そう告げた途端、ものすごい勢いで鼻から空気を吸って口から吐くのを繰り返す。
鼻から吸うのは匂いを嗅ぐためとして、口から吐くのは鼻に残った匂いを僅かでも外へ出さないためだろうか?
聞いてみたら間延びした口調で「せーかいー」と返し、匂いを嗅ぐのを継続。
この匂いに対する執着は、鼻に合う匂いの異性と出会えたから、という理由だけじゃない気がする。
ひょっとすると詩織って、匂いフェチの気があるのか?
……まあ、だからって気にするほどのことでもないよな。
あまり変な趣味に巻き込まれるのなら抵抗、又は反抗させてもらう。
だけど匂いを嗅がれるだけなら、特に気にするほどでもないか。




