9. 魔女の手、妻の手
加筆修正しました。
外の風が壁を鳴らし、油灯の炎がかすかに揺れたそのときだった。
トーシュの身体がぴくりと跳ね、指先から力が抜け落ちる。
胸を抑え、息を詰める。喉の奥から掠れた呻きが洩れた。
「……っ、ぐ……」
それは呪いがもたらす発作。
幾度も経験した痛みのはずなのに、容赦なく身体を引き裂くように襲いかかる。
リディアは立ち上がると、ためらいもなく短剣を抜いた。
白磁のような手首に刃を滑らせると、真紅の血が一筋、鮮やかに滴る。
彼女はその手を迷わずトーシュの口元へと寄せた。
「飲んでください」
冷酷なほど淡々とした声音。けれど、拒絶を許さぬ確信に満ちていた。
トーシュは奥歯を噛みしめ、だが抗う余地はなかった。
熱を帯びた鉄の味が舌に広がり、灼けるような痛みと共に体内へと落ちていく。
魔女の血――それは魔法ではなく、彼女という存在そのものが持つ異質。
人を蝕む呪いすら押しとどめる、毒にも似た逆の効力。
喉を通るたび、焼け付くような熱が体内を駆け巡る。
痙攣は徐々に収まり、呼吸も落ち着きを取り戻していった。
やがてトーシュは、荒い息の合間にかすかな吐息を洩らす。
「……っ……ふ……」
その隣でリディアは膝をつき、汗ばむ彼の額をそっと拭った。
血を流した手首を布で押さえながらも、微笑を浮かべる。
「ほら、大丈夫。私がいるでしょう」
慈悲を装った言葉ではなかった。
だがその声音には、魔女ではなく妻としての確かな温度があった。
トーシュは瞼を伏せ、無言のまま天井を見上げた。
胸の奥に去来するのは、相反する二つの感情。
安堵――確かに救われた。
屈辱――自らではなく、彼女に縋らねばならない。
助けられたことでしか得られぬ安堵と、助けられたがゆえに突き刺さる屈辱。
その矛盾こそが、彼を苛む第二の宿痾だった。
「……大丈夫。私は旦那様の妻ですから」
そう囁くリディアの横顔は、先ほど冷酷に呪いを語った魔女と同じものであるはずなのに――
トーシュには、別人のように見えた。
リディアは短剣を拭い、血を押さえていた布をきつく結び直した。
そのまま立ち上がり、荷から新しい布包みを取り出す。
「包帯を替えましょう」
「自分でできる」
そう言うトーシュの声は、まだ掠れていた。
荒い呼吸が胸を上下させ、額には発作の余韻が玉の汗となって浮かんでいる。
力なく動かそうとした腕を、リディアは制するように取った。
「今は無理をしないでください」
反論を飲み込んだトーシュの沈黙を合図に、彼女は丁寧に包帯を解いていく。
夜気に晒された肌には古い傷痕と新しい痣が交じり、呪いが刻んだ痕跡が痛々しく浮かんでいた。
彼の荒い呼吸に合わせるように、リディアの指先は動いた。布を外すたびに、彼女はわずかに息を潜める。
やがて清めの水を盆に満たすと、布を浸して彼の額や胸元へと運ぶ。
温い水が汗と血を拭い取り、緊張で強張った身体をゆっくりと鎮めていく。
「冷たくないですか」
「……平気だ」
トーシュは短く答え、視線を逸らした。
その仕草は拒絶ではなく、むしろ素直に世話を受け入れている証のようでもあった。
洗い終えると、リディアは新しい包帯を取り、手際よく巻き直していく。
締めすぎず、緩めすぎず。均一な力加減で留められていく布の感触は、不思議な安心を呼んだ。
「はい、終わりましたよ」
リディアは濡れ布を盆に戻し、静かに手を拭う。
その仕草には、看病というより、日常の延長のような落ち着きがあった。
夫が旅の疲れから眠り込んだあとに、自然と世話を焼く妻のように。
その横顔を見た瞬間――トーシュは唇を震わせ、名を呼びかけそうになった。
だが咄嗟に噛み殺す。
(……駄目だ。錯覚する。彼女は魔女で、契約上の妻にすぎない。それ以上にしてはならん)
車椅子の肘掛けを強く握りしめ、視線を逸らした。
代わりに短く咳をして、声を紛らわせる。
トーシュはわずかに目を伏せる。
血を啜らされるのとは違う――これはもっと人間的で、もっと夫婦的な営み。
不思議なことに、屈辱は伴わなかった。
代わりに胸に残ったのは、説明しがたい温度だった。