表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/17

7. 杯の奥の静けさ

 

 宿屋の大広間は、長い卓がいくつも並び、旅人や商人が所狭しと腰を下ろしている。

 皿に盛られた煮込みの匂いが立ちこめ、笑い声と食器の打ち鳴る音が途切れなく響いていた。


 その喧噪の片隅に、トーシュは帽子のつばを深く下げたまま車椅子を寄せ、背を壁につけて座っていた。

 リディアが盆を抱え、煮込みの皿と黒麦のパンを前に並べる。


「どうぞ、旦那様。熱いうちに」

「ああ」

「街での食事も旅の楽しみの一つです」


 応えるリディアの声音は喧噪の中で嬉々として上擦っていた。

 食事に頓着しないトーシュは、彼女の様子に少し困惑しながら目の前に置かれた夕食に目を向ける。


 しかし、周囲の空気はそれを許さない。

 低く押し殺した声が、ざわめきの隙間から耳に届く。


「……あの顔、見たか?」

「片目が潰れてやがる。戦でやられたのか?」

「いや、あんなのは……普通じゃねえ」

「おい、こっちを見るな。縁起が悪い」


 恐れとも嫌悪ともつかない視線が、じわじわと突き刺さる。

 笑い混じりの囁きは、彼を遠ざけるための壁のようでもあった。


 トーシュは匙を持つ手に力を込めた。皿の縁に小さく金属音が響く。


「……妙に居心地が悪いな」

「気にしないことです。旦那様の場合、気にしてもキリがないでしょう?」

「まあな」


 笑み交じりのリディアの返しに、トーシュは気を悪くすることもなく答えて黙々と食事を口に運ぶ。

 舌に広がる肉と豆の塩気は、ただ喉を通すための作業のように思えた。



 そこへ、酒で顔を赤くした男がよろよろと近づいてきた。


「おい……なんだ、その面……どこの貴族様か知らねえが、こんな宿に来るのは場違いじゃねえか?」


 口臭と酒気を混ぜた声が、間近に押し寄せる。

 トーシュは片眼を上げ、冷ややかに相手を見返した。


「田舎の酒場というのは、客を選ぶほど格式があるのか?」

「っ……なにぃ……」


 一瞬、酔っぱらいの動きが止まる。だが、酔いの勢いは理屈を凌駕し、再び身を乗り出してきた。


「口の利き方ってもんがあんだろ! 俺たちを見下してんのか!」


 その手が卓に伸びかけた瞬間――リディアがすっと間に立った。

 フードを下ろした銀髪が、灯りに反射してちらりと光る。

 彼女は笑みも怒りも浮かべず、ただ澄んだ声で告げた。


「お引き取りを。旦那様の食事の邪魔です」


 たったそれだけで、周囲の客の視線が一斉に集まった。

「やめとけ」「あれはまずい」と囁く声が酒場に広がり、男の肩を誰かが引いた。


「……ちっ、覚えてやがれ」


 舌打ちと共に背を向け、酔っぱらいは足取りも覚束なく奥へ消える。

 リディアは何事もなかったかのように振り返り、トーシュに視線を戻す。


「せっかくの食事が冷めちゃいますよ」


 トーシュはわずかに片眉を上げ、鼻で笑った。


「意外に肝が据わっているな」

「旦那様に言われたくはありませんね。言い返した時の私の顔、見てましたか?」

「いいや。酒臭さが勝ってそれどころではなかった」


 トーシュの口元に微かな笑みが浮かぶ。彼の声音には怒りよりも、皮肉を装った安堵が混じっていた。



 酔っぱらいが消えた後も、酒場に残るざわめきはどこかぎこちないものだった。

 笑い声は途切れがちで、無遠慮に向けられる眼差しが卓に突き刺さる。

 誰も正面からは近寄らないが、背中に貼り付いたような視線は剣よりも鋭い。


 トーシュは外套の襟を整え、何事もなかったかのように杯を持ち上げた。

 しかし、隻眼は氷のように冷ややかで、周囲の気配を一つ残らず見逃してはいない。


「初めての経験にしては面白みに欠ける。旅というものはこんなものか?」


 かすかな吐息と共に零れた言葉は、皮肉めいていても、その奥に滲む苛立ちは隠しきれない。


「まだまだこれからですよ、旦那様」

「それは慰めているつもりか?」

「私なりには」


 リディアは淡々と答えると、それ以上は言葉を重ねず、皿の上の肉を切り分けて口に運んだ。

 彼女の無表情な仕草が、逆に周囲の視線を拒絶する壁のように見える。


 トーシュもまた、杯を傾けて葡萄酒を口に含む。

 誰も声をかけてこない。けれど、誰も視線を外さない。そんな沈黙が、彼には最も鬱陶しかった。


「味も喉越しも、素っ気ないものだな」


 独り言めいた低声が杯の縁から漏れる。

 リディアはそれに応じず、ただ手元の籠を確かめて立ち上がった。


「部屋に戻りましょう。今夜は長居しない方がいい」


 トーシュはそれに黙って頷いた。


 彼は車椅子の肘掛けに手を置き、しかし、体は思うようには動かない。結局リディアが背後に回って押すことになる。

 杯を置くその手つきまで、彼はどこか苛立ちを滲ませながらも、堂々とした仕草を崩さなかった。


 二人が卓を離れると、場のざわめきが一瞬だけ大きくなり、すぐに押し殺された。

 宿の廊下に出ると、さっきまでの喧噪が遠のき、冷えた夜気が二人を包む。


 トーシュは深く帽子をかぶり直し、低く呟いた。


「やはり、旅は気の休まらぬものだ」

「気が休まらない程度なら、むしろ楽な方ですよ」


 リディアは後ろから軽く車輪を押しながら、小さく息を吐く。

 彼女の声音は柔らかでも冷たくもなく、ただ事実を告げるだけ。

 その言葉が妙に耳に残り、トーシュは返す言葉を見つけられなかった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ