4. 浅き縁、深き影
旦那様が目を覚ましたのは、次の日の早朝だった。
まだ日も登りきっていない、薄暗い時間帯。
ふと傍に目を向けると、リディアがソファに横になって寝息を立てていた。それに気づいた彼は音を立てずに身体を這わせる。
寝台の傍に立て掛けてあった支え杖を掴んで、近くにある車椅子まで行こうとするが、動かず力の入らない両足では無理だった。
「――ふぇっ」
盛大な物音とともに変な鳴き声が聞こえてきた。
それに意識を向ける前に、目を覚ましたリディアは慌ててソファから起き上がると――
「旦那様、お目覚めになられたのですか」
すぐに駆け寄ってきたリディアは、旦那様に手を貸して車椅子に座らせる。
「お身体の調子は」
「平気だ」
「そうですか。良かったです」
ほっと安堵したリディアに、旦那様は怪訝そうな眼差しを向ける。
「……一晩中ここにいたのか」
「はい。またあのようなことになられたら、心配ですから」
「気を揉まなくとも良い。しばらくは落ち着くはずだ」
そう言って、旦那様は右手のひらを開閉する。うまく動かないのか。最後には小さな溜息が聞こえてきた。
リディアはそれに気づかないふりをして、これからの予定を尋ねる。
「朝食、摂りますよね?」
「ああ」
「お任せください!」
どうしてか、人一倍張り切っているリディアに旦那様は何かを言いかけて口を噤んだ。
そんな彼の様子を知らないリディアは、自身が腹ペコなのもあって足早に食堂へと向かう。
静かな廊下を車椅子を押して移動していると、不意に旦那様が口を開いた。
「昨日のことだが」
「はい」
「あの、おまじないとやらはなんだ?」
一瞬、言葉に詰まりながら問う旦那様に、リディアはおくびもなく告げる。
「あれはただの接吻です」
「ただの……」
「おまじないというのは言葉の綾です」
一応、魔女の血についてもかいつまんで説明をする。
旦那様はそれを黙って聞いていたが、得心がいかない様子だった。
「もしかして、初めてでしたか?」
「……」
「夫婦なら、キスくらいして当然ですよ」
何も変なことはないとリディアは言うが、旦那様は尚も食い下がってきた。
「血を飲ませるだけなら、他の方法もあっただろう。わざわざ――」
「あの時は両手が塞がっていましたから」
有無を言わさない反論に、旦那様はそれきり黙り込んでしまった。
===
食堂に着くと旦那様をテーブル前に連れていき、リディアは準備にかかる。
といっても魔女の彼女には料理を作る手間など必要ない。
「今日のメニューは、木の実を練りこんだクロワッサンに、バター、イチゴとマーマレードのジャム。それとホットコーヒーです」
一瞬で目の前に現れた朝食に、旦那様は一瞥して顔を上げる。
「これの基準はなんだ?」
「基準……私が食べたいものですね」
魔法で出した料理はリディアの記憶や経験から作られる。つまりはすべてが彼女の好みで決まるのだ。
「食べられないものでもありましたか?」
「いいや」
旦那様はかぶりを振ると、黙って食事に手を付け始めた。リディアはその隣に座ると、一緒に食事を摂る。
普段ほとんど動かないからか。旦那様は少食だ。身体を動かすこともないから、腹が減らないのだという。
だから、隣で彼の三倍ほどの量をぺろりと食べてしまったリディアを見て、彼はなんとも言えない表情をしていた。
「この後はどうなさいますか?」
「庭園に行きたい」
「珍しいですね」
「気分転換だ」
付き合え、と旦那様は言った。
普段ならリディアを遠ざける彼が、傍に居ろというのだ。それに内心驚愕しながらも口元には笑みが残る。
===
屋敷の庭園は寂れた場所だった。
長らく手入れがされていないそこは、枯れ木が立ち侘しさだけが残る。
旦那様は、それをじっと見つめていた。
リディアはそんな彼の背中に声を掛ける。
「旦那様。私も貴方に聞きたいことがあります」
「なんだ?」
「死にたいと思ったことはありますか」
「……そんなもの、一度や二度ではない」
不躾な問いかけに、旦那様は意外にも答えてくれた。
リディアにとってもこれは意味のない問答だった。そんなもの、彼の身の上を考えれば自ずと知れることだ。
けれど、どうしても本人の口から答えを聞きたかった。
「私の父も、祖父も。自決して死んだ。未来の自分を見ているようだった。……とても恐ろしいと感じた。私には、あのような死に方は出来ない」
――誰にも看取られずに死にたくはない。
独白のような小さな呟きに、リディアはそっと旦那様の正面にまわった。
まっすぐに彼の目を見つめて、心の内を尋ねる。
「旦那様が私を娶った理由は、それですか」
真剣な声音で追及すると、旦那様は少し違うとかぶりを振った。
「私が独り身で死ねば築いてきた財産など、何も残らない。執着はしていないが、生きた証が欲しい」
だから娶ったのだ、と旦那様は言う。
「私が死んだら、この屋敷も土地も金もすべてくれてやる。生きるのに不自由はしない」
――そう遠くない話だ。
それから旦那様はリディアに言いつけた。
自分が死んだら好きなところに行くと良いと。この場所に残らずとも良いと。
「随分と身勝手な話ですね」
「お互い、愛情などないだろう。関係は限りなく浅い方がいい。無駄に傷つかずに済む」
それに――と旦那様は続ける。
「お前は魔女だ。嫌になったら簡単に逃げ出せる」
「そうですね。魔女ですから」
「私の願いを律義に叶える必要もない」
「……いいえ」
否定を口にしたリディアに、旦那様は驚いたように目を見開いた。
どういうことだと、彼の眼差しが語っている。
それを見据えて、リディアは告白する。
――二百年前の、昔話を。