11. 魔女の夕餉
街門を抜けると、石畳はやがて土の道へと変わった。
春先の風が頬を撫で、草の匂いを運んでくる。
リディアは荷を積み直した袋を背に掛け、車椅子の背を押して進む。
道の両脇には畑が続き、長閑な風景が続いていた。
「しばらく行けば、森の外れに開けた場所があります。今夜はそこで野営しましょう」
「宿よりは静かでいいな」
トーシュは短く答え、照り付ける日差しに目を細めた。
人のざわめきが遠ざかるにつれ、彼の肩からわずかに力が抜けるのをリディアは感じ取った。
陽が傾き、空に淡い茜が広がるころ、二人は林に囲まれた小さな空き地へと辿り着いた。
苔むした岩がごろごろと転がり、枯れ枝が散らばっている。
焚き火には困らない場所だ。
リディアは荷を下ろすと、ためらいなく枝を集めはじめた。
「旦那様、少し休んでいてください。火を起こします」
トーシュは車椅子の肘掛けに手を置き、彼女の動きを目で追う。
その姿は、魔女というよりも旅慣れた同行者のように見えた。
やがて火花が散り、乾いた枝に炎が宿る。ぱちぱちと音を立てて火が広がり、周囲の闇を払いはじめる。
夜の冷気の中、赤々とした火は不思議な安堵をもたらした。
リディアは小鍋を火に掛け、水を温めながら背を伸ばす。
「こうして座っているだけでも、旅らしくなってきましたね」
「らしいかどうかはともかく……野宿は初めてだ」
トーシュの声にはわずかな硬さがあった。
それでも、焚き火の光に照らされた横顔は、昼間より幾分か和らいで見えた。
火が落ち着いてきたころ、トーシュがふと問いかける。
「面白いものだな」
「何がですか?」
「宿では食事も道具も、魔法で揃えようと思えばできたはずだろう。なのに今は、枝を集めて火を起こす。どうしてだ?」
リディアは手を止めず、鍋の中で水をゆっくりかき回す。
「理由はいくつかあります。まず、人目。魔法で済ませてしまえば怪しい真似をしたと騒がれかねません」
「ここには誰もいない」
「ええ、だからもうひとつの理由です」
彼女は炎に照らされた横顔を少し和らげる。
「旅では手間が役に立つんです。火を起こし、水を汲み、枝を拾う。そういう行いが、時間をつないでくれる。……ただ移動するだけでは、長い旅は退屈になりますから」
トーシュは隻眼を細め、彼女をじっと見やる。
「退屈を紛らわせるために、わざわざ骨を折ると?」
「そうですね。私にとっては退屈の方が苦痛ですから」
リディアの声は淡々としていた。魔女としての飽きへの嫌悪が、何気ない言葉に滲んでいる。
しばしの沈黙の後、薪がぱちりと弾け赤い火の粉が夜空に散った。
「魔女というのも難儀なものだな」
「旦那様もそんなに変わりないでしょう」
「どうだか」
適当に相槌を打って、トーシュは燃え滾る火に目を向ける。
「夕餉にしましょう。少しだけ魔法を使いますね」
告げて、指を鳴らすと煮えた水が入った鍋の中に、食材が投下される。
綺麗に切りそろえられた野菜の欠片。色味の良い肉の塊。味付けの香草。
どれも色鮮やかで、香りだけなら宿の料理にも劣らない。
リディアは椀を差し出してトーシュの眼前に突き付ける。
トーシュは一口だけ口に含み、静かに匙を置いた。
肉は妙に硬く筋張っているし塩気が抜けていない。香草の香りは鼻を突くほど濃い。
リディアの記憶にある美味と、舌の肥えたトーシュの基準はかけ離れていた。
だが彼は顔色ひとつ変えず、短く言い捨てる。
「今日はあまり腹が減っていない」
不味いとは言わなかった。言えなかったのだ。
言えば彼女は気にするだろう。その表情を見るのは面倒だったし、どうせ次に出される料理が大きく変わるわけでもない。
リディアは一瞬目を瞬かせたが、気にした様子もなく、残りを自分の皿に移した。
「なら、私がいただきます」
平然と食べ進める姿を眺めながら、トーシュの脳裏に一つの記憶が蘇る。
――屋敷にいたころ。
彼女が魔法で淹れた茶は、香りばかり濃く、舌に残るのは渋みだけだった。
魔法で出されたパンは水気がなく、コーヒーは泥水のように苦かった。
あの生活で出されたほとんどのものがそんな調子だった。
(あの時も……「少食だから」と言い訳したな)
焚き火に照らされたリディアの横顔は、無自覚に幸福そうに見えた。
その姿を見ながらトーシュは、心の奥で小さく吐息を洩らす。
人間らしい食卓のはずなのに、彼にはやはり魔女の異質さと重なって見えた。




