盾とマトリョシカ
日曜日は好くない。土曜日だ。
結局、呑み潰れるのなら土曜日が一番である。
休暇の前日の夕暮れは気のせいか、いつもより艶やかに見える。山際から滲んだ橙が良宵と交じり、それはそれは妖しげな紫になる。僕たちの史実は長く、その色は古くより格式の高い色として、大小の文化圏で扱われてきた過去がある。情熱の赤・怜悧の青、両者の中間に位置するからなのか。はたまた、自然界や俗世の間で滅多にお目にかかることができないからなのか。それはさておき、僕は紫が好きだ。
慎ましく、魅惑的で美しい。そして品がある。
時刻・気象・空に目を向ける生活の余裕。これらが奇跡的な配分でマッチしなければならない。小止みない僕を癒す、節の間の休息。西向きに見惚れながらキャラメルを一つ、頬張る。
自宅には、幕が下りきっていた。無人の廊下へ向かって、弱音を吐き出した。
「あー、寂しい。」
翌日も休みである日の夕方というのは、人間を最も人間たらしめるに向いているのではないかしら。まるで魔法をかけられたみたい。食べたいものを食し、睡魔に従順となるように。腫れあがった自己肯定感が警戒心のブレーキを緩ませる。
けど、いくら本能的にそうであっても、私が小さな頃から叩き込まれた理知性たちは、定期的に吠えるのです。「その生き方は危ない」「いい加減にしろ」「真面目に生きろ」と。
やめて、黙って。
思わず叫び、夢を追い人であったかつての私は、地元を離れました。向こう見ずな冒険劇は、もうすぐお終い。クライマックスの存在しない、退屈な物語のエンドロールを最後まで見ようだなんて。そんな好事家は、歳を経るほど減ったのです。かつて私を否定した、理知的な大人や社会の言う通りになってしまったことは凄く腹立たしかったけど、案外、皆そうなのかもね。
砂糖が欲しい蟻んこみたい。穴倉から顔を出し、甘さ目がけて必死に駆け出すけど、大抵は陽炎に写った蜃気楼か、塩の結晶と見間違えただけ。本当にあったとしても、私よりもずっと賢くて、努力家な先人たちがありつく。私が舐める隙を少しも与えてくれない。
当然ね。
私は、まだ馬鹿に成り切れない。だって怖いもの。砂糖を求めて草木を抜けた先が、何であるかを知りたくないの。見たくない。だから、追うのを止めるの。ここで。
強がっていても、見えない場所では変化が起きている。連日に蓄積された疲労の塊は固着し、断面から析出したストレス製の棘が、体内を確実に汚染している。
もうやだ。
何か面白いことが起こらないかしら。
夕方、まだ西の空は少し赤身が罹っていた気がする。そうだ、今日は土曜日。
他人任せの好奇心と、香水をバッグに仕込み、ネオンの森へと侵入した。
「貴方、詩人でしょう。」
確かに私の耳は、そのように聞いた。
けれども私は一瞬だけ、シジン?となった。今日日、“詩人”という語彙を普段使いし、コミュニケーションのさわりに持ってくる人間に出会ったことがないからだ。バーで一人飲みをする私に声をかけるような男は、良く言って野性的。オブラートを剥がせば下心見え見え。見開く瞳孔で捕えるのは、狭義の概念上の雌であって、私でない。
しかしその声の主は、少し違っていた。
「あら、良くお分かりになりましたね。」
私は同等の濃度の敬意を込めて言った。
「どうしてそうお考えに?」
「それはお嬢さん…、」
同じラインのカウンターで、同じく一人飲みをしていた男性は、もう口元まで来ていたコリンズグラスを傾けて、残った僅かなアルコールをグィッとやり、一息をおいて答える。
「勘ですよ。」
「勘?」
「えぇ、僕の中の詩人が、あなたの言葉選びに反応しているんですよ。」
「ということは、あなたも詩人?」
「えぇ、そうです。」
彼は顔の右側だけを用いて、浅い微笑みを私に見せる。その後、「近くに行っても?」と言ったので、私は鼻を持ち上げながら「喜んで。」と応じた。
深いグリーンのセータをゆったりと着るおおらかなシルエットとは対称的に、高い鼻先とシャープな顎とを結ぶ直線が、私の好奇心を密かにくすぐった。ちょうど、気になる新作映画の上映前さながらの雰囲気でした。
カウンターチェアに座る際には、甘い香りをかがせた。私は、その香りに覚えがあった。けれど、憶えはない。だから、あまり良い思い出ではないのかも知れない。
「すみません、ハイボールを。それと、つまみのチョコを二人分。」
隣にやって来た紳士を、物珍しそうに眺めた。彼は私の方を見て、何も言わずにニコッとした。
「君はどんな詩を書くのですか?」
「そんなに大層な代物ではないですわ。陳腐で、凡庸で。この世界に在り溢れかえる愛の唄を書いていました。」
「書いていた?
今は違うのですか?」
「この間、辞めたのです。以前の様な気持ちで歌えなくなってしまって。」
「そうなのですね。」ジャズ風味の曲を聞いて、二秒。
「僕と一緒だ。」前歯を見せて笑った。
「僕も、以前のような生命力の有る小説を書けなくなってしまったんです。」
「あら、小説家さんなのですね。」
「無名です。どんな読書家も、誰も知りませんよ。」
「読んでみたいわ。」
「お世辞でも嬉しいです。」
やはり、彼は屈託のない笑顔を見せた。その顔にはまるで嫌味がなく、爽やかな人柄をそのまま映しているようである。
「お仕事は、何をなさっているの?」
「ただの会社員ですよ。誰かが作ったものを、また別の誰かに売る。つまらない仕事です。」
「そんな…、大事なお仕事ですよ。」
「ありがとう。君は?」
「私は…、」とまで言って、止めた。
仕事は、昨日の夕方に辞めてきた。キャリアアップや転職のような前進的な理由でなければ、怠惰や病気のような後ろ向きなソレでもない。わかれ。同居人である、恋人との別れ。当然、行き先がすぐに見つかる訳がなく、四年間緩やかに増やしていた私物は半分を実家に送り、残りは捨てた。二年前に観た映画の半券、チープな錫製のペアリング、誕生日に貰ったピアスの空箱。どれも、恋の甘味をしつこく保存していた。
そして、私はこれらに対して、稀有な感情を抱いていた。
喪失感?
嫌忌や憎悪?
両種とも、私が内側に宿しているものを的確に言い表せる言葉ではなかった。
「今は、何もしていません。」
「そう、ですか。」
「はい…。」
「いいですね。何をするか、選びたい放題ではないですか。」
「確かに…、そうね。」
好きだな。こういう感じのポジティブは。
どうやら、私たちは馬が合うらしい。
人は憂いを抱えていると、ミステリアスな色調を醸し出す。なら、お互いに惹かれ合う私たちは、蜜にほだされる蝶々ね。半生がどんなものであったが、彼は丹念に話した。
この辺の出身であることや、今の仕事に対しての愚痴。話の上手さも相まって、私たちはすっかり打ち解けたのです。
名前以外の大体を共有し終える頃、私の体内にはかなりのアルコールが有った。これが、私をセンチメンタルに仕上げたのです。
「私が歌手になりたいと言った時の母の言葉が、二十年近く経っても忘れられないの。」
「なんと言われたんですか?」
「まずね、言ったの。大学を卒業しても、就職はしないって。」
「はい。」
「次はね。東京に行くって、言ったの。」
「はい。」
「楽器も始めたい。だから、ギターを買って、ってね。」
「はい。」
「そうしたら、何て言われたと思う?」
「うーん、馬鹿な事言わずに働けっ、とかですか?」
「ぶっぶー。正解はね、」
「はい。」
「もし、あなたに音楽の才能があって、音楽を通して何かを伝えるだけの想いがあって、さらにやる気まであるのなら、もうすでに始めているはず。なのに、あなたは今日の今まで何もしてないどころか、最初の行動でさえ他人任せ。そんな人間が、音楽で飯を食うなんて到底出来ない!
ですって。」
「思ったよりも、痛いですね。」
「えぇ。だから、音楽の勉強を一人で始めたの。そうしたら、勉強する私に向かってこう言ったの。「そんな金にもならないこと。」ってね。」
「それは、…正論ですね。」
「そう!
そうなの!
正論、正論なのよ。でもね、そういうことじゃないでしょ。だってその頃の私、二十二よ。二十二の学生にそう言ってもさ、反発しちゃうじゃない。」
「分かりますよ。いくらか自由にさせて、そっとしておいて欲しかったってことですよね。」
「そう!
そういうこと。さすが、小説家さんね。言語化が上手いわ。」
「違いますよ。僕もそうだっただけです。」
「そうなの?」
「えぇ。恥知らずだったのですよ。自分は“現代の夏目漱石”だって。特に、初めて応募したやつが賞を獲ってしまって。余計に。」
「賞を獲ったの?凄いじゃない。」
「いえ、獲るタイミングが不味かったのです。すっかり調子に乗ってしまいまして。まぁ、自分だけが悪いのですけどね。」
「なるほどね。でも私、あなたの言葉遣い好きよ。」
「嬉しいです。」
「私も言葉遣いが上手いと思わない?」
「えぇ、とってもお上手です。」
「もし話相手が言葉の使い方を間違えていたら、指摘する?」
「しないですね。」
「えー?
それはなぜ?」
「会話の途中に指摘するのは、マナー違反ですよ。」
「なるほどね。確かに。でも、イライラしない?」
「少し。」
「だよね。例えば?」
「“さわり”という単語があるじゃないですか。あれは本来、物語の一番盛り上がりの部分を指すのです。要は、クライマックス。でも、よくこれを、最初とか冒頭だと勘違いされてる方がいますよね。彼らは後者の意味で話しているのに、僕は前者の意味で聴く。すると、会話の内容に齟齬ができるでしょう。でも、指摘をして会話を止めるなんてできませんし、そもそも誤用の方が浸透してしまっている。ジレンマというやつです。」
あら、“さわり”って、そういう意味なのね。
私も、彼のエピソードの人と同じ誤用をしていることに、今気付いた。
「まぁ、僕が我慢すればいいだけの話です。」
達観的な考えに、私は息をのむ。気まずくなったので、話の舵を切る。
「ねぇ、あなたの歳はいくつなの?」
「僕はですね、来月二十五になるのですよ。」
「二十五?
思ったより、随分と若いのね。」
「あなたは?」
「三十九」
「え?」
「三十九よ。」
「本当に?
本当に三十九歳?」
「えぇ。」
「もっと若いと思っていましたよ。同い年までとはいかなくとも、同世代くらいかなと。」
「子供を産まなかった女なんて、こんなものなのよ。」
「返答がし辛いですよ。」
彼は、笑みを残したまま顔を歪ませた。
「あら、ごめんなさい。でもね、」私は続ける。
「学生時代にね、ずっと一緒に過ごしてた子がいるの。私よりも少し背が高くて、私よりもずっとずっと綺麗な人なのね。中学・高校・大学でも、社会人になって随分と経っても、その子はずっと綺麗だったの。そりゃ、年相応の変化はあるけどね。肌の質感がちょっと落ちたり、額の皺が増えたり、それは私も。でもね、想像の範囲内での変化なのよ。それがこの間、バーで間借りしてミニライブみたいなことをする機会があって、その子を招待したの。ビックリしちゃった。前まではあった若々しさがすっかり萎れちゃって、何か、こう、おばちゃんって感じになってたの。そりゃ子供を産んで、その子供も中学生になれば、まだ分かる変化だなと思うの。けど、私が思ったのは…、何て言うのか、そう、お母さん。人の母親って感じが彼女からして、それに比べて、」
そこで、私は咳をした。喉の奥、入ってはいけない部位に水が入り込んだ。そんな覚え。すかさずに彼は、背を軽く叩いてくれた。五回程度、加えて咳をして私は顔を上げた。
「ほらね。もう私、老けたのよ。いつの間にか。ミニライブでも、友達と私を比べて「同い年だと思えない。」なんて失礼なこと、言ってくる人がいたの。その子にじゃない。私に。
だからね、だからね、私思ったの。
私、このまま一人で生きていたら、自分の変化、いや、劣化に毎日毎日憂いを募らせるんじゃないかと思うの。毎日毎日、シミが増えた、腰が痛い、足がむくむ、みたいにね。昨日まではイレギュラーだった不調が、いつの間にか有って当たり前のものになるのをハッキリ感じ取れるのが怖いの。あー、怖い。
とっても怖い。死ぬことじゃなくて、“死ぬまで生きるため”に生きることの方が怖い!こわい。あー。あっ、お兄さん、ジントニックをもう一杯!」
ちょっとだけヤケになってそう放った。もう温かさの微塵もないおしぼりを全て広げる。私は、一回折にして顔を埋めた。
「すみません、さっきのジントニックはお冷に変更で。それと、彼女のお会計は僕に付けといて下さい。」
わざわざ小声で、彼は男性店員に囁いた。しっかり聞こえていたけど、「ウー」とか言って誤魔化す。
「貴方は?一人で寂しくないの?」
「そりゃあ、寂しいですよ。」
「例えばどんな時?」
「夜、残業を終え帰路について、東の空に浮かんでいる月を見ていると、不意に考えるのです。僕も月も、独りぼっちだなって。」
「凄く、詩的ね。」
「でしょう?」
「えぇ。」
「男という生き物は、女性に酷い目に遭わせられると、詩的になるのですよ。」
「そうなのね。私にも、その詩的センスがあったら良かったのにな。」
「あなたも、充分詩的ですよ。」
「ありがとう。お世辞でも嬉しい。」
「本心ですよ。」
「ありがとう。でも、私が悪いの。私、上京したのに、結局なにも掴めなかった。なにも成せなかった。そりゃあそうよ。若さに乗じて、なーなーに過ごしてたからね。」
「…。」
「“私には才能が無い”とかいう陳腐な言い訳が出る程にも努力しなかった。結局それが答えなのかもね。」
酒の暴力によって、ついにそこまで言い切ってしまいました。彼はカウンターの奥を眺めながら、私の世迷言に気まずくなっている顔をしていました。だから、少し申し訳なくなって、ちょうど甘えたくもなっていたから、実際よりも酔ったフリをして彼にねだったのです。
「ねぇ。私、貴方の家に行ってみたい。」
「だいぶ酔ってますね。いいですよ。」
彼は、先ほどの笑顔で了承した。バーの会計もそのノリで払わせてしまったのです。
お店の外の風景は、すっかり夜の顔をしていた。
立ち尽くす私の隣で、彼はタクシーをつかまえる。私の手を握り、車内へと導いた。
「市役所の方に進んでくと、団地があるでしょう。端っこ。そう、そこのコンビニのあたりまで。はい、…はい。えぇ、そこで大丈夫です。お願いします。吐きは…、しないと思います。僕が見ていますので。」
電灯の咲く街中を、カボチャの馬車は走り出した。ちょっぴり低俗だけどね。
駅前の交差点を北向きに曲がる時、揺れに乗じて彼の肩にもたれた。何も言われなかったから、到着まで知らぬふりでそのまま。誰も喋らない車内の後部座席で、やけに大きく聞こえるラジオの音を理解しないように聴く。あら、触れてやっと分かった。貴方、意外と筋肉質な体をしているのね。
彼の自宅は、閑散とした住宅街の、高台の端っこに息を潜めて建っていた。
バーからタクシーを走らせて二十分弱、下車してからは、歩いて十分の場所に在る。ネオン溜まりの喧騒はとうに聴こえない。清楚な家々の隙間を、私たちは腕を組んで歩く。時計はしばらく見ていない。たぶん、日付は跨いでいるのではないかしら。時折、背後から冷たい夜風が吹いた。ぴゅぅっ、と。私は以前、その風に会ったことがある。
「変わってる。」
一目見た瞬間に、このフレーズが頭の中に出てきた。けれども、声には出さなかった。アルコールで茹で上がった身体が先ほどの夜風に洗われ、多少の理性が帰ってきたからである。こんな家に住んでいる立派な理由があるのだと、とりあえずそう思うことにした。
二階建ての小さな一軒家、全体的にひどく古く、周囲からは浮いている。瓦が所々により割れ、屋根の端の辺は向かって左側に傾いている。
「綺麗なお家でなくてごめんね。」
「いえいえ。来たいと言ったのは私なのですし。」
「嬉しいことを言ってくれるね。」
カラカラカラと鳴らし開いた屋内には、懐かしい匂いが充満していた。祖父母が生きていた頃、夏休みに訪れた、今はもう存在しないあの家屋のようであった。
軒をくぐって知る。内装は外とは違い、小綺麗に改修されているようだ。フローリングには刷新の痕跡があるが、天井の太い梁は戦後からの来歴を顕し、蒼然と佇んでいる。それが、私には面白く映った。彼は、私の口角の上がった顔を見て、ニヤッとやわにする。
「奇妙な家だろう。今昔のコントラストだ。」
「ふふ、そうね。私、好きよ。」
「左の部屋が居間だよ。水を持っていくから、適当に座ってて。」
「はぁい。」
薄暗いけれども、先が見えぬほどではない。玄関から真っ直ぐ伸びる廊下を少し歩くと、それらしい部屋があった。手探りでスイッチに触れると、部屋の明かりが点く。
「わっ、眩しい。」
目が慣れ、最初に飛び込んだのは、壁の代わりに在る巨大な本棚と、それらを満たす大量の本だった。いや、それだけではなかった。部屋の奥の方、ソファのとなり、窓側にも、大量の本が山脈を形成していた。小さな本屋くらいの規模である。
「冷たい水とキャラメルです。ここに置きますね。」
少し遅れ、彼が盆とグラスを携えて来た。
「あ、ありがとう。ねぇ。」
「ん?」
「凄い量の、本だね。」
「あぁ、半分コレクションみたいな感じですよ。」
「これ全部、あなたが?」
「大体は僕ですけど、二割くらいは祖父からです。この家は、祖父が生前使っていた別邸を、私が譲り受けたのですよ。」
「そうなのね。」
「はい。」
自慢気に、彼が笑った。初めて見る表情である。
「ちょっと見てもいい?」
「はい、どうぞ。」
本棚に近寄り、しばらく、背表紙を吟味した。配置には、特に決まりがなかった。著者を見ていると、時折、『太宰治』や『梶井基次郎』を飛び飛びに確認した。「彼は、太宰治が好きなのかな」と考えた私は、本棚の中腹辺りから『斜陽』を取り出した。聞いたことはあるけど、内容は全く知らない。
「ねぇ、これ、貸してくれない?」
彼に問う。返事はない。
「ねぇ。」
振り返る。そこには、ソファで目を閉じる彼がいた。
彼は、クッションに両手を乗せたまま、若干に俯いて寝ている。件の本を、机にそっと置き、静かに歩いて彼の隣に座った。
「寝ないで。」
彼をゆする。もう一度。
「起きてぇ。」
しかし、彼は呻き声のような相槌を打つばかりで戻ってこない。だから、
「ん、」
する。しかし、起きない。もういちど。
「ん、んふふ。キャラメル味ね。」
「ダメですよ。そんなことをしたら。」
瞼を閉じたまま、彼は言った。
「貴方が起きないからよ。」
「他の男にも同じことを?」
「違いますぅ。」
「なら、良かったです。」
「ねぇ、これからどうする?」
「どうもしませんよ。寝ましょう。布団を敷きますね。」
部屋の端っこで四つ折りになっている塊を拡げ、彼は丁寧に和風のベッドメイキングをした。
「本当に寝るの?」
「寝ます。どうぞ布団へ、この毛布は温かいですよ。」
私は渋々、布団へ入った。上着は彼が回収したあと、ハンガーに着せられ壁掛けにされた。そのまま照明を消し、彼はソファで寝てしまった。
「おやすみ。」
「う、ん。おやすみぃ。」
本当に、本当に何も起こらずに、私たちは横になる。
しばらく、そのまま寝ていた。しかし、五分ほどしてから、彼がソファの方から、声を発した。
「すみません。」
「ん?」
「隣に行ってもいいですか?」
その声には、甘えの意味があった。瞼を閉じたまま、応う。
「いいよ。おいで。」
私にかかった毛布を、片手でめくる。ヨタヨタした足つきで、彼は私の居る毛布へ潜った。
眠りにつくまでの時間。暗闇の中、私は彼の喉に四回ほど唇をぶつけてみた。けれど、それは何の引き金になることもなく、小さな痣として彼の喉に残ることとなった。
腕時計で確認した、午前十時。
私の右隣で、彼は寝ていた。明るい場所で改めて見てみると、昨晩に思ったほど綺麗な顔はしていない。アルコールと疲労のマジックは、やはりいけない。でも、それを踏まえたとしても、かなり可愛らしい顔をしていることにも気付いた。それは歳下であることが起因しているのではない。キリッとした表情と、覇気の抜けた寝顔との差異が、大きいからである。
彼の寝息は段々とクリアになった。
私は、彼が起きていることに勘付いている。恐らく彼も、私が起きていることを大分前から知っていたはず。何て言えばいいのかしら。以前の私なら、乾いた笑顔と「また会いたい」とかいう、それっぽい社交辞令を一方的に押し付けて雲隠れしていた。だけど、私の胸に微量に残る良心が、「それはさすがにさぁ…」というのです。いや、良心とも少し違うのかもしれません。これは…。
「おはよう。」
彼の声がした。私は恥ずかしがりながら返事をする。
「あっ、おはようございます…。」
「よく眠れた?」
「う、うん、眠れた。」
「この毛布、暖かいでしょ。」
「えぇ、とっても。」
「凄くあったかいって、話題になってたやつです。」
「あら、そうなのね。」
「はい。」
「へー。」
「…。」
「…。」
「ねぇ、」
「…はい。」
「僕と恋しようよ。」
「え?」
「つまり、お付き合いをしませんか。」
「だめ、ダメよ。あなたはまだ若いのだから。同世代の子と一緒になった方が、あなたのためよ。」
「それを本気で言う人は、こんな所に来たいだなんて言いませんし、夕べみたいなこともしませんよ。」
「だって、」
「好きじゃなくなるまで、好きでいましょうよ。あなたも本当は、そうしたがっているはず。」
「だって。私たち、まだお互いのこと何も知らないわ。」
「じゃあ知ろうよ。自己紹介をしよう。」
「う、んー、いいよ。」
「何が聞きたい?」
「名前!」
「僕はね、文哉っていうんだ。ふ、み、や。」
「あら、素敵な名前。可愛らしい。」
「君は?」
「私は綾乃。あー、や、の。」
「君も素敵な名前だね、あやちゃん。」
「あっ、その呼ばれ方好きぃ。」
「他には?」
「えーと、好きな料理は?」
「言ったらこの後作ってくれるの?」
「いいの?作ってあげたいな。」
「嬉しい。僕、カレーが好きなんだよね。」
「任せて。材料はある?」
「完璧。いつでも作れるようにしてあるんだ。」
くすんだ茶色の天井を見上げて、私たちは湿っぽい笑い方をした。
昨晩に話したことは斑に憶えている。仕事のこと・出身のこと・価値観や、文化の素養について。けど、一番大切で重要な約束は、忘れてしまった。内容はおろか、何に対して小指を交わしたのかも、二日酔いに沈んで浮かばない。
ちょっとヤケになって、言ってみる。
「付き合ってもさぁ、いつかは別れちゃうのよね。」
「うん。そうなのかもね。」
「なのに、恋人になれるのかな?」
「なれるよ。」
「なんで?」
「綾乃さんも僕も、お互いを好いているからです。」
「そんなこと言って。もう私には何も残ってないわ。
もし、ある日急に私の気が変わったら、そこで終わりなのよ?」
「でも、それは今日じゃない。明日かも、明後日かもしれない。来年かもしれないし、もしかしたら、一生来ないのかも。
だから、今は恋人でいよう。別れる瞬間まで愛し合おうよ。」
「うん…。」
「僕じゃダメ?」
「ダメ…ではないけど。」
「良かった。ならいいよね。」
「うん、いい、よ。」
「やった。嬉しいな。」
私たちは、分厚く広い毛布の腹に横たわったまま、彼の腕を私の下に、私の腕を彼の首と枕の間にして、ちょっぴり淫らなハグをした。文哉くんは、空いた腕を伸ばして私の頭を撫でた。暴れた私の髪を集めるように、優しく触れている。私は、その手つきに覚えがあった。
私の中の理知性が、かつてない声量でわめく。喚く。
「その男は危険だ」と。
耳を刺す、高周波の警鐘。乙女心は赤信号を点し、激しく明滅する。私が味わいつくした辛酸の匂いが、喉の奥から逆流してくる。
けれど、生き様とか、世間体とか、自分の死体のことだとか、傷つくとか。
“そんな金にもならないこと。”
今の私にとっては、既にどうでもいいことで在ったのです。