ローマとは何か
ローマとは何か。
今回の場合、この『ローマ』とはイタリアの都市名ではなく古代ローマ及びその後継国を指しています。
さて。ローマの面白いところは、ローマを継承する国家というものがいくつもある、という点です。
古代ローマには順に王政期、共和政期、帝政期がありますが、一貫して国名は『SPQR』でした。
SPQRは略称で、正式には『Senātus Populusque Rōmānus』です。意味は『元老院並びにローマ市民』となっています。
元老院というのは簡単に言うと議会のことですね。
紀元前八世紀にはローマは誕生していて、初期にはまだ小さな都市国家でした。
ただ王政ローマはローマ人ではなくエトルリア人の王によって支配されていた時代であり、ローマ人は圧政に苦しめられていました。
王政から共和政への転換はエトルリア人の王の息子によって起こされました。といってもこいつが王政廃止を訴えたとかではなく、既婚者の女性に恋をして強姦したことで憤激したローマ市民が立ち上がったというわけです。
その女性は強姦されたことを告白したのちに自殺し、それを受けたローマ市民が圧政に耐えかねてエトルリア人の王家を追放。共和政が開始されました。紀元前509年のことです。
古代ローマはこの共和政期に肥大化し、地中海世界に覇を唱える覇権国家へと躍進しました。
アッピア街道を敷いて軍隊の行軍効率を上げることでギリシア植民市タレントゥムを攻略。それによりイタリア半島を統一し、ポエニ戦争では当時のローマより強大だった大国フェニキアを下して西地中海の商業圏を獲得。
地中海のみならず北方のケルト人らの領域や東方のギリシア系諸国家にも目を向けていました。
このギリシア系諸国家とは単にギリシアのポリスだけでなくギリシア系マケドニア人のヘレニズム三国をも指しています。
このヘレニズム三国のうちの一つがプトレマイオス朝エジプトで、その最後の王がクレオパトラです。
共和政末期のローマの権力者として非常に有名なのがユリウス・カエサルですね。クレオパトラは彼の愛人になることでエジプトを守ろうとしますが、彼は紀元前44年に「ブルータス、お前もか」と……言ったかどうか真相は不明ですが暗殺されてしまいました。
次にクレオパトラはアントニウスと関係を持ちますが、カエサルの養子オクタヴィアヌスによってクレオパトラとアントニウスは捕らえられます。
翌年、逃げ出したクレオパトラはコブラに自分の身を噛ませて自殺。プトレマイオス朝は滅亡となりました。
オクタヴィアヌスはその三年後に元老院から尊厳者アウグストゥスの称号を贈られ、帝政を開始。彼は初代皇帝に就任しますが、自ら皇帝を名乗ったわけではありません。
帝政初期の皇帝はあくまでも共和国の指導者というスタンスであり、それはディオクレティアヌス帝による専制政治が始まる紀元後287年まで続きました。
紀元後二世紀辺りの五賢帝時代で最盛期を迎えたローマは、カラカラ帝によるアントニヌス勅令によって崩壊の憂き目を迎えます。
というのもアントニヌス勅令でローマ全属州民にローマ市民権が付与されたことで、『自分達はエリートたるローマ市民だ』という優越意識をローマ人が抱かなくなり、結果として風紀が著しく悪化したからです。
しかし前述したディオクレティアヌスが崩壊目前だったローマ帝国を建て直すために帝国を東西に分割し、それぞれに二人の皇帝を置きました。これをテトラルキア、日本語で四帝分治と言います。
まあとどのつまりローマ帝国は弱体化したわけです。
加えて彼はキリスト教徒に対する大迫害を行いますが、これはキリスト教徒が皇帝崇拝(専制政治)に従わなかったからです。
そして次代皇帝コンスタンティヌスがミラノ勅令でキリスト教を公認。しかしその次の皇帝ユリアヌスがキリスト教を認めませんが、そのまた次の皇帝テオドシウスが392年にキリスト教をローマの国教に定めました。
が……キリスト教が国教になった三年後の395年、ローマ帝国は東西に分裂することとなります。これはテトラルキアとは異なり、東西それぞれが別の国となったのです。
この分裂の原因と言われるのが、分裂二十年前に始まった第一次ゲルマン民族大移動です。民族大移動と言えば普通、これを指します。
中央アジアにいた騎馬民族フンが西に移動を始め、それによりドナウ川周辺にいたゲルマン系のゴート人が圧迫され始めたのです。
375年に東ゴート人がフン人に征服されると、翌年フンから逃れるために西ゴート人はドナウ川を渡河して南下し、ローマの領域に侵入しました。
これ以降ゲルマン人の南下が進み、活動が活発化。ローマが次第に衰退していきます。
さて。東西に分かれたローマですが、西ローマは百年もせずゲルマンの傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされます。
そして東ローマは1453年にオスマン帝国メフメト二世によって滅ぼされるまで続きますが、しかし実質的にはそれ以前にすでに東ローマは消滅していました。
と言われてもわからないでしょうし、くわしく説明していきましょう。
東ローマは首都をコンスタンティノープル(現トルコ.イスタンブール)とし、六世紀のユスティニアヌス大帝の元で最盛期を迎えます。
しかし七世紀のヘラクレイオス一世の代で、東の帝国はギリシア化を始めます。というのも本拠地が現在のトルコであり、ギリシア圏内であったため、次第に公用語がラテン語からギリシア語に移行していくのです。
つまりこの時期より東の帝国はローマとしての性質を失っていき、ギリシアとしての性質を帯びていきます。
やがて''ギリシアの帝国''と当時の人達も認識するようになり、この東の帝国をいわゆる''東ローマ''とは捉えなくなりました。かの国は後世において''ビザンツ帝国''と称され始めたのです。
この''ビザンツ''というのは、首都コンスタンティノープルの古い呼び名です。コンスタンティノープルは元々はビザンティオンというギリシア語の呼び名であり、ギリシア人による植民都市でした。
しかし前述したコンスタンティヌス帝がローマの首都をビザンティオンへと遷都し、そこでこの都市を自身の名前にちなんだコンスタンティノープルに改称したのです。
というわけで西ローマはすぐに滅び、東ローマはギリシア化したことで、ローマと呼べる国はなくなりました。すると、ローマの後継国を自称する国家が出始めたのです。
有名なのはフランク王国や神聖ローマ帝国、ナポレオン一世の帝政フランス、ないし神聖ローマ帝国の後継国を称するオーストリア帝国やプロイセン王国などです。
学校の世界史で触れられるくらい有名なのがこれくらいってだけで、ローマ後継国を称する国家は他にもまだまだあります。
以上五ヶ国の説明をするのですが……ぶっちゃけ長くなります。
別に歴史用語とか次代背景の詳しい説明を省くことは可能でずが、それだとチンプンカンプンでしょう。ということで細かく説明していきます。
まずフランク王国。これはゲルマン人の一派たるフランク人によって打ち立てられた国家です。建国は481年、クローヴィスによってメロヴィング朝が開かれました。
496年にはキリスト教アタナシウス派 (のちのカトリック)に改宗。この点が後々重要になってきます。とりあえず覚えておきましょう。
このメロヴィング朝は751年まで続きますが、小ピピン(ピピン三世)によって滅ぼされます。そして彼はカロリング朝を創始しました。
このピピン三世の息子こそ、かのカール大帝です。フランク王国の最盛期を創出し、ゲルマン系ザクセン人やゲルマン系ランゴバルド王国を征服。ローマ亡きあとの地中海世界において覇を唱えました。
これらの功績により、カール大帝は礼拝のため都市ローマに訪れた際に教皇レオ三世によって''西''ローマ皇帝に戴冠されました。
ここでなぜ''西''を強調したのかと言うと、先ほど触れた通りローマ帝国は395年に東西に分裂しています。
そして東ローマはギリシア化したものの、建前上では十五世紀まで続きます。つまり東ローマ皇帝位はビザンツ帝国にありました。
対して西ローマ皇帝位はというと、オドアケルが西ローマを滅ぼしたあとで時の教皇により東ローマへと返上されています。
つまり西ローマ皇帝は不在となったのです。
オドアケルは教皇によってイタリア領主に任ぜられますが、その後イタリア領地を代々世襲するような強大な支配者は出現しませんでした。
しかし問題が起きます。ローマ教皇率いるローマ教会と、ビザンツ皇帝率いるコンスタンティノープル教会の対立が激化するのです。
ところで、キリスト教の五大教会としてはローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアがあります。
これら五大教会のうち、ビザンツ帝国が有していたアンティオキア、イェルサレム、アレクサンドリアが七世紀頃にイスラーム勢力によって奪取されました。
これによりキリスト教の首位権をローマ教会とコンスタンティノープル教会が奪い合い始めたのです。
切っ掛けとしては726年のビザンツ皇帝レオン三世による聖像禁止令発布でしょう。
キリスト教では偶像崇拝を禁じられていましたが、やはり他人種に布教するには御神体が欠かせませんでした。故にイエスの偶像は普通にありました。
ただイスラームは厳格に偶像崇拝を禁じていたため、イスラームの影響が強かったシリア出身のレオン三世は偶像禁止を命じたのです。
けれど当時のローマ教皇としては、ゲルマン人に布教するためには御神体が必要です。なのでこれ以後、西のローマ教会と東のコンスタンティノープル教会の仲の悪さが顕在化していきます。
そして1054年、ついにローマ教会とコンスタンティノープル教会はお互いに相手を破門。教会が東西に分裂しました。
ローマ教会は特定の世俗君主に支配されていたわけではないのでトップが教皇でしたが、コンスタンティノープル教会はビザンツ帝国の支配下です。そのため、ビザンツ皇帝がコンスタンティノープル教会のトップも兼ねるようになります。
ただ、ローマ教会が特定の国に支配されていないのは良いことばかりではありません。後ろ盾がないのと同義なわけなので、ローマ教会は後ろ盾を求めるようになります。
そんな折、フランク王国のカール大帝が台頭し始めました。というわけでコンスタンティノープル教会ひいてはビザンツ帝国に負けない後ろ盾を得るために、教皇レオ三世はカール一世に西ローマ皇帝の冠を被せたのです。
カールの戴冠の要因としては、フランク人がアタナシウス派(正統派カトリック)だったという点も大きいです。
もしフランク人がキリスト教の異端だったり、そもそもがキリスト教徒じゃなかったらレオ三世も戴冠しなかったでしょう。
ちなみにカールの戴冠はちょうど800年の出来事です。実を言うとカール一世がザクセン人征服を完了させたのが804年なので、カールの戴冠の時期はまだザクセン人が抵抗中です。
ザクセン人征服の功績は戴冠とは関係ないという点は……突っ込まないでください。カール一世の業績の中でも割りと有名なやつなので触れなくてはいけませんし。
ザクセン人征服事業は772年からのことなので、彼らは割りと抵抗してます。あと一部のザクセン人はイギリスに渡って原住民のケルト人を征服していたりします。
ヘプターキーを建国したアングロ=サクソン人のサクソンがザクセンの英語読みであるということからも、ザクセン人の痕跡を把握できます。
話が逸れましたが、こうしてフランク王国は西ローマ帝国を継承しました。
このカール一世の息子ルートヴィッヒ一世敬虔王の息子達の世代で、フランク王国は三つに分裂します。
フランク王国の分裂は、ゲルマン人の伝統である分割相続に起因します。
兄弟が相次いで死んだためルートヴィッヒ敬虔王はカール一世からフランク王国を単独で継承しますが、彼の息子の代ではそう上手くはいきませんでした。
ルートヴィッヒ敬虔王の長男ロタール一世と、その同母の末っ子ルートヴィッヒ二世、そして異母弟シャルル二世が相続する領地を巡って争いました。
ロタール一世は父のようにフランク王国単独継承を目指しますが、それを阻止するためルートヴィッヒ二世とシャルル二世は手を結びます。
二人が協力関係を築いたことでロタール一世は仕方なく妥協し、その結果843年のヴェルダン条約により、東フランクはルートヴィッヒ二世が、西フランクはシャルル二世が、中央フランクはロタール一世が相続することで決まりました。
皇帝位はロタール一世が継ぐものの、三人の中では彼が最初に没します。そして870年のメルセン条約で、ルートヴィッヒ二世とシャルル二世はロタール亡きあとの中央フランクを仲良く分割しました。
そして東フランクでは911年、西フランクでは987年にカロリング朝が断絶。カール一世の血筋は途絶えることになります。
東フランクではザクセン朝が開かれ、その二代目君主オットー一世は962年に教皇ヨハネス十二世により西ローマ皇帝に戴冠されました。
これが神聖ローマ帝国の起源とされています。
つまり神聖ローマ帝国もフランク王国と同様に、西ローマ帝国の後継国と見なせるわけです。しかしその実態は異なります。
神聖ローマ帝国は現在のドイツ一帯に存在し、当時から神聖ローマ帝国はドイツ地域だという意識がありました。なお、当時はまだドイツという国はありません。
神聖ローマ皇帝になる段階としては、まずは神聖ローマ帝国の諸侯による選挙でローマ王に選出される必要があります。つまり世襲ではないということです。
ローマ王に選出されると、次に教皇がローマ皇帝の冠をローマ王に被せます。こうして神聖ローマ皇帝になることが出来ます。
これは要するに、神聖ローマ皇帝は教皇に逆らえないわけです。
なぜってそれは、戴冠とは相手に膝をつき頭を下げ、そして冠を被せられるものです。つまり教皇は皇帝に対してその行為をすることができる世俗的権威を有していると読み取れます。
簡単に言うならば、教皇に嫌われれば神聖ローマ皇帝はその立場を失いかねません。有名なのが1077年のカノッサの屈辱におけるローマ王ハインリヒ四世でしょう。
聖職者の叙任権が教皇と皇帝のどちらにあるか、ということで神聖ローマ帝国では次第に叙任権闘争が繰り広げられるようになります。
ハインリヒ四世は聖職叙任権が皇帝にあると主張し、教皇グレゴリウス七世と対立。するとグレゴリウス七世はドイツ諸侯に対し、ローマ王選挙を再度行うことを呼び掛けます。
もしローマ王選挙が再び行われるとハインリヒ四世はローマ王としての立場を失うため、直ちに教皇のいるカノッサまで馳せ参じて門の前で雪の中三日三晩立ち続けて許しを乞いました。これをカノッサの屈辱と呼びます。
最終的にグレゴリウス七世はハインリヒ四世を許しますが、しばらくするとハインリヒ四世はまた叙任権が皇帝にあることを主張し対立します。
これにグレゴリウス七世はハインリヒ四世を破門しますが、時すでに遅し。ハインリヒ四世はローマを占拠してグレゴリウス七世を追放し、新しく擁立した教皇によって神聖ローマ皇帝に戴冠されました。
ハインリヒ四世は従順な教皇にすげ替えて対応しましたが、まあ本来神聖ローマ帝国では皇帝は弱い存在です。
ローマ王(ドイツ王)は諸侯による選挙によって選出されるためドイツ諸侯に強く出れず、また神聖ローマ皇帝は教皇による戴冠が必要なため教皇には強く出れません。
しかし1438年からオーストリア=ハプスブルク家が神聖ローマ皇帝位を選挙によらず世襲で受け継ぐようになり、そのハプスブルク家のマクシミリアン一世が自身の手で自身の頭に戴冠します。
以降、カール五世とかいう例外を除いてハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は教皇に頼らず自身で戴冠を行うようになります。選ばれしローマ皇帝の誕生です。
ただ神聖ローマ帝国がこれにより強化されたのかと言うと、そうでもありません。この後、帝国はローマの雌牛と呼ばれているようにローマ教皇及びローマ教会から搾取されていきます。
教皇レオ十世がサン・ピエトロ大聖堂改築の資金集めとして、ドイツ地域にあった教会領に対する課税を強め、また贖宥状(免罪符)販売でドイツ地域の農民からお金を巻き上げるようになりました。
このように『ドイツはローマを肥えさせる雌牛だ』と言われ、この期間の神聖ローマ帝国ないしドイツをローマの雌牛と呼ぶのです。
また神聖ローマ帝国は実質的には複数の領邦による連合国家という側面が強く、ハプスブルク家の支配は強力なものではありませんでした。
この帝国の最後の皇帝はハプスブルク家のフランツ二世です。1805年のアウステルリッツの三帝会戦に敗北し、翌年のライン同盟によって帝国は解体されました。
しかしフランツ二世はハプスブルク家が支配するオーストリアを神聖ローマ帝国から切り離し、オーストリア帝国を建国。彼は初代皇帝フランツ一世に即位します。
このオーストリア帝国の君主号はカイザー。ドイツ語で皇帝を意味し、神聖ローマ帝国や後述するプロイセン王国の君主号と同じものです。
要するにオーストリア帝国は神聖ローマ帝国との連続性、つまるところ西ローマ帝国の継承を主張したわけです。
なおドイツ語のカイザーとは、ラテン語でカエサルです。
ローマ帝国はテトラルキアによって東西に分割され、それぞれに二人の皇帝が置かれたことは以前触れました。
その二人の皇帝というのが正帝と副帝です。正帝の称号がアウグストゥス、副帝の称号がカエサルとなっています。
このカエサルの称号は、前述した共和政ローマの権力者カエサルに由来します。
神聖ローマ帝国やオーストリア帝国のように、カエサルのドイツ語読みカイザーを用いてドイツ語圏の皇帝を表します。
カエサルはイタリア語ではチェーザリ、そしてロシア語ではツァーリと転化していきました。
ツァーリはロシア語でも皇帝を意味し、同じく君主号として使われます。
ただ、イタリア語チェーザリは君主号じゃないです。人名とかですね。
次に、プロイセン王国。これもドイツです。
十字軍運動の聖地巡礼の保護や聖地防衛に端を発するドイツ騎士団が、のちにプロイセン公国となります。
そしてホーエンツォレルン家という家がポーランド王よりこのプロイセン公位に封じられ、さらに同家は神聖ローマ帝国の選帝家ブランデンブルク辺境伯位をも世襲。
プロイセン公国という名前からわかる通り、君主号が''公''なのでこの国は独立国という扱いではありません。ポーランド王国の属国です。
と言っても半ば独立していて、独立国と言っても差し支えありませんでした。
1618年、プロイセン公国とブランデンブルク辺境伯国はホーエンツォレルン家と同君連合を結成。一つの国家として統合されます。
そして1701年に始まったスペイン継承戦争にオーストリア=ハプスブルク家(神聖ローマ帝国)側としてプロイセン公国が参戦・活躍します。
その功績により戦後、プロイセン公国は王国へと昇格して独立を獲得します。首都はベルリンとなりました。
神聖ローマ帝国解体以後、ドイツ民族による国家としてプロイセン王国とオーストリア帝国が並び立ったわけです。
両国は全ドイツ民族を内包するドイツ人民の国民国家を目指しました。するとやはり対立は免れません。
しかし最終的にオーストリアのドイツ人以外を内包するドイツ民族の国民国家として、プロイセン王国が主体となりドイツ帝国が成立したわけです。
まあ第一次世界大戦で負けて崩壊しますけども。
このプロイセン王国もオーストリア帝国と同様に神聖ローマ帝国の後継国だと自負し、君主号をカイザーとします。
そしてナポレオン一世による帝政フランスも、その帝政の由来をローマ帝国には求めていないものの、帝政フランスの国旗は鷲です。
鷲は古代ローマの国旗で描かれており、SPQRの文字の上には翼を広げた鷲がいます。鷲は強さの象徴であり、オーストリア帝国やプロイセン王国も国旗に用いました。
帝政フランスの国旗が鷲だったのも、西フランク王国の末裔たるフランスこそ西ローマ帝国の後継国だ、ということを暗に示していることでしょう。
これの凄いところが、ナポレオン一世はさして高貴な身分ではないのに国民選挙でフランス世襲皇帝の座に就いたことです。
身分による力ではなく軍事力とカリスマで皇帝になったわけですよ。しかもローマ教皇を戴冠を受けず、自身の手での戴冠です。
これは当時のナポレオン一世がフランス国内において教皇を優越する権威を有していたことを証明しています。
……さて、今までの話でお気づきてしょうか?
私が挙げたローマ帝国の後継国は全て、西ローマ皇帝位を受け継いでいった国です。では東の皇帝位の後継者は誰なのでしょうか。
東ローマ皇帝位の継承者として挙げられるのは、ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国のメフメト二世です。
もちろん彼はビザンツ帝国を滅ぼしたあとでローマ皇帝を名乗り、その後のオスマン皇帝もローマ皇帝を名乗りました。
しかしオスマン帝国をローマ帝国の後継国と見なすには無理があります。それは、この国がキリスト教国ではないためです。
ローマ帝国の後継国を名乗る国家は何かしら教皇やキリスト教と絡んでいます。カトリックであるにしろプロテスタントであるにしろ、です。
ローマ帝国がキリスト教と結び付いていく過程で、ローマ皇帝という存在がキリスト教世界の守護者へと変質していったのです。
つまりローマ皇帝という権威・権力はキリスト教に由来していたと言えるでしょう。
書き終わって文字数確認したら多すぎてビックリしました。
……面倒なので誤字脱字の確認はしてません。誤字あったら教えていただけると幸いです。