第41話 雨あがる <完>
馬車に揺られながら、アナイスはひどく緊張して落ち着かなかった。さっきまで晴れていた空が曇りだしたことも、アナイスの不安を増す要因になった。
程なくして門構えが現れ、馬車は目的地に到着した。正面の建物に対して左右対称の翼棟がある邸宅だった。
馬車から降りたとき、アナイスは聞こえてくる音が気になって立ち止まった。
「どうかなさいましたか」
人のよい馭者が声をかけた。
「ピアノの音が聞こえたような気がして……あちらの方から」
アナイスは正面に向かって右側の翼棟を指さした。
「エヴァン様がお弾きになっているのでしょう。どうしましょうか、正面玄関ではなくて直接お入りになりますか。あちら側に回っていただくともう一つ出入口があります。もしエヴァン様がお気づきにならないようでしたら、ご面倒をおかけしますが正面にお回りください」
馭者はきびきびと言って再び馭者席に戻ると、馬車を回送して納屋の方へと去っていった。
アナイスは馭者から言われた通りに内庭を通って右側の翼棟に回った。建物に近づくとピアノの音がはっきりと聞こえて来た。それは猛烈な速さで音階を駆け上ったり下りたりしていた。アナイスはよりいっそう落ち着かなかった。
こんなに熱心に弾いている状態で、果たして自分の訪問には気づいてもらえるのだろうか。気づかないなら気づかないで、そのまま帰ってしまおうか。衣服はさっきの馭者なりお屋敷の使用人なりに託せばいい……。
翼棟の一階部分はテラスのように突き出していて、大きなガラスの窓から中の様子が見えた。思わずアナイスが中を見ると、ピアノの前に座るエヴァンと目が合ってしまった。
すぐにテラスに通じる扉が開いて、エヴァンが顔を出した。
「アナイス、どうしたんですか」
「預かりものと、伝言とが、あって」
と、アナイスは言った。自分で自分の心臓の早い鼓動が分かった。
「……とにかく、中へどうぞ」
エヴァンはアナイスを室内に招き入れた。扉が閉まった。
アナイスはまず預かって来た服をエヴァンに手渡した。
「これを預かって来ました。セドリックと、ラグランジュ伯爵夫人の執事とが、あなたによろしくお伝えくださいと」
「僕の上着です。ありがとう」
エヴァンは受け取ると、肩の部分を持って上着を広げた。確認するように前後をひっくり返して、それから畳むと椅子に掛けて置いた。黒い、礼装用の上着だった。
エヴァンは少し微笑んで、説明した。
「先日の、ベルシー女公爵との正餐の時に給仕に預けていて……」
「どうにかなさったの?」
「ちょっとした事故でした。あなたのドレスのように、作り直しまでは至りませんでしたが」
「それはそれは、……あなたも大変でしたのね」
言ってアナイスは肩をすくめた。彼は自分のドレスのことも、よく知っているのだ。
さっきまでエヴァンが弾いていたピアノは、蓋が開いて鍵盤が見えていた。
「セドリックがわざわざ置いてくれたんです。いいピアノでしょう」
アナイスの視線に気づいてエヴァンが言った。ピアノの良し悪しはアナイスには分からなかったけれど、二人の友情の表れが見えて、それがアナイスを温かい気持ちにした。アナイスはエヴァンに微笑みを返した。
あらためて室内を見渡すと、中央にテーブルと椅子。壁に沿って書き物机、本棚、長椅子、ベッド。部屋の中はすべてがきっちりと整えられていて、ピアノ以外には使用の痕跡が見えなかった。
床の上には旅行カバン、外套、帽子。これは出掛けるための準備と思われた。
「お出かけになる所でしたか?」
「フォーグル国へ……先日お話ししたように」
「今すぐに?」
「明日ここを発つ予定でした。駅まではセドリックの馬車と馭者を借りて、その先は郵便馬車で……でも、どうぞ、あなたは先に馬車でお帰りになってください。その後からで僕は十分に間に合いますから」
後半部分は、アナイスが沈んだ顔をしているのを見てエヴァンが付け加えた。しかし、アナイスの気がかりは帰り道の心配ではなかった。
アナイスはもう一つあったの訪問の用を伝えた。
「ベルシー公爵令嬢からも伝言があります。『ピアノは私が預かっているだけだから、いつでも相応しい人に渡す用意がある』とのことです」
「ピアノ……?」
「山荘で私たちが初めて会った時に、あなたが弾いていたあのピアノです。机にしか見えなかったあのピアノです。ラグランジュ伯爵夫人は、最初に見つけた人にそのピアノ下さるとおっしゃったそうですが、公爵令嬢はあなたが先に見つけたのではないかと……」
そしてアナイス自身も、公爵令嬢の山荘到着より早く、ピアノを見ている。エヴァンと一緒にいて、彼が弾くのを聞いている。
アナイスはエヴァンの反応を待ったが、エヴァンは困った顔をして黙ってしまった。しばらく考えてから彼は言った。
「エリザベットの言うことは大方正しいのですが……彼女は一つ、誤解をしたままでいるのです」
エヴァンはアナイスに向き直った。
「少し、僕の話をしてもいいですか?」
「どうぞ、喜んで」
エヴァンがすすめて、アナイスは長椅子に腰を下ろした。彼はピアノの蓋を閉め、その前に置かれた椅子に座った。
「僕の雇い主はエスカール伯爵という人でした。フォーグル国大使をしていて、それで僕も二年の間フォーグル国にいて、この国へは休暇で戻ってきました」
「ええ」
アナイスはエヴァンの雇い主の名を初めて知った。大使と聞くと雲の上の人のような気がした。
「休暇にあたって僕は特別に演奏許可をもらっていました。本当は恋人のために演奏をするつもりだったんですが、それより前に恋人には振られました。長い間、国を離れていて僕は親切ではなかったし、当然のことです」
エヴァンがあまりにも淡々と語ったので、アナイスが感傷的になっている間もないくらいだった。
「で、この前の音楽夜会であなたと『夏の日を讃える歌』を演奏した時、エスカール伯爵もそれを見ていました。伯爵は大使の任を解かれ、帰国していたのだそうです」
「許可なく、演奏したところを見られていたわけですね……?」
「その通りです」
それについては、エヴァンは確か、既に雇い主とは話しがついた、と言っていた。
「当初エスカール伯爵も、エリザベットと同じように、誤解をしていました。伯爵は、僕が許可された通りに、恋人のために演奏したのだと思ったようです」
「それで……それは……どうなったのですか」
アナイスは続きを聞くのが怖かった。
「僕は伯爵に、そうではないと言いました。あなたは僕の恋人ではなかったし、恋人のために演奏したのではないとはっきり言いました。都合のいい言い逃れをするつもりはありません」
「それは、そうですよね。ええ、分かりました」
アナイスは平然を装ってエヴァンに言い返した。用が済んだなら早く帰りたいと思った。
その一方で、もうこれが最後だという思いが、彼女の口をすべらせた。
「でも、本当に、その時だけでも、私をあなたの恋人にしてくれたならよかったのに」
「そんなことできるわけがないでしょう」
エヴァンは即答した。しかし、続く彼の言葉は切れ切れになった。
「……その時だけだなんて、……そんなこと、……できるわけがないでしょう」
彼はゆっくりと左右に頭を振った。彼の表情につられてアナイスは胸がつまるような思いがした。アナイスはエヴァンから目をそらし、次に気づいたとき、彼はアナイスのすぐ前に立っていた。エヴァンはひどく思い詰めた様子だった。
アナイスは驚きを持ってエヴァンの顔を見上げ、それから立ち上がった。エヴァンはアナイスを見つめた。ひと呼吸おいてエヴァンが言った。
「僕はあなたのことが好きです、愛しています」
反射的に返す言葉が出た。
「私も……私も、あなたのことが好きで、愛しています……」
急な告白にアナイスが呆然としたままででいると、エヴァンが腕をのばしてそっと彼女を抱きしめた。
「前の恋人に振られたばかりなのに、ずいぶん変わり身の早い男だと、あきれたことでしょう」
「いいえ……」
「でも自分でも、またこんな気持ちになるなんて、思ってもみなかったのです」
それを言うならばアナイスも同じようなものだった。彼女も山荘に来た当初は別の想い人がいた。しかもそれはエヴァンもよく知る人で。でも、それももう終わったことだった。アナイスと、アナイスの親友と、エヴァンの胸の内に、想い人には知れず静かにしまわれていることだった。
アナイスはエヴァンの肩に頭を寄せながら彼の言葉を聞いた。
「愛しています。その時だけだなんて言わないでください、ずっとですよ」
「ええ」
「ずっと……僕の恋人でいてください」
雨が窓を叩く音がした。エヴァンが窓に近寄って外を見ると、空は明るいままだった。通り雨ですぐに止むだろうと思った。ベッドでは彼の愛する人が静かに寝息をたてていた。今はまだ彼女を起こしたくなかった。エヴァンはしばらくの間、雨の流れ落ちる様子を見つめていた。




