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夏の日の歌  作者: 井中エルカ
夏の終わり

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第40話 馬車

 音楽夜会は終わり、間もなく夏も終わる。滞在客たちも少しずつ部屋を引き払い始め、ラグランジュ伯爵夫人の山荘は、出立で行き交う馬車でにぎわうようになった。



 その日、アナイスは旧い大広間から例のピアノが運び出されるのを見た。この山荘での日々の、特別な思いが詰まったピアノだった。

 そのピアノは、最初はひっそりと小部屋の壁に付けて置いてあり、エヴァンが音程の狂いをものともせずに弾くのを聞いた。次に見たときは旧い大広間に移され、音は調律されて、弾いていたのは公爵令嬢だった。もう隠されていたピアノではなかった。そして自分はそのピアノについて不用意な発言をしたのだと、ジュリーに言われて気づいた。


 運ばれるピアノの後を追うと、馬車寄せの近くでベルシー公爵令嬢がじきじきに指示を出し、ピアノを荷馬車に積み込むところだった。

 公爵令嬢エリザベットはアナイスに気づいて言った。

「ごきげんよう、アナイス、またお会いしたわね」

「公爵令嬢様も、ごきげん麗しく……」

 アナイスは膝を折って礼を尽くした。

「ピアノが気になって見にいらしたの?」

「……」

 アナイスは答えなかったが、沈黙がエリザベットの質問を肯定していた。

「あのピアノは私がいただいたの。ラグランジュ伯爵夫人が、一番初めに見つけた人に下さると、おっしゃったのよ」

 それならば、エヴァンの方が先ではないだろうか、とアナイスが思っていると、彼女の心を見透かしたように、

「見つけたのは、エヴァンの方が先だと思っているわね」

とエリザベットが言った。

「そしてもちろんあなたも、私より先にピアノを聴いているわね。弾いたのはエヴァン?」

 心にぐさりと突き刺さるような言い方だった。アナイスは言葉を返せなかった。

「気を悪くなさったのならごめんあそばせ。でもエヴァンにはあなたから伝えてちょうだいよ、ピアノは私が預かっているだけだって。いつでも相応しい人に引き渡す用意があるわ……」

 馬方がエリザベットの指示を仰ぎに走り寄って来た。彼女はうなずくと荷馬車に対して号令を出した。

「それでいいわ。出発してちょうだい、荷物を大事にね」



 間もなくベルシー女公爵と公爵令嬢はそれぞれの帰途についた。女公爵はベルシー領へ、公爵令嬢は王都へと旅立っていった。到着時と同様に、客人と使用人一同が列を作って馬車の隊列を見送った。見送りの人の中にエヴァンの姿はなかった。またいつものように遅れて姿を現すのかもしれなかった。そうあってほしいとアナイスは思った。



 入れ替わるように、馬車寄せに一台の箱馬車が入って来た。その馬車を見てジュリーが歓声をあげた。

「私の馬車よ!」

 ジュリーが馬車に向かって手をふると、顔見知りの馭者も手を挙げてそれに応えた。数日前に手紙を書いて呼び寄せた馬車が、ようやく到着したのだった。

 ただ、ジュリーの馬車からは思いがけない人が降りてきた。

「お母様……」

 母親の姿を見るとジュリーは慌てて膝を折って挨拶をし、アナイスもそれに倣った。

 山荘に来て以来、ジュリーから母親へ、近況について知らせる手紙は送っていた。しかし、来るようにと依頼したものではなかった。一体どうしたというのだろうか。

「ラグランジュ伯爵夫人からお手紙をいただいたの。あなたのことでお話があると伺ってね」

とジュリーの母親のロッティルド夫人が言った。夫人はジュリーと並んでいるセドリックをじろじろと見まわした。セドリックは目が合うと微笑みを返した。慌てた様子は全くなかった。

「私はリュミニー子爵です。後ほど正式にご挨拶に伺いますね」

 セドリックはロッティルド夫人の手を取って挨拶をすると、正面玄関の方へと促した。そこではラグランジュ伯爵夫人が、ロッティルド夫人の到着を待ち受けていた。



「アナイス」

 不意に呼ばれて、アナイスは驚いて振り返った。呼んだのはセドリックだった。

「あなたに頼みたいことがあるのですが、お願いできませんか」

「何でしょう」

「急ぎ、衣服を私の屋敷まで届けて欲しいのですが……私はジュリーのお母上と話があって動けないのです」

 そういう事情ならば、とアナイスは承諾した。

「感謝します。屋敷までは私の馬車を使って下さい。馭者があなたをお連れします」

 言うが早いか、セドリックは車係に合図を送った。山荘まで自分が乗って来た馬車を再び回送して呼び寄せるためだった。

「ても、私があなたの馬車を使ってしまったら、あなたはどうやってお屋敷にお帰りになるのですか?」

 アナイスの質問にはジュリーが答えた。

「私の馬車でお送りするわ」

 ジュリーはセドリックと微笑みを交わした。ジュリーが自分の馬車を動かせる今となっては、それが可能なのだった。


 間もなくセドリックの箱馬車が車寄せに用意された。山荘の執事もやって来た。

「では頼みます」

 執事が手にしていた衣服をセドリックに渡し、セドリックがまたそれをアナイスに手渡した。男物の上着のようだった。

「助かりますお嬢様、エヴァン様にもよろしくお伝えください」

と執事は言い添えた。

 この執事の発言をアナイスは不審に思った。どういうことかしら? 私はエヴァンへの用を頼まれたということ?

 それでももう後には引けなかった。

 走り出した馬車の窓からは、笑顔で手を振るジュリーとセドリック、頭を下げる執事の姿が見えた。



***


 ジュリーの話はまとまった。

 明日以降、よい日を選んでジュリーはセドリックと共にリュミニー領に向かう。母親はレーヌ地方にいったん帰り、両親揃ってから娘の元を訪れて二人を祝福する。

 リュミニー領に着いた後、ジュリーはそこでブドウの収穫開始を宣言する。宣言するのは伝統的に領主夫人の役割だが、物事の順番が多少前後するのは気にしない、ということになった。


 夜になればいつも自分の別邸に戻るセドリックだったが、ラグランジュ伯爵夫人のすすめもあって今日は山荘の部屋に滞在することになった。先々の話をもう少し整理しておく必要があった。


 ロッティルド夫人は自分の娘に釘をさして言った。

「あなたも今日は私がいただいたお部屋で休むのよ。まだ話がありますからね」

 ジュリーは母親の言葉に素直にうなずきながら、心の底ではアナイスのことを思っていた。今日の夜は、部屋でアナイスを一人にすることになりそうだった。

 そもそも、彼女は今日は帰って来るかしら……。

 

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