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夏の日の歌  作者: 井中エルカ
余暇のはじまり
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第4話 歌の名前は

 アナイスがピアノの前に戻ったとき、ジュリーが手招きをした。アナイスはその隣で、何くわぬ顔をして歌の練習に戻った。ジュリーはささやいた。

「手紙、あった?」

「うん……、でも、もういいの」

 アナイスはうつむいて口を閉ざした。手紙は取り戻したが破いてしまった。ピアノを弾く青年と出会ったことについては話したくなかった。

 ジュリーも手元の楽譜に目を落とした。アナイスのふさぎこんだ様子から、追及することはためらわれた。


 歌の教師はモーラン先生という名前だった。練習の最後にモーラン先生が言った。

「今度の演奏会でみなさんに歌っていただく曲を発表しますよ」

 ピアノの周りの女性たちがざわめいた。

 一週間後に、二階の広間で音楽夜会が開かれることになっていた。音楽家たちを集めて楽器演奏や歌唱を楽しむ夕べの会。その前半部分では招待客の女性たちも、それぞれが歌を披露する予定が組まれていた。


「今まで練習してきた曲ですから自信を持って。……さん、あなたには……の歌を……」

 曲目が発表されるたびに歓声が起こった。

 ジュリーの曲の番になった。

「あなたには、『夏の日を賛える歌』を。宮廷音楽家のドゥラエ先生の曲ですよ!」

「まあ、私でよろしいのかしら……」

 ジュリーは控えめに言って微笑んだ。曲名に対して歓声は起きなかった。

 それは地味な歌だと思われていた。技巧的にも聞かせどころがなく、あまり人気の作品ではなかった。

 しかし静かで穏やかな歌詞と主旋律がアナイスは好きだった。特に伴奏のピアノが好きで、練習中は歌よりもピアノ伴奏に聞き入っていることが多かった。

 ジュリーが歌うことになったのは、アナイスにはうれしかった。


「アナイス、あなたには……」

 モーラン先生が言ったとき、アナイスは急いで辞退した。

「先生、私は結構です。あがってしまって、人前では歌えないんです……」

 女たちが一斉にアナイスの方を見たので、アナイスはにっこりと笑ってやり過ごした。

 その頃になって、ようやくエヴァンが姿を見せた。アナイスより先に小部屋を出たはずが、今頃になって現れたのだった。彼は男性陣に挨拶をしながら一人でソファに腰を下ろした。



 歌の練習は終わり、集まっていた女性たちも三々五々散っていった。

 それに変わって、客のうちのピアノの得意なものがその腕前を披露したり、周囲に集まった人がその腕前を称賛したり、関係のないおしゃべりをしたりした。


 アナイスはエヴァンを注視していた。

 いつ自分の手紙のことを暴露されるかと、気が気でなかった。自分が人々の物笑いの種になることを想像して、陰気にその瞬間を待っていた。しかし、そうなる気配は一向にやって来なかった。エヴァンはアナイスの方を見ようともしなかった。

 そのうちにエヴァンは、誰かとの話の途中で「あなたはピアノをお弾きになりますか?」という質問に対して、

「いや、僕はピアノは弾きません」

ときっぱりと言った。

 それはアナイスにも聞こえた。

 会話の相手は「そうでしたか」と応じ、何の疑問も持たなかったようだ。しかしアナイスは不審に思った。

 音の狂ったピアノを自在に弾けるような人が、弾かない、だなんて。何の理由があるのかしら。


 確か彼は『ピアノを弾いて暇つぶししていたなんて、誰にも言わないでくださいね』と言った。それを聞いたとき、暇つぶしをしていたことを人に知られたくないのだと、アナイスは思った。しかし、本当に知られたくないことは、ピアノを弾いていたこと、そのものなのかもしれない。


 エヴァンの方に特に動きがないのをみて、アナイスはセドリックのいる人の輪の中に近づいた。彼はちょうど誰かの冗談に笑ったところで、笑い終わった所でアナイスと目が合った。

 アナイスは憧れの人に話しかけた。

「ワルツの名手でいらっしゃるんでしょう?」

「ダンスは好きですよ」

 セドリックは笑顔で応じた。

「踊るのを楽しんでいらっしゃる?」

「ええ。一緒に踊るすべての人とともにね」

「私とも、楽しんで踊ってくださる?」

「もちろんですとも、お嬢さん。この次にはぜひお相手を」

 短い会話の後、アナイスは顔を真っ赤にしてうつむいた。短い言葉を交わしただけで舞い上がってしまった。幸せだった。


 セドリックは自分が理想と思い描いていた貴公子そのものだった。世の中にはこんな人がいるのかと驚き憧れ、心を奪われた。

 山荘にいる間中、アナイスはその容姿と振舞いとを目で追った。彼はその場にいるだけで、まるで陽の光を振りまいているようだった。

 彼が子爵様と呼ばれる身分の人であることも知った。本来であれば、彼は自分とは一生縁のない世界の人だったかもしれない。この山荘に来て、彼と出会えたのはジュリーのおかげだった。


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