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夏の日の歌  作者: 井中エルカ
音楽夜会

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35/41

第35話 宮廷音楽家

 エヴァンは呆然として彼の主人に聞いた。

「エスカール伯爵……この国へはいつお着きに。存じませんでした」

「三日前に帰って来たばかりだ。二年ぶりに戻ると、自分の方が外国人になった気分だな」

 伯爵は隣のドゥラエと笑い合って言った。

 エスカール伯爵は新しい仕事のために宮廷音楽隊を訪れ、そこでドゥラエに会ってお互いの音楽性に近しいものを感じ、二人はすっかり打ち解けていた。


 エヴァンの休暇中にエスカール伯爵はフォーグル国大使の任を解かれ、すでに後任の大使は赴任済みであった。伯爵は今度の冬にフォーグル国王夫妻が我が国を訪問するのに合わせて、その歓迎式典長官に任命されていた。

 エスカール伯爵は事情を話した後で、「まさか君もここにいるとは」と付け加えて笑った。エヴァンの苦しげな表情とは対照的に、さわやかな笑顔だった。


 エスカール伯爵は完璧主義者の傾向があり、他人の仕事振りに我慢がならないと時々癇癪を起こした。しかし伯爵が気に入った人間には気さくに声をかけていた。

 伯爵のことを恐れる人もいたがエヴァンは気にならなかったし、伯爵の方でもエヴァンの仕事ぶりや音楽性を評価していた。


 ドゥラエが口髭を撫でつけてエヴァンに言った。

「君たちの演奏は悪くなかったね」

「作者の指示通りに弾きませんでした、お許しを」

 彼は伴奏に余分な旋律を入れたり、後奏を打ち切ったりしたことを謝罪した。ドゥラエは怒らなかった。

「音楽を損なうものではなかった。構わない。君たちの抑制された表現は、私の解釈とは違うが、品がよくて、それも良いと思ったよ」

 差し出された手を取って、エヴァンはドゥラエと握手を交わした。最高の誉め言葉だった。


「それに」

ドゥラエはにやりと笑った。

「君はお行儀の悪い連中を黙らせる方法を知っているね、結構、結構……」

これは曲の初頭で、エヴァンの派手な弾き方が聴衆の注意を引きつけたことを言っていた。エヴァンは恐縮した。ドゥラエは上機嫌で続けた。

「君、宮廷音楽隊のピアノ奏者に空きが出たんだが、興味はあるかね?」

 エヴァンが答えないでいると、彼の主人が間に入って、

「冗談はやめてください、彼は我が家の楽師ですよ」

といって笑った。

 エヴァンは笑っていられなかった。


 『許可なく他人に楽曲を提供したり、演奏をしたりしてはならない』


 今夏の休暇で、エヴァンは恋人のために演奏する許可をもらっていた。しかしアナイスは許可された相手ではなかった。

 エスカール伯爵本人が、証人だった。彼の主人の見る前で、エヴァンは他人のために演奏をしたのだった。言い逃れはできなかった。

 エヴァンの心配をよそに伯爵は言った。

「せっかくだから、何か弾いてくれ。久しぶりに君のピアノを聞こう」

 三人は空いている応接室に移った。遊戯室の続きの間で、そこにはピアノがあった。



***


 エヴァンは最初、伯爵の好む古典音楽家の曲を弾いていた。が、途中で伯爵が「舞踏会用の曲を」と言ったので、宮廷舞踊の優雅な音楽に変えた。

 伯爵が首を横に振ったので、先日の舞踏会で聞いた曲を演奏してみた。

 それも違うようだったので、今度はフォーグル国の宮廷で流行していた音楽を弾いた。

 これは遠くないようだった。エヴァンはフォーグル国風の旋律を取り入れて、何種類かの舞踊の曲を演奏した。


「前に発見した楽譜の主題を取り入れて」

 次にエスカール伯爵が指示をしたのは、フォーグル国で音楽家にゆかりの聖堂を訪れた時に発見した楽譜についてだった。エヴァンもその楽譜を見て写譜をしたこともあった。主題を発展させて、いくつかの変奏曲風に即興で弾いた。

 やがて伯爵がもう結構と言うように手で制したので、エヴァンは再び古典音楽家の曲に戻った。伯爵とドゥラエは言葉を交わし、ゆっくりとうなずき合った。


 しばらく話し合いが続いた後、ドゥラエが席を立って、伯爵は彼を部屋の出口まで見送った。エヴァンも立ち上がろうとうとしたが、伯爵がそれを制したので、彼は目礼だけで挨拶を送り、ピアノを弾き続けた。

 ドゥラエは去り際、エヴァンに向かって、

「今の仕事に飽きたらいつでも訪ねて来なさい」

と言い残して行った。それを聞いてエスカール伯爵は苦笑いした。


 ドゥラエが去ると、待ちかねたように伯爵が言った。

「君たちの演奏を聞いてすぐにわかった。『夏の日を讃える歌』を歌った彼女が、君の恋人だね?」

 エヴァンは演奏の手を止めて立ち上がった。

「いいえ」

 エヴァンははっきりと言った。

 アナイスのことを好ましく思う気持ちに間違いはなかった。だからこそ、自分だけの都合で身勝手な発言をすることは避けたかった。エヴァンの気持ちに迷いはなかった。彼女のために伴奏したことも全く後悔していなかった。

「彼女は私の恋人ではありません」

 エヴァンは静かに繰り返し言った。エスカール伯爵は呆気にとられた。彼の楽師の、初めての反抗だった。

 もしかしてと思って、伯爵は別の可能性についても尋ねた。

「では、もう結婚して君の妻に?」

「それも違います、残念ながら」

「違うと?」

「はい」

 再三の問いに対してエヴァンの態度は変わらなかった。

 しばらくの沈黙の後、エスカール伯爵はエヴァンから顔をそむけた。

「分かった。残念だ。契約のことは追って執事に連絡させる。君は、ドゥラエの所に行ったらいい」

「申し訳ありません」

 伯爵は椅子を立った。エヴァンは頭を下げたまま、彼の主人が出ていくのを見送った。


 再び、エヴァンはピアノを弾き始めた。偉大な古典作曲家の曲だった。その曲中には完成された様式美が備わっている。

 頭の中で鳴り響く音をただ指先に移して、彼は音楽を再現した。多声に重なる旋律、記譜された通りの音符と休符、一定の速さで正確に拍を刻みながら、彼は演奏に集中した。まるでそれ以外のことを考えまいとでもするかのように。


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