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夏の日の歌  作者: 井中エルカ
余暇のはじまり
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第3話 忘れ物

 遊戯室では山荘の招待客たちがゲームを楽しんだり、ソファでくつろいだり、おしゃべりをしたりして、思い思いに過ごしていた。女性陣と男性陣のゲームのテーブルは少し離れた位置にあったが、ゲームをしながらもお互いのテーブルの様子をちらちらとうかがっていた。

 いつの間にか談笑をする男性陣の中にセドリックが参加していた。彼は連れと二人で到着したはずが、もう一人の姿はそこにはなかった。


 ゲームの後は、招待客のうち若い女性たちだけで集まって歌の練習をすることになっていた。

 ピアノのある続きの間に移動しようとしたとき、アナイスは重要なことを思い出した。すでにピアノの前では歌の教師と伴奏者が待っていて、練習の開始を待つ間に愛想よく挨拶をしていた。


 アナイスは親友の耳のそばでささやいた。

「ジュリー、例の手紙は持ってる?」

「え?」

 ジュリーは一瞬考えて、それからあっと小さく叫んだ。

「私、置いてきたままにしてしまったたかも」

「さっきの小部屋で読んでいた時?」

「きっとそうよ、ごめんなさい、大変なことしちゃった、すぐに探しに行かないと……」

 ジュリーは頭を抱える仕草をしたが、本当に頭を抱えたいのはアナイスの方だった。


 アナイスはピアノの方に向かって言った。

「先生方、少し失礼してもよろしいですか。思い出したことがありまして」

 教師たちはどうぞ、と慇懃に言った。

 アナイスはついて来ようとするジュリーを制して言った。

「私、行ってくる。ジュリーはここにいて。歌の練習をした方がいいわ」

 アナイスは一人で遊戯室を飛び出し、うかつだった自分を悔いた。

 あの手紙が、どうか、まだその場所にありますように。誰にも見つかっていませんように!



 アナイスは小走りに駆け出し、例の小部屋に向かった。

 前室の旧い大広間にたどり着いたとき、アナイスは奥の方から音楽が聞こえて来るのに気づいた。ピアノの音色のようだった。こもったような小さな音で、静かに響いていた。

 アナイスは不思議に思った。ピアノなんて置いてあったかしら?


 そっと様子をうかがうと、音楽は確かにピアノから聞こえているのだった。窓際に置いてある、一見して書き物机に見えるのが、実はピアノだったのだ。アナイスもジュリーもそれには全く気付かなかった。

 ピアノの前では男が、立ったままピアノを弾いている。

 アナイスが忘れた手紙は、ピアノの鍵盤の右脇にあるのが見えた。折りたたんだ状態で宛名が上面に見えていた。

 

 ピアノの演奏は続いていた。

 演奏者はアナイスが来たことに気づかないようだった。アナイスには演奏をずっと聞いている余裕はなかった。小部屋の入り口付近から声をかけた。

「あの、お邪魔をしてすみません、忘れ物を取らせていただいてもいいですか」

「忘れ物?」

 和音を大きく鳴らして演奏を打ち切ると、男は振り返った。若い男だった。


 エヴァンはセドリックと別れ、一人でピアノを弾いているところだった。そこにアナイスが現れた。エヴァンは声をかけてきた若い女性が誰なのか、知らなかった。

 アナイスの方は、その男に見覚えがあった。確か、セドリックの友人で、いつも彼とは気安く口を聞いている。でも彼の名前は知らなかった。

 セドリックの知り合いと分かり、アナイスは自分が一層の冷や汗をかくのを感じた。

 私の手紙は、この人に読まれてしまったのだろうか。そうだとしたら、まだ本人にも渡していないのに、セドリックにも知れてしまう? ほかの皆にも……?


「あの、そのピアノの上に、手紙を……」

 アナイスは演奏者の男とは目を合わせずに言った。

 彼の方は合点がいったようにぽんと手を叩き、ピアノの上の手紙を手に取った。

「これですね、どうぞ」

 彼が手が手紙を差出して、アナイスがそれを受け取った。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 手紙の中身については言及されなかった。


 中身を見られていないならよかった。アナイスはほっとして、話しかけた。

「それ、ピアノだったんですね。机だと思ってました」

「そうですね。ちょっと見じゃわかりませんね」

 彼は軽い調子で答えた。手の甲側の指で、鍵盤を音階の下から上に向かって滑らせて弾くと、ところどころで調子の外れた音が鳴った。

「壊れているのですか?」

 アナイスは訊いた。壊れていたにしても、さっきまでこの人は、このピアノでちゃんと曲を弾いていた。


「いいえ、壊れているわけではありません」

 彼は首を振った。

「音程が狂っているだけで、調律すれば元通りになりますよ」

「でも……」

 アナイスがなおも不審な顔をしているのを見て、彼は鍵盤の上に手を置いた。

「ずれているのを分かって弾けば、大丈夫」

 鍵盤の左から右に向かって手が動くと正しい音程の音階になった。それから無造作に曲の主旋律と思われる部分を弾き、演奏を終わった。音程のずれた分を考慮に入れて、本来の鍵からわざとずらして弾いているのだった。アナイスは驚いた。

「でも、ずらして弾くなんて、誰にでもできることではありませんよね?」

「そうかもしれませんね」

 他人事のような答えだった。


 彼は鍵盤の前面の囲いを戻し、蓋を閉めた。

「お願いですから、僕がここでピアノを弾いて暇つぶしをしていたなんて、誰にも言わないでくださいね」

「ええ。言いません」

 あまり深く考えずにアナイスは応えた。

「それからですね」

「はい?」

「どんな内容の手紙であれ、差出人の名前はあった方がいいですよ。名無しじゃあ、受け取った相手も返答に困るでしょうから」


 では失礼、と言って彼はアナイスの横を通り過ぎて行った。変な忠告だなとアナイスは思った。

 念のため取り戻した手紙を見返した。

 宛名は書いてあったが、手紙のどこにも自分の名前はなかった。

 アナイスは顔が熱くなった。猛烈に腹が立った。くやしさのあまり手紙を引き裂くと、それを丸めて握りしめて床を足で踏み鳴らした。

「ああ、もう!」

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