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夏の日の歌  作者: 井中エルカ
散策

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22/41

第22話 来た道

 『許可なく他人に楽曲を提供したり、演奏をしたりしてはならない』

 エヴァンがエスカール伯爵の楽師の一人として雇われたとき、契約にはその一項があった。エヴァンは伴奏ピアニストとして採用された。


 エスカール伯爵家は代々音楽愛好家として知らる名門の家柄で、今の当主も自分で歌曲を歌う他、バイオリンを演奏する。エヴァンの最初の仕事は伯爵や家族のために演奏や伴奏をしたりすることで、流行の歌や曲を伯爵やそのほかの楽師たちの合奏用に編曲したりすることも手掛けた。そのうちに楽譜の整理や、所有する楽器の管理にまで手を広げて任されるようになった。彼は器用にすべての仕事をこなした。

 エヴァンは重宝され、どちらかというと伯爵家に便利に使われていたが、彼は若くて多くの仕事をこなす体力も気力もあったし、音楽家たちとの付き合いは全く苦にならなかった。


 エスカール伯爵が大使としてフォーグル国に赴任した際もその任に付き従って、彼は現地での音楽外交を助けた。エヴァンの勤勉さ、技術の確かさは、自国よりもフォーグル国での方でまず評価された。もともとエヴァンの父がフォーグル国の出身だったこともあり、彼自身も違和感なく、現地での社交によく馴染んだ。


 二年間を異国の地で過ごした後、彼は休暇を願い出た。遠く離れていた恋人の、二十歳を祝う演奏会の知らせを人づてに聞いたからだった。なぜかその知らせは、彼には直接届かなかった。そのことについてエヴァンは不審に思った。

 エスカール伯爵はエヴァンの休暇と、彼が恋人のために演奏することについて、快諾した。

 

 しかし、彼が恋人のために演奏する機会はついに来なかった。


 エヴァンの恋人はマリーという名前の歌手だった。遠方から久しぶりに戻った彼を待っていたのは、マリーと彼女の新しい恋人だった。相手は最近人気の出始めたピアニストで、二人の関係は周囲に認められていた。エヴァンだけが知らなかった。


 マリーは昔の恋人に怒りをぶつけた。

「何で今ごろ戻って来たのよ。どうせなら、最後まで顔を見せないでくれたらよかったのに」

「……」

 彼の心は自身から離れて、どこか冷静に、彼女を責めることはできないのだと判定を下した。自分は恋人と離れ過ぎたのだ。



 何も考えられないまま、エヴァンの足は近くの教会聖堂に向かった。

 扉は開かれていた。司祭がオルガンを弾いて祈りの音楽をささげていた。訪れていた人々に習って、彼もひざまずいて頭を垂れた。音楽も言葉も聞こえた気がしない。ただ彼の傍を通り過ぎて行った。

 祈りの時間が終わると人々は司祭を言葉を交わし、一人、また一人と去って行った。最後にエヴァンが司祭と向き合った。

「あの……」

 彼が言ったのは自分でも思いがけないことだった。

「レのシャープの音が、その音だけが不思議な音がしました。中に何か異質の物が詰まっているような……」

 心は虚ろで、しかし耳は音を聞き分けていた。


 縦に並んだパイプのうちの一つをエヴァンが指摘し、司祭とエヴァンはオルガンを分解した。そのパイプの中には、大量の埃と、小さな金属のメダルが入っていた。

 司祭は驚いて言った。

「これは、聖人の銀貨ですよ! この聖堂の守護者です。少し前に失くなったものでした。こんな場所で見つかるなんて」

 司祭は祭壇の上に置かれた箱を開け、メダルをその中におさめた。箱に鍵はかかっていなかった。

「大方、子供のいたずらでしょう」

 オルガンのパイプはむき出しになっていて誰もが触ることができた。パイプの笛の唄口部分から、投げ入れたのかもしれなかった。用心が足りないのではないかとエヴァンは思った。

「大事な物なら、なぜ鍵をかけないのですか」

「これは必要なものを贖って、必ずこの場所に戻ってくるという言い伝えがあるのです」


 その昔、風雨で聖堂の屋根が壊れたとき、守護聖人が司祭の夢枕に立った。

『私を銀貨に変えて、我々の家を建て直してください』

 驚く司祭に聖人はさらに告げた。

『私は必ず戻ります』

 司祭は言われた通り小さな聖人像を銀貨に変えて、聖堂建屋の修理を行い、銀貨で支払いを行った。

 三日後、祭壇の上にはその銀貨が置かれていた。奇跡か、お布施として戻ったのか、真相は分からなかった。

 同じようなことが何度か繰り返された。盗難にあい、困窮するものを救い、その銀貨は聖堂を離れても、必ず戻ってくるのだった。


「……というわけで、今回は聖人が、あなたを連れて来てくれたというわけです。助けをお願いできますかな?」

 エヴァンはよろこんで司祭の求めに応じた。伝承を信じて心打たれたわけではなかった。ただ、そうするのが自然に思えたからだった。


 三日かけて司祭とエヴァンはオルガンのすべてのパイプの埃を取り除き、空気穴を調整した。すべてが終わって再び司祭がオルガンを弾いたとき、音色は全く変わって響いた。驚くほどだった。

「あなたもお弾きになりますか」

「いいえ」

 エヴァンは即答した。エヴァンはオルガンも演奏できたが、今はまだ弾ける気がしなかった。司祭の申し出も謝礼も断って、聖堂を後にした。



 思いがけない場所で数日を過ごした後、予定通りエヴァンはセドリックを訪ねた。

 再会した時、エヴァンが一人でやって来たのを見て、セドリックは事情を察した。エヴァンに恋人のいることはセドリックも知っていた。次に会う時には二人連れかもしれない言っていたのに、彼は独りだった。

「見ての通り。僕は振られたんだ」

 エヴァンは努めて平静に振る舞った。特別の気遣いは、いらない。


 セドリックはラグランジュ伯爵夫人からの招待状を受け取ったところで、エヴァンに尋ねた。

「君の休暇はいつまでだっけ?」

「八月の終わりまで。あとひと月ある」

「じゃあ、一緒に出掛けないか」

「君が来いと言うならどこへでも」

 エヴァンは二つ返事で承知したが、

「でも今回は音楽家ではなくて、君の友人として」

と条件をつけた。

「それは問題ないと思う……でも、君が演奏しなかったら、かえって目立って不審に思われないだろうか」

「問題ないよ。僕はこの国では顔が売れていない」


 エヴァンはまだ気持ちに整理がつかないでいた。

 僕は弾いていいのだろうか。人に聞かせる演奏ができるのだろうか。誰かのために弾く、その資格があるのだろうか。最も聞かせたかった、その人のために弾けなかったのに? 

 

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