第15話 馬車を降りる
アナイスは居心地が悪かった。
湖畔へと続く道を馬車はゆっくりと進んだ。道の片方には見晴らしのよい牧草地が広がり、もう片方はで木々が風にざわめく音がした。
エヴァンは馭者と世間話をしているようで、時々彼の屈託のない笑い声が聞こえてくる。
残る座席の三人は目の前に広がる景色をほめたたえ、これから向かう湖畔への期待について話した。山荘の女主人や客人たちの噂話にも花を咲かせ、セドリックは話術も巧みに、時にほかの客人の真似をして二人を笑わせた。
終始和やかな雰囲気の中で、アナイスは居心地の悪さを感じていた。
セドリックもジュリーも、何かとアナイスが話すようにと促す。
しかしセドリックが、アナイスよりもジュリーの話を聞きたがっているのは、彼の態度から明らかだった。ジュリーにかける言葉の方が長く、ジュリーを見つめる時間の方が長い。
ジュリーの方からは、セドリックとアナイスとの間を取り持ちたいという必死さが伝わって来た。セドリックに同意を求められた後には、必ずアナイスの意見も求めた。
アナイスには二人の気遣いがかえってわずらわしく感じられた。
そのうちにセドリックが話題を転じた。
「そういえば、先日の舞踏会でジュリーと話したのですが、二階の端の小部屋について」
「小部屋?」
アナイスは訊き、セドリックはうなずいた。
「旧い大広間の先に、隠れるように小部屋があって、色んな骨とう品が押し込んであるんです」
それはジュリーとアナイスが、二人の秘密にしてきた小部屋のことを言っているようだった。
その小部屋の窓からはジュリーがセドリックに手を振った。セドリックへの恋文を置き忘れてきた場所でもあり、アナイスはそこでエヴァンにも出くわした。
「……そこにある骨とう品なのですが、全部が伯爵様にゆかりの品で、山荘を改装したときに、伯爵夫人が山荘中から集めて、一か所にしまい込んだそうですよ」
ラグランジュ伯爵は亡くなって久しかった。伯爵夫妻は夫婦の不仲が知られていた。夫人が夫を懐かしむ素振りを見せたことはなく、周囲もあえて伯爵の話題には触れようとしなかった。どちらかというと、夫人の前ではその話題を避けていた。
セドリックは、伯母の伯爵夫人とは親子のような気安い関係だった。彼だけは、はばかることなく夫人にその話題を聞くことができた。セドリックは続けた。
「品々を見ると伯爵様のことを思い出すから、見るのも嫌だとおっしゃってました。でも」
話す彼の瞳がきらめいた。
「話を伺うと、旧い大広間は伯爵様と伯母上が出会った思い出の場所なんですよね。今回、改装もしないで、その場所だけ昔の姿のままでとどめられていて……思い出の品々も、集めてとっておかれているわけでしょう。伯母上は実は、……だったのではないかと思うのですが」
「本当のところは、ご当人にしか分かりませんわね」
ジュリーが感想を言った。
アナイスもジュリーに対してうなずいた。
亡き後も一途に思い続けていると考えるのは、都合のいい想像だと思った。男性というものは女性に比べて純粋で夢想家だと思った。伯爵夫妻は不仲だったと聞くし、思い出の品とやらは単に見えないところに厄介払いしただけとも考えられないだろうか。
アナイスは昨日までは、セドリックが言うことには何を聞いても素直にうなずいていられた。しかし今日という日になってからは、すべてを批判的に聞かずにはいられなかった。自分で自分の変化に気づき、嫌な気分になった。
アナイスは馭者台に向かって言った。
「すいません、止めてください」
馭者には聞こえていないようだった。
「馬車を止めて」
もう一度言うと、エヴァンが一瞬座席の方を振り返った。彼は馭者の肩を叩いた。馭者が手綱を引いた。
馬車が止まるとアナイスは自分で扉を開けて馬車から飛び降りた。唐突なことで誰もがあっけにとられた。
「せっかく天気がいいから、私はゆっくり行くわね。どうぞ先に行っていて」
アナイスは扉を閉めた。背を向けると柵の間から牧草地の方へと歩きだした。
「アナイス……」
ジュリーが心配そうに声を出した。
馭者は再び手綱を引いた。
座席にジュリーとセドリック。馭者台にエヴァン。
しばらく進んだところでエヴァンが言った。
「すまないが、もう一度止めてくれ」
馭者は面倒くさそうに手綱を引いた。馬車が止まるとエヴァンは馭者台から飛び降りた。
「エヴァン?」
セドリックが座席から身を乗り出した。エヴァンはセドリックを見上げ言った。
「近くに性質の荒い雄牛がいるらしいんだ。一人歩きは気をつけるように、彼女に言ってくるよ」
それはいつもの暇つぶしにと一人で歩いていた時、農夫から聞いた情報だった。
馬車は座席に二人を乗せてまた走り出した。




