竜の巫女
十月十日は一日つかって準備をし、翌日の日の出前に、俺たちは部屋を出ていた。
湖の南側を西へと向かう。
俺は下着の上に鎖帷子をすっぽりと着て、太腿までをそれで守る。その上にシャツ、下半身は革のズボンで収納にはナイフを隠した。靴は編み上げ靴で鉄が入った戦闘用のものだ。上着は革製で、俺が持っているアウターのなかで最も頑丈なものだ。首には革製の首輪をはめて急所を守るのは気休めかもしれないが、ないよりはマシである。そしてマントを羽織っていた。脛当てと腕当ては服の上から装備した。盾は移動の邪魔になるかと思い、今回は持たない。愛用の剣の他、短剣を選んだ。その二本を腰の左右でベルトに結びつけている。さらに背には荷物入れをぶらさげている。紐で縛る大きな布製の袋には、着替え、砥石、火打石、コンパス、鉛筆、羊皮紙などなど、とくに靴下はたっぷりと用意した。
お姫様の荷物はレイが用意し、彼は二人分の着替えを背負っている。女性ものの下着類を買うレイを想像して笑い、どうした? とサリウドに尋ねられたので話すと彼も笑った。
アイリーン殿下は絹服の上下の上に、革製の上着と靴、マントはフード付きで顔を隠すこともできる。防具類を装備していないのは、仕方ない。城を抜け出した格好の延長といえば早いだろう。
レイは絹服の上に胸当て、腹当て、肩当てなどなど、上半身と下半身を守る軽鉄製の防具を装備していてうらやましい。軽鉄製の防具は高いので、なかなか手がでないが、彼は姫の専属護衛を務めているだけあって、いい装備だった。剣もおそらく銘持ちと呼ばれる魔法の剣だろうと想像する。見せてもらったが、刀身にびっしりと古代ラーグ語と竜言語が刻まれていた。しかし彼は剣の銘を知らないという。七百年前、竜王の眷属と戦った時に相手が使っていた剣で、勝ったから奪ったとのこと……。
「レイはいくつなんだ?」
森の中を歩きながら、俺が問うと彼は首を傾げた。
「さぁ……八百歳までは数えたが、あとはもう面倒になった」
「……見た目、人間でいう三十代だから、もっと二千歳を超えて生きるかもしれない?」
「かもしれない……でも、姫様のほうが寿命は長い。俺と年齢は変わらないけど、まだまだ容姿が若いから」
「……」
えげつない……。
エルフの寿命は個体で差があるが、ハイエルフと呼ばれるエルフの中でも特殊で高貴な存在は、寿命がおそろしく長いと言われている。氏族の長とその直系ともなれば、竜や神に匹敵する時間を生きる。だからかもしれないが、彼ら彼女らは神の器と呼ばれていて、神降しという召喚儀式をおこなう際の器に適していると知っていた。
「俺は三二二歳だ」
会話に加わったサリウド。
人間でいうと、彼らの平均寿命からして四十代前半といえる。
サリウドは胸と腹を隠す防具と、腰回りを隠す革ズボンの他にはマントだけで、革ズボンのベルトに装着した短剣が武器だが、彼らの強さは強靭な脚力を活かした一撃離脱戦法なので、動きやすいほうがいいのだろう。ただ、今回は荷物持ちということで、大きな荷物入れを背負わされた彼には、一撃離脱戦法で活躍してもらうのは無理そうだ。
「エリオットは……たかだが二十二年しか生きてないってのは逆にすごい。二十年ちょっとでよくそこまで強くなれるな?」
レイの褒め言葉に、あんたらがのんびりし過ぎなんだと思ったところで、違う可能性に気づく。
エルフや人狼が、人間と同じように成長するならば、きっと人間は一生かかっても彼らには勝てない。おそらく、人間は戦うことに関しては、地上のあらゆる種族の中でも成長速度が早いのではないか……。
そんなことを口にすると、伸びた木の枝をひょいと躱した姫君が口を開いた。
「そうですね。人は我々……神の姿に似せられた生物たちのなかで最も戦闘向きかもしれません。好戦的でもありますし、実りへの欲望も強い……神に最も近いといわれるハイエルフよりも、実は近いのかもしれません」
彼女は言いながら、俺が示した窪みを跳んで避けた。
先頭を歩く俺は、背後の三人が遅れていないことを肩越しに確かめ、斜面を登る。森の中は静かで、ときおり鳥たちのさえずりが聞こえる他、音はない。いや、俺たちが歩くたびに、落ち葉や小枝が音を鳴らす程度だ。
天候もよく、このまま歩けるだけ歩いてしまいたいが、旅に慣れない姫君は二時間も歩けば疲労が濃くなってきた。
岩場を見つけたので、そこで休憩をとることにする。
最後尾のサリウドが、地図を広げていた。
「記録している。歩く速度は約三ライン……出発からここまで砂時計を四度、ひっくりかえして今はこれくらいなので約一刻……六ラインほど進んだから、現在地はここだろう」
そういう地味な作業の才能を、全て捨てて戦うことに特化して生まれてきたらしい俺としては、彼のような存在はとっても助かる!
二時間歩いて、三十分休憩……効率が悪い。移動は明るいうちでないと無理だ。夜はそれこそ怪我のもとだ。足元の変化に気づけず、くじいたり崖から落ちたりと自滅する未来しかみえない……。
「殿下、脚は大丈夫ですか?」
ふくらはぎを揉む彼女は……細い脚だな! そりゃ疲れるわ……野歩きとかしないだろうからなぁ……せめて靴がヒール高いものでなくてよかった。
「大丈夫。少し休めばまだ歩けます」
わかった。
昨日、あんな場所で敵と遭遇していたのは、彼女が疲れて休憩をとっていたところを発見されたな? このあたりは両軍の斥候が多いはずだから……。
「レイ、提案なんだが、このあたりは共和国軍の斥候や偵察の部隊も多く活動している。だから殿下を俺が背負い、俺の荷物をお前が運ぶ。どうだ?」
「……私がお運びする。荷物を頼む」
そっちをとるか。
わかった。
「了解。殿下、すみませんがここは急いで抜けたほうがいい地域です。よろしいですね」
「わかりました……」
こうして、俺が三人分の荷物を背負い……けっこう重い。着替えが多いはずだが、三人分ともなると厄介な重量だ!
「エリオット、俺が持とう」
サリウド!
お前はいい奴だ!
「エリオットはいざとなったら戦え。俺は一目散に荷物を抱えて逃げる。レイは姫様を背負って逃げる」
サリウドの提案に甘え、俺は荷物から解放された。
しばらく続く上り坂を登りきった時、視界が開けた。
イシュクロン王国が一望できる。
広大な森林に囲まれたカペラ湖の南岸、遠いところにはブログブニシェ、手前はロンディーヌだ。緑と黄と朱に彩られた世界に、人々の生活する都市が浮かんでいるようだ。そして湖は碧く輝き、空を映し出していた。白い雲が湖面に浮いているようで、絶景を前にしばらく動けない。
「この森を……守らないといけないのです」
アイリーン殿下の言葉。
彼女はここで、空を仰ぎ祈りを口にする。
「偉大なるバルボーザよ……安らかな眠りをどうかそのままで」
サリウドが、ここで疑問を口にした。
「しかし、それだけの大物が復活するというのを、殿下の他に気づくことができないので?」
「それは、わたしがバルボーザの封印の巫女だからです」
「竜の巫女……か」
俺は声に出していた。
七氏族には、それぞれ王国の運営とは別に、古代から続く役割があり、それが竜の封印を守ることだ。これは俺が、前世の記憶を持っているから知っていることで、ヴァス族の姫君であるアイリーン殿下は、竜王の封印を守る巫女なのだと彼女の言で理解できた。
俺が行方を捜しているイングリッドは、魔竜テンペストを封印する巫女だ。
こう思考を繋げたところで、頭痛に襲われた。
顔をしかめた俺に、レイが気付く。
「どうした?」
「いや、ちょっと頭痛がな」
なんだろう? こんなことは初めてだ……。
ここで、殿下が俺とサリウドを交互に見た。
「伝えておきます。どうして、わたしが父上に信用されていないかを」
それは、質問してはならないと思って黙っていたことだ。そもそも、彼女が王陛下に竜王復活を訴えた時、普通ならば王陛下は対応を決めるはずだ。しかし、王陛下は国防を理由に姫君を遠ざけた。
気にはなったが、訊くのは無礼だと思って避けていたのである。
殿下は、レイの肩をギュっと握って言を続けた。
「わたしは過去……今から三百年前はゴート共和国に人質として差し出されていました……当時の両国は、共和国を盟主とし、王国が属国となることで歪ながらも平和を保っておりました……その際、わたしは人質として、彼の国におりました」
それだけが理由とは思えないが……。
「わたしはそこで、共和国の人間を愛してしまったのです」
そういうことか。
ゴート共和国の、当時の誰かを愛した彼女は、その後に帰国したが、それを理由に一族からの信用を失っていたのだ。
「わたしは、三百年前のゴート共和国主席執政官で、魔王とも呼ばれたアルフレッド・マーキュリーの子供を身籠りました……人とエルフの間では本当に奇跡のような確率ですが、子供を授かることができたことで、父上や母上……一族から距離をおかれています」
「御子は?」
「……引き離されて……もう二百年以上、会えていません」
俺は気の毒な姫君の横顔から、視線を逸らすことができない。
彼女は涙を指でぬぐい、さらに続けた。
「それでも、巫女の役目はわたしが死ぬまで降りることはできません……父上や周囲は、わたしがゴート共和国に戻りたいから、エルフらしからぬ嘘をついていると決めつけて……人と交わったエルフは、嘘をつくようになる……物語でも語られる逸話の通りです」
それは知っている。
エルフは本来、嘘をつかない。というか、嘘をつくという概念がない。だが、人と交わったエルフは、人のように嘘をつくようになるという。有名な例がイングリッドだ……。
「たしかに、わたしはアルフレッドと愛し合ったことで、嘘をつくことを覚えてしまいましたが、竜王が蘇ろうとしているなどということを、事実でもないのに言うはずがありません……お二人にはまだ話していなかったので、お伝えします。どうか……お力を貸してください」
俺は一礼を返した。
「お手伝いをすると決めた時から、そのつもりです、殿下」
サリウドも俺にならって一礼したが、口にしたのは金のことだ。
「報酬をもらえるならばなんなりと」
レイが、無礼な奴という目でサリウドを見るが、彼は傭兵なので無理はない。俺が特殊なのだ。
前世があるから、俺はサリウドのような傭兵らしい反応をしないだけである。
「殿下、急ぎませんと」
レイの言葉で、彼女は頷く。
「感傷的になりました。この光景を見てしまったから……」
彼女はそこで瞼を閉じる。
それで未練を、断ちきるかのようだった。
王国を離れることに?
別のことに?
尋ねることはしない。
俺はただ、自分の役割を全うするだけだ。