長いながい悲しみ
十月二十九日の夜。
ブルガエーシュは、ゴート共和国軍の大軍を退かせたことでおおいに湧いた。
アベルは全員に一杯ずつの飲酒を許可し、自分のワイングラスを片手に俺の隣にいる。
士官室のひとつ、彼の部屋だ。
「いやぁ、まさか一人で蹴散らすなんて思わなかったよ」
彼は上機嫌だ。まだ一時的に敵が退いただけなので楽観はできないが、彼の気持ちはわからなくもない。
いきなり指揮官になってしまって、どうしたものかと悩んでいると、現れた俺が敵を追い払った。
お金、もらう契約にしておけばよかった……。
百万シリグはもらってもおかしくないんじゃないか? という欲がでてきた。
「なぁ、今さらお願いするのもなんだけど、報酬をもらえないか?」
「もちろん、そのつもりだ」
やった!
「ブルガエーシュには組合はないから、都のギルド?」
「いや、ロンディーヌだ」
「ああ、わかった。今日にでも手紙を出すよ。ただ……俺の権限で自由にできる予算の上限は五万が限界なんだ。許してくれ」
ご……五万!
ごまんしりぐ……。
いや、しかたない。もともと善意で残ったのは俺だ。それが、欲にかられて残念がっているだけだ……。
「ありがとう。助かるよ」
ここは、丁寧な対応が正解だ。それに、このアベルはいい奴そうだ。困らせたらいけない。
お兄さんは最低だけどな……。
そうだ。
バルナへ向かう前に、彼と兄との関係を確認しておこうと思った。
「隊長、ちょっと教えてもらいたいんだが」
「隊長はよしてくれ。アベルでいいよ」
「アベル、兄上とは不仲なのか?」
うちも不仲だ……。
「そうだな……兄上のやり方に異を唱えていたから……兄上は全て自分が正しいと思っていて……実際、頭はいいし行動力もあるけど、それで全ての物事を自分の意見を通したがってね……家督を継いだのが兄上だから、そこは仕方ないことなんだけど」
「俺は先日まで、アイリーン殿下の護衛でアロセル教皇領に行っていた」
「ああ……発表されていたな? 竜王復活を阻止する動きもしないといけない……ゴ軍なんかの相手をしてる場合じゃないんだけどなぁ」
「アイリーン殿下が上層部で信用されていないの、本当なのか?」
彼は苦笑しながら答えた。
「はは……敵国の最高責任者と通じていた女性だ……信用するのが難しいよ」
「あんたは? あんた個人は?」
「信用はしていない、という言い方になるな。ただ、改めて何かを思うとなると……王城で摂政補佐をする為に勉強をしていた時、何度も彼女と会ったが……気の毒だなという印象しかない」
「そうか……やはり、彼女は味方が周りにいないんだな」
過去の行いを、いつまでも許されないのだろう。
長寿であるからこそ、その苦痛の時間はとても長いのだ。
-Elliott-
ブルガエーシュを夜に出た俺は、森の中を東へ進む。この辺りは都市間の街道が整備されているので、森の中といっても、教皇領へと向かっていた際のように敵の目を気にして道なき道を進んでいた時とはわけが違う。
松明を借りていたので、それで道を照らしながら急ぎ、朝になっても歩き続け、休憩は水と軽食を口にするだけに留めた。昼間に浅い眠りをとり、夕刻から朝まで歩き続ける。
若いからできる無茶で、十一月二日の早朝にはバルナに入った。
ギルドが開くのを待って、建物へと入ると、受付の男性が俺を見て声をかけてきた。
「一番乗りとは熱心だな?」
「どうも。ちょっと人捜しでね」
「人狼だろ? 掲示板に貼ってるよ」
「ありがとう」
えっと? ……ディクソルという宿か。場所はここね? わかった。
俺は受付の男に礼を言って、サリウドがとっているという宿へと向かう。
ディクソルという名前の宿は、大きな施設で客も多い。
俺は宿の受付で、サリウドという名前で宿泊している人狼の連れだと言って名乗った。すると、サリウドが話をしてくれていたようで、受付が部屋番号を教えてくれる。
三階の五号室を前に、扉を叩く。
「俺だ。開けてくれ」
「俺とは誰だ?」
このやり取り、毎回やるつもりか?
「ブルガエーシュで大活躍したエリオットだよ」
扉が開き、肩を叩かれた。
「いや、早かったな?」
「大活躍したから早く終わったんだよ」
「彼女と同じ宿にした。出港を見送って待ってくれている。お前が船代を払えよ?」
「ありがたい。船代、いくらだ?」
「三等船室で三万シリグ」
俺は頷き、荷物を置いたところですぐに彼女と会おうとしたが、サリウドに止められた。
「おい、まず風呂に入れ。それから着替えて……臭いぞ」
「……お前の鼻だからだろ?」
「いや、差し引いても臭い」
「……」
こうして俺は、荷物から着替えを出し、宿の一階にある浴場を借りた。いくつもある個室のひとつへと入り、用意されている大きな桶から湯を手桶ですくう。そして頭からかぶった。
気持ちいい。
前世でも風呂は好きだった……皆から驚かれるほど風呂好きだったが、どうして風呂が好きだったんだろう? まぁ、人の好き嫌いなんてたいした理由はないのかもしれない。
石鹸で身体を洗い、湯で洗い流す。そうした後に身体を拭いて個室から出て、着替えをした。
もちろん、武器は持っていない。
下着の上にシャツと革ズボンという格好となって部屋へ戻ると、サリウドが汚れた衣服を宿に洗濯してもらう手配を終えてくれていた。係員がいて、俺の服を袋に入れて『エリオット様』と書いている。
「おお、気がきくな。ありがとう」
「俺のついでだ」
盗まれては困る片手剣と革の財布だけを持ち、サリウドの案内で三階の八号室の前に立つ。
サリウドが扉を叩いた。
「サリウドだ。エリオットが到着した」
室内から、パタパタという音が聞こえたと思うと、勢いよく扉が開かれる。そして、金髪碧眼の美女が俺をまっすぐに見ていた。
頭が痛い!
……彼女の情報が、映像となって脳内に再生される。
俺は頭を抱えながら、オメガに言う。
「オメガ……思い出した。ひさしぶり」
「……本当に……本当にエリオット?」
「……グーリットで、ヌリのおかげで一人前になれたエリオットだよ」
オメガはそこで、口を両手で覆うと目から涙を流しはじめた。
俺は、ヌリが生きているなんて思っていない。彼は人間だった……その彼を、相手に選んだオメガは、俺を失ったイングリッドのように、長いながい悲しみの中にいるのかもしれない。
「……ヌリの名前……出さないでよ。まだ……愛してるの」
彼女はそう言い、俺の胸に額を当てるとしばらく動かなかった。