03_彼女の日常 ~Side C ~ 午前
―― 喫茶店の店員の朝は左程早くはない。
東から昇った太陽が、地平にその姿を完全に現す頃、彼女は目覚める。
ベッドの上で身を起こし、そのままの姿勢で五分程うつらうつらとする。
まだ七分程睡眠に偏っていた意識が、徐々に覚醒に寄って来る。
九分程目が覚めた所でベッドを降りて伸びを一つ。
擦りガラスから差し込む日の光の中で、美しい金髪が揺れる。
「よしっ!」
―― ふんすっ! ―― と気合を一つ入れると、クローゼットから本日身に付ける下着を吟味する。
明るく淡い色合い、装飾の少ないシンプルなつくりだが、要所に小さなリボンなどのアクセントのついたそれらは、彼女のお気に入りのデザインである。
『見えない所のお洒落』
と、彼は言っていたが、こうして自分のお気に入りの下着を身に付けるようになると、今となっては無粋とも思われるさらしなどを身に付けていた時とは違い、なんだか心が躍るというか、気分が良いのもまた事実である。
なお、そっち方面においても大層盛り上がりに寄与すると、一部の女性の間では評判なのだが、彼女がその恩恵に預かった事は、今のところ、無い。
下着を選び終われば、今度は服の選定である。
とはいえ、基本的に彼女は仕事でも私事でも三色のメイド服をローテーションで着るのが常となっている。
流行の服等、自身で買い求めた服も持ってはいるが、エプロンを着けなければシックなワンピースに見えなくも無く、最近はメイド服で居る方が落ち着くというのが大きな理由でもある。
下着と服を手に取り一階の浴室へと向かうと、キッチンからはフローラが朝食の準備をしているであろう音が聞こえて来た。
彼とフローラによって、キッチンへの立ち入り禁止を言い渡されている彼女としては、『再度の機会を!』 と意気込んでいるのだが、今のところその機会は与えられていない。
―― 解せぬ ――
心の中で彼の口調を真似て呟きながら、脱衣所の扉を開ける。
身に纏った寝巻を脱ぐと、先に湯浴みを済ませたのであろうフローラのバスローブが入れられた洗濯籠の中に重ねる。
浴室へ入り、魔具に軽く魔力を通してシャワーを起動する。
少し高めの温度が彼女の好みである。
長い髪を丁寧に洗い流す。
寝ている間に、多少なりとも絡まり、癖のついた髪がその本来の姿を取り戻す。
続いて泡立てた石鹸で体を洗う。
泡と共に寝汗と眠気を洗い流す。
浴室を出て清潔なバスタオルで水気を取る。
軽く髪を結いあげてから下着を身に付ける。
持たざる者からすれば暴力にも近い、たわわに実ったそれを苦労しながら押し込む。
本人は『重いだけで肩も凝るし大変なんですよ』などと謙遜してみせるが、持たざる者からすればその発言すら火に油。時に羨望を通り越し殺意すらこもった目で見られるのだが、彼女はそれに気付いていない。
げに持つ者の幸福とは、その対岸にいる者を無自覚に絶望させるものなのである。
下着を身に付けたら、今度は肌のお手入れである。
化粧水を叩き、その上から乳液を広げる。
顔だけでなく、手足の末端まで広げる。
手入れの終わった肌をところどころ突っついて肌の調子を確認すると、自然と笑顔になる。
結っていた髪を解いてドライヤーを当てる。
髪の長い彼女にとって、これが一番時間のかかる作業となる。
温風を当てながら梳ると、しっとりと濡れていた髪がさらさらとした感触を取り戻す。
軽く頭を振って流れる髪の感触を確認する。
「うん!」
鏡に向かって笑顔を一つ。
後はワンピースに袖を通せば、朝の身支度は完成である。
§
「おはようございます!」
声をあげながらキッチンを覗き込むと、焼きたてのパン、ベーコンの焼ける匂い、そして温められたコーヒーの香りが鼻腔を刺激する。
白米優勢なこの家において、朝食がパンというのは少々珍しい。
「おはよう。これ、お願いできるかしら」
そう言われて手渡されたのは三枚のモーニングプレート。
「は~い」
両手に左腕、器用に三枚の皿を受け取ると、ダイニングへ運ぶ。
それぞれの席へ皿を並べていると、パンの入ったバスケットを抱えた彼がダイニングに姿を現す。
「今日はパンなんですね」
バスケットに顔を近付け、すんすんとを鼻を鳴らしながらパンの香りを楽しむ。
白米の香りは、『今日もしっかり食べて頑張りましょう』という気分になるが、パンの香ばしい香りは気分も軽やかになるようでなんだか心が沸き立つ。
「ま、たまにはな」
そう言って、抱えていたバスケットをテーブルの中央へ置き、手にしていたジャムとマーマレードの瓶を添える。
「このマーマレード美味しいんですよね」
瓶の蓋を開けて、その甘酸っぱい香りを楽しむ。
自分の席に着いて改めてモーニングプレートを眺めれば、野菜のサラダ、焼かれたベーコンにスクランブルエッグ、朝食らしく少し軽めな、パンに良く合うであろう品が乗せられていた。
ジャムの瓶を日に透かしてみたり、彼と何気ない会話を一つ、二つとしていると、コーヒーの香りと共にフローラが姿を現す。
デカンタからそれぞれのカップにコーヒーが注がれ、各々の前に置くと、フローラも席に着く。
『いただきます』
三人揃って軽く手を合わせて、食事前のいつもの挨拶。
それが終われば楽しい食事の始まりだ。
まずはカフェオレを作る。
砂糖をコーヒーに入れて溶かす。次に温められたミルクを注げば、濃褐色だったコーヒーは淡く色を変える。
最後にシナモンスティックで数回かき混ぜれば、彼女好みのカフェオレの完成。
「あれ?」
鼻歌を歌いながらカフェオレを作ったクレアが、一口それを口に含み首を傾げる。
「いつもお店で出しているコーヒーとちょっと違うような?」
そう言ってもう一口、今度は味を確かめるようにゆっくりと。
分量はいつもと変わらない筈だが、甘味がいつもより強い気がする。
シナモンの香りも、いつもより強い。
「ええ、ちょっと淹れ方を変えてみたの。どうかしら?」
彼女の疑問にフローラが答える。
「そうですね……いつもと同じだけミルクと砂糖を入れてしまうと、少しコーヒーの味が弱いかも知れません。シナモンの香りもいつもより強く感じますね」
素直な感想を口にする。
「やっぱりそう思う?」
然したる疑問も無いようにフローラも頷く。どうやらクレアの反応は予想の範疇であったようだ。
「そういえば、今日のクレアの予定は?」
ベーコンを乗せたパンに噛り付いていた彼が訊ねてくる。
「そうですね、今日はお店の方はお休みを頂いてますし、街の外まで薬草の採取にでも行こうかと思ってます」
こちらは千切ったパンにママレードを塗りながらクレアが答える。
「それはお休みと言えるのかしらね……」
サラダを口に運ぼうとしていたフローラが苦笑しながら合の手を入れる。
「まぁ、グリやフォンのお散歩も兼ねてといったところですね。たまには街の外で自由にさせたいなと。採取はそのついでです。どうせ群生地まで足を延ばしますし、良いかなと」
そう言ってからパンを口に運び、その味に笑みを零す。
「それならお弁当も有った方が良いかしらね。余ったパンでサンドイッチでも作っておこうかしら」
冷蔵庫の中身を思い出しながらフーラが訊ねる。
「あ、良いですね! お願いできますか?」
「ええ」
フローラの言葉に目を輝かせるクレアに、彼女は優しく微笑む。
そうして本日の予定も決まり、後は他愛のない事を語りながら朝食を終えれば、各々の一日が始まる。
§
自室に戻り鏡台の前に座る。
鏡台の引き出しを開ければ、そこにはいくつかの可愛らしいアクセサリが納められていた。
元々、華美に着飾る事にあまり興味のない三人娘。しかし、少々過保護のきらいのある彼が、どうせ常に身に付けるならと苦心して作成したそれらは、その実アクセサリに見せかけた魔具の数々である。
銀色の細い鎖で作られたアンクレット、細い三つの輪が絡まる金色のバングル、少し長めのネックレスは胸元に月を模した飾りが付けられている。
銀のイヤリングには短い鎖が付いており、その先には彼女の瞳の色に合わせた小さな青い石が揺れていた。
鏡に向かってイヤリングの鎖を弾く。差し込む日の光の中で揺れるそれをみて少しだけにんまり。
興味が薄いとは言え、やはり彼女も女の子なのである。
壁にかけられていたポシェット型の収納袋を肩にかけて中身を確認。
「あの子達のご飯は……大丈夫ですね」
フローラの収納袋に比べれば容量は小さめだが、代わりにクレアの収納袋には『時間停止』が付与されている。
一緒に出掛ける事の多いクレアは、その中にグリとフォンのご飯を常備しているのだ。
身支度を整えて部屋を出る。
「はいこれ」
一階に降りてキッチンを覗いたら、フローラにバスケットを渡される。
「ありがとうございますっ。行ってきますね」
笑顔で受け取り、お出掛けの挨拶。
「行ってらっしゃい。あまり遅くなるようならないようにね?」
「は~い」
お決まりの言葉を背中で受けながら、ドアを開け家を出る。
朝一番というには少し遅い時間に街が活気だつ気配。
空を見上げれば雲一つない青い空。
手にはお弁当の入ったランチバスケット。
―― 休日の始まりは、こんなのが素敵だ ――
そんな事を考えながら、彼女はお出掛けの第一歩を踏み出すのだった。
§
左手にはランチバスケット。空いている右手で隣を歩くフォンの頭を時折撫でながら、彼女は大手を振って街頭を往く。
やがて見えて来るのは一際大きな一軒の建物。この街の冒険者ギルドである。
入り口の横で、ここで待つように言い含めると、フォンは蹲り丸くなる。
小さな子供を褒めるかのように頭を一撫でし、ギルドの扉を開けて中に入る。
本日の依頼の張り出しからそれなりに時間が経っており、実入りの良さそうな依頼は全て剥がされてしまい、隙間の目立つようになった掲示板を眺める。
その片隅の常設依頼のところに、いつも通り薬草採取が張り出されている事を確認する。
採取系の常設依頼の場合、受領票を発行してもらう必要は無く、現物を納品するだけで達成となる。
また、重複の達成も認められており、駆け出し冒険者にとっては貴重な収入源でもある。
「クレアさん!」
薬草採取の他に、ついでにこなせそうな依頼が無いかと掲示板を眺めていたクレアを大きな声で呼ぶ者が居た。
驚いて一瞬身を震わせたクレアがうんざりした様な顔で振り返る。
「また貴方ですか……」
基本的に人当たりの良いクレアが、人を前にしてこうまで露骨に嫌悪感を覗かせるのは珍しい事と言える。
その偉業を成した人物はと言えば、燃える様な赤毛に濃灰色の瞳、爽やかな笑みを浮かべた美男子であった。
「クレアさん! 今日こそ僕のパーティーに入ってもらうよ!」
クレアのあからさまな嫌悪の表情を意に介する事も無く、いつものように彼女の勧誘を始める。そういうところが嫌悪されているのだが、彼にはその自覚が無いらしい。
「そのお話でしたら、何度もお断りしている筈ですが?」
うんざりしながら、何度目になるか数えるのも億劫になった返答。
「何故だい? 僕はこの街でも期待の冒険者、パーティーだって将来Aランク間違いなしと言われている新進気鋭のパーティーだよ?」
それに対する返答もまた、数えるのも億劫になるほど聞いた言葉だった。
他メンバーとの兼ね合いもあるので、パーティーランクこそD4だが、冒険者登録をしてわずか一年足らずで個人Cランクに昇格するだけの実力はあるのだろう。
ギルドから将来有望と目され、見た目も相まって女性の支持者も多いらしい。事実、彼のパーティーのメンバーは、彼以外全員女性である。
普通の女性冒険者であれば、彼から誘いを受ければ一も二も無く飛びつくに違いない。
普通であれば、の話だが。
「何度も言っていますが、私は既にパーティーに所属しています。そのパーティーを抜ける事なんて考えた事もありません」
クレアにとっては至極当然の事を言っているのだが、どうにもこの男には言葉が通じていないらしい。
「貴女の様なか弱い女性が、女性だけのパーティーにいるだなんてとんでもない。僕は心配で夜も眠れないよ。僕が貴女をパーティーに入れてあげれば、いつだって僕が傍で貴女を守ってあげられる! それに、今みたいに一人で常設依頼なんて惨めな事をしなくても、僕と一緒ならもっと割の良い依頼を受けられる。どうせ他のメンバーに言われて嫌々やっているんだろう?」
言っているうちに自分に酔って来たのか、その言葉は徐々に熱を帯びていく。
「これも何度も説明していますが、私は個人Sランクですし、私達のパーティーはS3です。受けられる依頼の幅も、その報酬も貴方方とは比べ物にならないのですよ? なぜわざわざランクを下げ、実入りの悪い依頼を受けてまで貴方方のお守をしなくてはならないのですか?」
実際のところ、依頼の報酬よりもその副産物として持ち込む魔物、魔獣の素材の方ではるかに利益を出しているし、なんなら慎ましくしなくても一生暮らせるだけの資産があるのだが、それはここでは黙っておく。
「女性だてらに冒険者をやっているからと見栄を張っているんだろう? 貴女がギルド職員と仲が良いのは知っているが、だからといってランクの詐称はいけないなぁ。大丈夫、僕はちゃあんとわかっているからね、この事は内緒にしておいてあげるよ」
そう言って片目を瞑って見せる。
彼の取り巻き達はきゃあきゃあと黄色い声をあげているが、クレアからしてみれば怖気の走る類のものでしかない。
しかもこの男、全くの善意で言っているのである。それ故に自分に都合の良い事しか聞こえないし理解出来ない。げに自己中心の善意とは、時に悪意よりも質の悪いものなのである。
「これ以上貴方と話す事は有りませんし、何度声をかけられても答えは否です。もう良いですね? 私にも予定がありますので」
溜息を一つ吐いて話を打ち切り、男の横を通り過ぎる。
―― 楽しい休日のはずなのに、最初からけちが付いてしまった。――
そんな思いと共にギルドを出ようとしていたクレアの手が掴まれ、引き留められる。
「なんのつもりですか?」
振り返り、自分の腕を掴んでいる人間に、些か剣呑な目を向ける。
「どうしてそんなに頑ななんだい? それに、予定と言ったってどうせ常設依頼を一人でこなすつもりなんだろう? 本当にSランクだったらそんな小銭稼ぎなんてしなくても良い筈じゃないか。貴女にだけ働かせているような連中に何を義理立てしているんだい? 貴女とパーティーの連中の間に何があったかは知らないが、貴女は十分に義理を果たしているだろう」
よくもまあ長々と妄想を語る事が出来るものだと飽きれながらその手を振り払うクレアの目は、先程よりも不快さと剣呑さを増していた。
だが、自分に酔いながら妄想を垂れ流すこの男はそれに気付かない。
「そうだ! 貴女が言い難いのなら僕が代わりに言ってあげよう! 僕だってCランク冒険者だからね、ランク詐称している連中に言う事を聞かせるなんて訳ないさ!」
自らを識者と思い込む愚者は尚も囀る。
その囀りが、聞く者によってはただ不快な雑音でしかないという事に気付かづに。
彼は言っていた。
―― 堪忍袋の緒は、切れる為にあるもんだ。 ――
堪忍袋が何かという事は具体的には解らなかったが、とにかく人間の我慢には限界があるという事なのだろうと彼女は理解した。
「ミリーさん……」
カウンターの中からはらはらした様子でこちらを窺っていた受付嬢に声をかける。
―― 彼女のものとは思えない程に低く冷たい声で。 ――
「は、はいっ!」
基本的に、『冒険者側から申し出がない限り、冒険者同士のやり取りには不介入』という規則がある為、二人のやり取りに立ち入る事が出来ず、ただ見守るしか出来なかったミリーであるが、ここに来てようやく介入する大義名分を得る。
散々気を揉んでいた彼女としては、諸手を挙げて介入したいところではあるが、先程のクレアの声に若干腰が引けている様にも見える。
「『決闘』の申請をします。対戦者は私とこの人。あぁ、なんだったら貴方のパーティー全員でも構いませんよ? たかだかパーティーD4ランク、個人Sの私とはそれでも釣り合いが取れませんけどね」
この場に居合わせた者は驚くべきかもしれない。怒った所など見せた事も無く、いつも温和な笑顔を浮かべていたクレアが、冷たい目と声で、人を見下すような発言をしているのだから。
「な、何を言っているんだ!? Cランク冒険者の僕が女性に手を上げるなんて出来る訳無いだろう!」
「私からこの人に望むのは、今後一切、私と私のパーティーに近付かない事です」
何やら喚いている声を無視してミリーへ決闘の条件を告げる。
「ぼ、僕の話を聞いているのか!」
無視された事にも腹を立てた男が、語気荒く詰め寄りクレアの肩を掴もうとするが、それをついと躱すと男に向き直る。
「負けるのが怖いのなら逃げて頂いて結構ですよ。ただし、貴方の不戦敗という事にしますので決闘の申請書に署名だけはお願いしますね」
あからさまな冷笑を浮かべて言葉を紡ぐその姿は、それなりに付き合いの長いミリーであっても見た覚えの無いものであった。
「だから僕の話を! ……いや、成程そういう事か!」
クレアの態度と言葉に憤慨していた男が、何事か得心がいったかのように頷く。
「いいだろう、その決闘受けようじゃないか。ただし、相手をするのは僕一人だ。僕の可愛い仲間達も貴女の言動には腹を立てているに違いない。もしかするとやり過ぎてしまうかもしれないからね」
そう言ってさわやかな笑顔で片目を瞑って見せる。
ミリーの提示した書類に何事か記入中のクレアはそんなものは一切見ておらず、若干面食らった風ではあるが、気を取り直してミリーに向かって宣言する。
「さあミリー嬢、決闘申請書を出してくれ!」
「はぁ……」
芝居がかった動作で差し出された手に、先程クレアが記入していた書類を手渡す。
「クレアさんが書くべきところは記入済です。後は、貴方のお名前と、勝利した際に何を望むのかだけ御記入下さい」
「僕が望む事? そんな事は決まっているじゃないか、クレアさんをこんな劣悪な暮らしから救済してあげ――」
「あ、別に口に出さなくて良いんでとっとと記入して下さい」
半ば呆れたミリーから冷めた声で言われ、ぶつぶつと不満を漏らしながら記入している姿を横目で見ながら、ミリーがクレアに耳打ちする。
「本当に良いんですか?」
「ええ、構いませんよ。好い加減あの人の相手をするのにも辟易していたところです」
心配そうなミリーにそう答えながら、収納袋から一本の棍棒を取り出す。
「まぁ、やり過ぎないように注意しますから心配はいりませんよ」
「いや、そうでは無くてですね」
ミリーの心配も無理からぬ事と言えるだろう。
いくら個人Sランクとは言え、クレアは回復職である。その評価の大部分は、彼女の回復職としての能力に帰する部分が大きい。
彼女の所属する『路地裏の女子会』の功績は疑うべくも無いが、それとてフローラとオフィーリアという火力があっての事と考えるのが当然なのだから。
§
「それではこれより、冒険者ギルドの規約に則り両者の『決闘』を開始します。立会人は、私ミリーが努めます」
魔都の冒険者ギルド正面の広場に、ミリーの声が響く。
魔都に限らず、全ての冒険者ギルドは正面にこうした広場を設けているが、その理由がこれであった。
所謂『荒くれ者』が多い冒険者達のやり取りにおいて、口論から暴力沙汰に発展するのはある意味当然の帰結と言える。
とはいえ、過去において一部の冒険者がその腕力を頼りに、自分よりも下位の冒険者を脅して言う事を聞かせるという事例が相次ぎ、遂には騎士団が出動するような事態となった事が有った。
そこに至り、独立組織としての自治能力を疑われ、国の介入を許しそうになった冒険者ギルドが打ち立てた規約が、この決闘という制度である。
曰く、
・冒険者同士の暴力沙汰を(少なくとも街中では)禁止する。
・力によって解決を望むのであれば、ギルド職員を第三者の公正なる立会人として置き、これを執り行う。
・この『決闘』は、当事者双方の合意を以て執り行われ、その合意を強制する事を固く禁ずる。
・『決闘』に際し相手に望む事は、事前に申請書に記載されたものに限る。
・上記に反した者については、ギルドから永久追放とし、冒険者としての資格を永久に失う。
そんな訳で、冒険者ギルド前の広場とは、市民の憩いの場であると同時に、この物騒な見世物の舞台でもあった。
広場の中央に十歩ほどの距離を挟んで二人が立つ。
ギルドの職員がその周りに【防壁】の魔法を発動させる為に、備え付きの魔具に魔力を注ごうとしたところでクレアの声がかかる。
「あ、私がやった方が確実ですから」
そう言って手を一振りすると、魔具で展開されるそれよりも強固かつ広範囲な【防壁】が広場を包む。
これだけの魔法を、無詠唱かつ一動作で展開するクレアの実力に、見物していた冒険者達からも驚きの声が漏れる。
噂のS3パーティーの一員とは言え、その実力を直接見た者は少なく、その(個人ランクも含めた)ランクに懐疑的な声もそれなりに囁かれていた。
だが、少なくともこの場に居合わせた者達は、その実力の一端を目にし、認めざるを得なかったのである。
「双方準備は宜しいですか?」
無手のまま半身に構えたクレアと、剣を抜きもせずに腰に手を当てて胸を張っている男に声がかかる。
「いつでもどうぞ」
「構わないとも!」
二人の声にミリーは頷き、掲げた手を振り下ろす。
「はじめ!」
その声を聞いて、ゆっくりと剣を抜きながら男が声をあげる。
「さぁクレアさん。もう茶番は良いだろう? 大方今まで断ってきた手前、素直に返事をするのが恥ずかしかったとかそんなところだろう。こうやって決闘に持ち込めば言い訳もつくからね。あとは貴女が降参してく――」
「【聖条光】」
「――ひっ!」
何事か語っている男の頬を、一条の光が掠める。
クレアが突き出した左手の指から放たれたそれは、男の頬を掠めると共にその皮を裂き、肉を焼いていた。
「い、いきなり何をするんだ!」
「知りませんか? 光属性の魔法にも攻撃魔法はあるんですよ。尤も、第五階位からなので知らない人も多いですが」
危ういところで回避した男が激昂するが、そんな事は意に介さず冷淡に説明するクレア。
「そういう事を言ってるんじゃない! 人が話をしている時にいきなり攻撃するなんて卑怯じゃないか!」
「卑怯、ですか?」
男の言っている事が理解出来ずにクレアは首を傾げる。
「そ、そうだ! まだ僕が話をしている最中だったろう! 折角貴方の為を思って話をしてあげているのに!」
男の言葉に、クレアは一つ溜息を吐く。
「……何を馬鹿な事を……」
「なっ!? ば、馬鹿だとぉ!?」
激昂する男を殊更冷めた目で見ながらクレアは語る。
「ミリーさんの声を聞いていなかったんですか? 決闘は既に始まっているんですよ? それとも貴方は、魔獣や魔物に襲われた時も一々そうやって卑怯だなんだと騒いでいるのですか? 個人Cランクと言っていましたが、良くそれで生き残れましたね。余程運が良かったのでしょうか?」
「なっ、なっ!」
普段の穏やかな所作からは想像も出来ない様な嘲笑を含んだクレアの言葉に、男の頭に血が上る。
「もういいっ! 手加減してやるつもりだったが、そっちがその気ならもう容赦しねぇぞ! 」
そう叫ぶと抜き放った剣を両手に構える。
「あら、似非紳士の仮面が剥がれてますが良いのですか? 皆見ていますよ?」
「うるせぇ! うるせぇ!」
クレアの指摘通り、普段被っている薄っぺらな仮面を脱ぎ捨て、取り繕う余裕も無く叫び声をあげる。
「思ったよりも単純な方だったんですねぇ。最初からこうしておけば良かったでしょうか……」
溜息を吐くクレアに、男が襲い掛かる。
技巧も何もない力任せの馬鹿正直な一撃。
それでも、仮にも個人Cランクの斬撃、当たりさえすれば腕の一本は奪う事が出来ただろう。
正面で受ければ、或いはクレアは二等分にされていたかもしれない。
当たれば、の話ではあるが。
男が切りかかってくる姿を、クレアは黙って見据える。
目を逸らす事無く、一歩たりとも動くことなく、ただ ……
―― キンッ ――
…… 腕を一つ、振った。
「ば、馬鹿な!?」
男の全力の斬撃は、だがクレアに届くことは無く、彼と彼女の間に現れた透明な薄い光の壁に阻まれていた。
「こ、これはっ!?」
「さっきも見せたでしょう。光属性魔法第一階位の【防壁】ですよ」
確かにそれは【防壁】の魔法ではある。
但し、男の知るそれとは、あまりに似て非なるモノ。その剣を受けて小動もしない強度を持ち合わせていた。
「馬鹿な! たかが第一階位の魔法で俺の剣が防げる筈がねぇ!」
事実、並の冒険者の【防壁】であれば、砕けないまでもある程度の衝撃を与える事は出来ていた筈だ。
そうやって男は、今までも格下の冒険者の【防壁】を砕き、痛めつけた事があるのだから。
「勉強不足ですね。階位とは、基本的に魔術の複雑さの指標なんです。魔法の"強さ"とは、どれだけ魔力を込めたかで決まるものですよ」
―― まぁ、複雑故に効果も高いという側面があるのは否定しませんが ――
そう思いながらクレアは、第一階位の【火球】で、個人Aランク冒険者の使う第七階位【業炎】以上の威力を出す友人の顔を思い浮かべていた。
§
どれだけの時間が過ぎたろう。
五分か十分か、或いはもっと短い時間かも知れない。
広場には、金属同士がぶつかるような甲高い音が響いていた。
「くそっ! くそっ!」
額に汗を浮かべながら遮二無二振り回す男。
その場から一歩も動かずに、光の壁の向こうから冷めた目で男を眺めるクレア。
動と静、二人の様相は酷く対照的なものとなっていた。
男と、そしてそれを見守る観衆は気付いただろうか。
彼女は、広場を覆う【防壁】を維持し続けたまま、自らを守る【防壁】を展開しているのである。
複数の魔法、それも同種の魔法の複数同時発動。
それを詠唱もせずにただの一挙動で実現し、涼し気な顔で維持し続ける。
それがどれだけ非凡な事であるか、魔法を志した事のある者であれば、それだけで震え上がる事請け合いである。
「そろそろ諦めたらどうですか? いくら頑張っても、貴方では私のこれを崩す事は出来ませんよ」
静かな声でそう提案するクレア。
「うるせぇうるせぇっ! 守るばかりの卑怯モンが偉そうな口きいてんじゃねぇよ! そっちだって俺の剣の前に手も足も出ねぇじゃねぇか!」
血走った目で唾を吐きながら男が吠える。
それを聞いたクレアは溜息を一つ漏らす。
―― 『出ない』ではなく、『出さない』なんですけどね ――
「そもそものお話ですが、私は後衛ですよ? 前衛と同じように戦うなんて馬鹿な事をする筈がないじゃありませんか」
かつて『勇者パーティー』と呼ばれていた旅の途中で彼に言われた事が有る。
後衛だからと言ってただ突っ立って魔法を使っているだけでは駄目だと。
これから先、多数の敵を相手にする際に、前衛が抜かれる事も考えられる。
その時に、その敵を倒せないまでも、せめて前衛が戻るまでの時間を稼ぐだけの手段が無ければ、その時はただ無為に死んでいくだけだと。
そう言われてクレアが考え、辿り着き、練り上げたのが先程の【防壁】である。
詠唱を破棄し、腕の一振りだけで発動するそれは、その実膨大な魔力が注ぎ込まれており、フローラの斬撃やオフィーリアの魔法とも拮抗出来る程の堅牢さを持ち合わせていた。
「とは言え、そうですね……」
少しだけ考えるような仕草を見せた後、何かを追い払うかのように軽く手を一つ振る。
「なっ?、ぐはっ!」
クレアの手に合わせたかのように【防壁】がその領域を広げ、男を押し戻す。
男が最初の位置に戻ったあたりで【防壁】がその姿を消した。
「な、なんのつもりだ!」
息を切らせながらそう問う男を無視して、クレアは『収納袋』から一本の棍棒を取り出す。
「おはようございます『メアリー』。気分はどうですか?」
何者かに問いかけるクレアの耳に、
<おはようございますマスター。ええ、気分は上々です>
そう答える声が届く。
「それは良かったです。少しお手伝いをお願いしますね」
<問題ありません。万事お任せください>
相棒の心強い声に微笑みながら、右手に棍棒を下げたまま男に正対する。
「どうぞかかって来て下さい。そろそろ時間も勿体ないですし、【防壁】は使わないであげますから。それと、怪我の心配なら必要ありませんよ、どんな怪我であっても私が治してあげます」
本人の言う通り、クレアは後衛である。その彼女が、発した言葉に男は激情する。
手加減してやると、怪我をするのはお前の方だと、ただの後衛でしかない目の前の女が、個人Cランクまで駆け上がった自分に対して言い放ったのである。
「クソがあああああああああああっ!」
男が吠える。そして駆け出す。
手に持った剣を諸手で大上段に振りかぶり、駆け引きも技巧も無く、ただ己の全力でその剣を振り下ろす。
目の前の女を切り殺す為だけに。
確かにそれはCランクの剣士らしい斬撃であったろう。
だが、
クレアはそれを冷めた目で見つめる。
彼女が見て来たのは、事実上世界最強の前衛である友人の姿。
その鋭さも、その速さも無い、クレアから見れば、言わば凡庸な一撃。
クレアが一歩下がる。
ただそれだけで男の剣は空を切る。
下がりながら振り上げた棍棒を、そのまま振り下ろす。
男の剣に伝わる衝撃。その衝撃に耐えて剣を取り落さなかったのは僥倖と言うべきだろう。
剣を失えば男に戦う術は無くなるのだから。
だがしかし、この場においてそれは悪手であったと言える。
その手を放していれば、剣はただ地に落ちただけで済んだかもしれない。だが、クレアの棍棒と男の剣では、その材質からして格が違う。
そうして男の手と地面に支えられた剣は、
―― ぽきんっ。と ――
折れた。
刃渡りが二つに折れ、その剣としての役割をあっけなくも放棄して見せた。
「がふっ!?」
その事に驚く間もなく、振り下ろされていた棍棒が跳ね上がり、男の顎を捕らえる。
かち上げられた顔が戻る時、その衝撃に耐えかねた体はひざを折り、今度こそ剣を手放した両手で地面を支える。
痛みに耐えて顔を上げれば、まるで男の事など意に介さずに、手にしていた棍棒を『収納袋』にしまい込んでいるクレアの姿が有った。
「もう終わりですか? まさか武器がその剣一本しかないという事は無いですよね? 」
男を見下ろしクレアが問う。が、男は何を言われているのか即座に理解が出来ない。
「もしかして、本当にそれ一本しか持っていないんですか?」
呆れた様な声を聞き、その言わんとするところを、呆れられているのだと、自分が見下されているのだと痛みに耐える頭で理解する。
実際のところ、クレアの言う様に得物を複数持ち歩く冒険者はそれほど多くない。
そこまで気が回らないというのもあるし、予備の得物に回すほどの資金も無いという者も多い。また、現実問題としてそれほど荷物を持ち運べないという事もままある。
よしんば持っていたとしても、護身用の短剣が一本というのが精々だ。
だが、クレアの常識は彼女の仲間達によって育まれたものだ。
彼女は、自分が非常識の中にいる事に気付かない。
何故なら、その非常識が彼女の常識なのだから。
が、そんな事は男の知った事では無く、本来なら非力であり、自分が庇護してやるべき存在であり、自分を褒め称えるべきはずの存在。
そう認識していた彼女に、その実、自分の方が手も足も出ず、自慢の得物は容易く手折られ、今はまるで跪くかの様な姿勢を取らされ、剰え侮蔑の言葉すらかけられている。
その事実が、激情が男を動かす。
最早正気とは言えぬ思考で、
「ああああああああああああっ!」
獣の如き咆哮をあげながら、
立ち上がり、拳を振り上げ、目の前の女にそれを叩き付ける。
が、それもまた届かない。
掌で受け止められたそれは、勢いはそのままに横に流される。
受け流した掌の代わりに前に出てきたクレアの肘が、そのまま男の顎先に入る。
脳が揺さぶられ膝が笑う。
朦朧とする意識の中、それでも伸ばした手が、クレアの胸倉をつかむ事に成功する。
その感触に、男の脳が歓喜に沸く。
ようやく捕まえた!
捕まえてしまえばあとは力比べだ。
非力な女など、力で圧し潰してしまえば良い。
ほんの僅か残った理性がそう囁く。
その動作すら、次の一手の呼び水に過ぎない事に気付かずに。
クレアの胸倉をつかんだ右手に、彼女の右手が添えられる。
間を置かずに、今度はクレアの左手が男の関節に入り、その為に男の関節は強制的に折りたたまれる事になる。
胸ぐらを掴まれたままクレアが一歩前に出る。
男のふらついた足はそれを支える事も出来ずに、後方へと倒れ込む事になる。
「かはっ!」
背中と後頭部を強かに地面に打ち付け、男の口から強制的に排出された息が漏れる。
が、その痛みに耐える間も無く、今度はクレアの体重を乗せた肘が顔面に……
「ひっ!」
入るかと思われたが、僅かにその軌道をずらし、それは男の頬を浅く切り裂くに止まった。
「あ……かっ……」
頬を切り裂かれた痛み、極度の疲労と恐怖の中、男はその意識を手放した……。
「ふぅ……」
立ち上がったクレアが溜息を吐く。
「最後に捕まれてしまいましたか、私もまだまだですね」
そう呟きながら胸元を叩き、襟を整える。
それから指を一つ鳴らし、広場を覆っていた【防壁】解除する。
「ミリーさん。これで決着はついたという事で宜しいですか?」
些か呆然としているミリーに声をかける。
ミリーとしては、クレアが男に負けることは無いと確信してはいたが、あくまで魔法で押し切ると考えていたのである。
まさか、仮にもCランクの前衛相手に近接戦闘で圧倒するなどとは埒外の結果であったから、彼女の自失も無理からぬ事だったかもしれない。
「あ、はい! この『決闘』は、クレアさんの勝利と認めます! それに伴い、アンディさんには事前に取り交わした制約を履行する義務が生じます。これを破った場合、ギルドとしての罰が課せられますので……って、聞いてませんね……」
ミリーの視線の先には、気を失ったままの男が寝転んでいた。
そう言えばそんな名前だったとミリーの声を聞きながら、蹲って欠伸をしているフォンに声をかけると、クレアは何事も無かったかのような澄まし顔で広場を後にする。
すり寄ってきたフォンの頭を撫でながら空を仰ぐ。
「行きましょうか」
少々時間を取られてしまったが、彼女の休日はまだ始まったばかりなのである。
長くなったので二つに分けました。